レイテ島からのハガキ

先日、『探偵!ナイトスクープ』を観ていたときのことであった。60代中盤の男性から、こんな依頼があったのだ:「自分の父は、新婚5か月で出征し、レイテ島で戦死したのだが、その父が、母の胎内に自分が育まれていたことを知っていたのかどうかを知りたい。」御母堂は数年前に亡くなられたのだそうだが、その遺品を整理していたとき、父から母に送られたと思われる葉書が二通出てきた。御母堂が何度も何度も読み返していた鉛筆書きのその葉書は、文字がかすれて判読に苦労するような状態で、特にそのうちの一通はほとんど記述を読み取ることができず、またその最後の四行は文字を判別することもできない。しかし、その葉書を見ていると、「身重」と書かれているように感ずる箇所がある。ここに「身重」と書かれているのかどうかを、調べていただけないだろうか。そういう依頼であった。

男性と探偵の麒麟・田村氏は、まず拡大コピーで読み取ることを試みるが、問題の記述の箇所は不鮮明で、特に二文字目が「重」というよりは「実」であるようにも見える。そこでデジタルメディア系の専門学校にこの葉書を持ち込む。学校の教授は、この葉書をスキャンして、Photoshop で画像処理して読み取ろうとするが、二文字目のところに丁度紙の皺があるために、皺のコントラストで文字が潰れてしまい、判読には至らなかった。

彼らは、独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所に赴き、この葉書の読み取りを依頼する。ここで、この葉書が鉛筆で書かれていたことが幸いする。鉛筆は黒鉛なので、墨と同じく赤外線の吸収が大きい。そこで、ガラス板で押えて赤外線撮影を行い、ある程度コントラストが得られた画像のネガとポジを重ね、両者をわずかにずらす。これは「レリーフ・フォト」と呼ばれるもので、数学的に言うと、微分処理でコントラストの変化するところ、つまり輪郭を検出しているのと同じことをしているのだが、これによって鮮明になった文書に対し、古文書の読み取りを専門とする係官の協力を得ながら、研究所のスタッフが読み取りを試みた。

しばらく経ってから再び研究所を訪れた彼らに、研究所のスタッフは、葉書をほぼ全て読み取ることができた、と言い、問題の箇所はまず「身重」で間違いない、と断定する。そして、

「我々が『身重』だと断言できる理由は、お読みになっていなかった最後の四行の部分に隠されています」
「もう、多分、覚悟の上の、辞世に近い歌だと思うんですが、和歌を三首詠まれています」

と言う。解読された葉書のコピーの最後に書かれている歌を男性が読み始めた、その二首目であった。

  頼むぞと 親兄姉に求めしが
      心引かるゝ 妊娠の妻
これが、問題の箇所を「身重」と読んだ証拠である。

そして男性は、その葉書を最初から読み始めた:

インキと煙草を持つて来なかつた故(ゆえ)不自由してゐるよ。やはり持つ物は持つべきだね。お前は大阪にゐる時から出征したらどこかに働きに行くと言つてゐたが、それは許さんぞ。どんな事があつても身重であるお前が働きに行く事は許可せん。兎角(とにかく)お互いが元気で会う日迄(まで)元気よく日々をすごそうではないか。亦(また)帰れば新婚の様な気持ちで日を送ろう。大三輪神社思ひ出すよ。八日の晩の映画思ひ出して仕方ない。でもお互いが別れた今は帰る迄仕方ないやないか。何回もいふ事であるが、勝手な行動丈(だけ)は厳禁するよ。最後に 酔ふ心君に訴ふ事ばかりただに言へない吾(あ)が胸の内 頼むぞと親兄姉に求めしが心引かるゝ妊娠の妻 駅頭で万歳叫ぶ君の声胸に残らむ昨夜も今朝も 元気で。(返信不要)

最後尾以外のカッコは僕の追記。「大三輪神社」とあるのは、奈良県桜井市にある三輪明神大神――これで「おおみわ」と読む――神社の誤記だと思われる。ちなみに「吾が」を「あが」と書いたのは、「わが」と読めないこともないのだけど、これは自分の妻に宛てているので「あが」と読む方が(少なくとも僕の言語感覚においては)しっくりくると思う。

これ以上、僕は多くのことを言いたくない。しかし、こんな手紙を書き、こんな歌を詠み、こんな思いを持つ人が、一兵卒として勝ち目のない戦場に投入され、妻やまだ見ぬ我が子を思いながら死んでいったのか、と思うと、ただただ胸が痛む。戦争というものは、人のこういう機微をいともたやすく蹂躙し、破壊してしまうのだ。それだけは書いておこうと思う。

国語力を考える

実は、知人からお子さんに関して相談を受けている。知人は、そのお子さんがもう少し読解や論述の力をつけるべきだと感じているそうで、国語力を鍛えたいのだけどどうしたらよいか、ということで、僕のところに話を持ってこられた。僕は、これはいい話だな、と思って、相談に乗ることにした。国語力というのは、国語を含めた全ての教科において求められる能力だからだ。

fugenji.org のオーナーである友人Oは、何度か書いているけれど僧侶で、僧籍を得る前、檀家さんの関係で複数の子供の家庭教師をしていたことがある。これはOがそういう家だから声がかかった、というのではなく、Oに家庭教師をしてもらうと「成績が上がる」という評価があったからだった。その頃、僕はOに、その理由を尋ねたことがあるのだが、

「そんなん簡単な話や。国語を教えればええのよ」

事実、彼が国語、特に現代文を教えることで、それまで学校の授業についていけない状態であったような子の成績が、目に見えて向上していたらしい。僕は国語力というものの重要さを改めて思い知らされたのであった。

じゃあ、自分が子供だった頃はどうだったのか……と思い返してみると、とにかく僕は本が好きだった。僕の実家はそれ程裕福な家ではなかったのだけど、本に関しては、欲しいものは制限されることなく、何でも買ってもらえた。漫画は買ってくれなかったけれど、行きつけの床屋と耳鼻咽喉科の医院に山のようにあったから何の不満もなかった(この時期、僕は少年漫画界で不死鳥の如く復活していた手塚治虫にはまり、『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』を暗記せんばかりの勢いで読んでいた)。親父も本を多く読むので、週末になると、さほど仲が良かったわけでもない父子は黙って二人で本屋に行って、何時間かを立ち読みで過ごした後に、何冊かの本を抱えて帰宅するのであった。

ああ、そうそう。唯一漫画でも買ってもらえる本があった。『学研まんがひみつシリーズ』だけは買ってもらえて、僕は小学生当時、当時発刊されていたほぼ全てを持っていた。あまりに読み込んだので本が分解しかかっていたのだが、僕が中学に入ってから、地元の学校か幼稚園かに寄付したらしい(当時、僕はそれらの記述のほぼ全てを暗記してしまっていて、もはやそれらを所持する必要がなかった)。親父は僕を滅多に褒めてはくれなかったが、本に関してだけは、

「これだけ読んだら本も成仏するだろうな」

と(カトリック信徒の癖に!)よく言っていた。

小学校の頃は、自分以上に本を読んでいるという子供に会うことがなかった。中学に入ったそのときに、たまたま話しかけた同級生が創元やハヤカワの推理小説をコンプリートせんばかりの読書量を持つ男で、これが後にハンブルク大学に留学した友人Yであった。まあそんな調子だったから、本と友人には、僕は恵まれていたのだろう。これは今でも、つくづくそう思う。

後になって知ったのだが、茨城、特に水戸という土地は、本を買うのに金を惜しまない土地柄らしい。調べてみたところ、2008年の雑誌・書籍購入費県別ランキング(全国平均が15,785円)で、第1位が埼玉(21,929円)、第2位が福島(21,545円)、そして茨城県は第3位(21,221円)である(ちなみに愛知県は15,743円で第36位)。まあ、水戸藩は藩の財政の 1/3 を『大日本史』の編纂に費していたそうだから、これはきっと伝統的なものに違いあるまい。

……というわけで、いささか話が逸れたけれど、僕は自分の国語力がどうか、などということを考える必要がなかったのだ。しかし……この現代社会で、名文に触れる機会というのは、たしかに減っているかもしれないし、そういう中で暮していたら、ボキャブラリーだってなかなか多くなり難いかもしれない。

先に書いた、相談を受けた知人のお子さんに、この間会ったのだけど、冬休みの宿題の「ことわざ」が今一つ分からない、ということで、臨時の家庭教師をすることになった。で、そのときに「三つ子の魂百まで」というのが出てきて、あーそうか、これは分からないかもしれないな、と思った。今の「大人」で、この諺の「三つ子」というのが「三歳児」を意味することを知っている人が、果たして何割程いるのだろうか(さすがに僕は知っていた)。そういうことを大人がちゃんと知らず、そういう言葉を日常の語彙として見聞きするチャンスがなければ、何もせずに子供がそんなものを覚える筈がないのである。

誤解なきように願いたいのだが、僕は自分の国語力を誇るつもりなどない。たとえば漱石・鴎外・芥川の時代のように、漢籍の教養があることが当然とされた時代の人々と比較すると、僕なぞとてもじゃないが「教養がある」などと言えるはずがない。中学時代にYの薦めで中島敦に親しむようになって『李陵』などを読んだときに、それを痛感したものである。

ただ、僕はそこそこの量の古今東西の文章を読んできたし、そして今のこの文章のような文体で、自分の思うところ、感ずるところを書くことができる。少なくとも、読み書きに構えてしまうことはない。この文章だって、別にそう面倒な推敲などすることなく、頭っからつらつらーっと書いているわけで、それはやはり、論理展開と表現というものを学んだ結果なのだろう。まあ僕の場合は、理系の文献を日本語と英語で読み書きする関係上、そういうものに関して専門的教育を受けている、と言えないこともないのだが、でもシステマティックに論文購読とか文章作成術とかを習ったこと、なんてのはない。基本的に、僕の読み書きの能力というのは、僕にとってはあくまでも「一般教養」の範疇のものなのである。

しかし、僕の考える「一般教養」というのが、どうも最近は一般的ではなくなっているような気がしているのだ。僕が使う語彙が通じなくなっているのは日々感じている(まあ官房長官が「柳腰」と「粘り腰」「二枚腰」の違いも分からないんだからな……「柳腰の芸者」なんて表現にお目にかかったことがないんだとしたら、政治家として以前に大人として、なんて乏しい教養なんだろう)し、blog のコメントを見ていても、あーこいつぁロジカルな思考ができないんだなー、という輩を散見する。これが世間の実情だというのなら、僕の考えるところの「一般教養」は、おそらくもはや一般的なものではないのだろう。

本来、国語教育というものは、論理的に物事を把握し、思考し、主張する、つまり人が社会生活を営むための必須教育である。教育学の立場の人はどう考えているのだろう、と思って、齋藤孝氏の『理想の国語教科書』を査収したところが、あとがきに、

私は日本再生の鍵は、日本語力と身体の教育にあると考えています。(中略)……日本の近代化の成功は江戸時代に遡る識字率の高さ、寺子屋の充実、明治期の初等教育の質的な高さ、高い読書力などに支えられていました。こうしたストックは、この二十年の間に使い果たしてしまった観があります。ここでもう一度基本に立ち返り、本格的な読書力を鍛錬する教育に方向転換をすべきだと私は考えています。
とちゃんと書いてある。僕もそう思うのだが、正直言って、今の日本はもう間に合わないところに来てしまっているのではなかろうか、という気が最近はするのだ。団塊ジュニアとか「ゆとり」世代において、国語力の低さというものはもう話にならない位の度合いまで進んでいて、しかもその世代が今は親になっているのだから。教育によってそれを立て直そうというのならば、余程施政者と教育者が尽力しなければ能わぬだろうと思うのだが、施政者があれだものなあ……

"The Dismissal"

以前の blog でザウアーブルッフにふれた際、『大外科医の悲劇』の英語版を注文した、という話を書いた。特急便で注文したわけではなかったので、手元に届くのには時間がかかると思っていたのだが、今日、めでたくアメリカから届いた。

この本はもともとドイツ語で書かれていて、その題名は "Die Entlassung" という。英訳版の題名はこの blog のタイトルでもある "The Dismissal" で、まあ直訳である。意味は……この場合は「解雇」「解任」「免職」と、この辺りだろうか。ザウアーブルッフがシャリテ(フンボルト大学ベルリン付属の病院)外科教室主任教授の職を辞職……実際は限りなく解雇に近いのだが……する場面から話が始まるので、このような題名になっているのだろう。

もちろん、古本の洋書を買うのは今回が初めてではないのだが、とにかく今回の本は程度が非常によろしい。ハードカバーということもあるのだけど、本の状態は軽い棚擦れがある位である。原著 "Die Entlassung" が出たのが1960年ということは知っていたのだが、この英訳版が出たのはいつか……と奥付を見ると、1961年と書かれている。

洋書の古書を買うとよくあるパターンなのだけど、この本も、学校の図書館の蔵書だったものが、書庫整理などの際に売りに出たものである。裏表紙の裏面を見ると、今はほとんど見ることのない図書カードのポケットがあり、カードも挿されたままになっている。見ると……貸出履歴は2件、1965年の1月2日と5月20日(!)とある。これから推測するに、この本は出版されて程なくしてこの学校図書館で購入されたものの、なんと2人しか借りる人がないままに在庫整理で売りに出され、僕の手元にやってきたものだ、ということらしい。

この本を売ってくれたのは amazon.com の提携業者で、その業者はアメリカ・ケンタッキー州にある。この本の出元が知りたくて、あちこち引っくり返していたら、

LIBRARY
MODEL LABORATORY SCHOOL
というゴム印が捺されているのを見つけた。駄目元で検索してみると……発見!
EKU Model Laboratory School
ここらしい(wiki)。EKU というのは Eastern Kentucky University (wiki) イースタンケンタッキー大学のことだけど、Laboratory School ということは、いわゆる附属学校、ということらしい。日本でも(たとえば「東京学芸大学附属高等学校」のような)大学の附属学校というのがあって、そういう学校では既存の学校とは異なった「実験的教育」を行っていたりするわけだけど、Laboratory School というのはそういう意味である。

この「イースタンケンタッキー大学附属モデル学校」(一応書き添えておくけれど、この「モデル」というのがこの学校の名前である)というのは、web で見ると Kindergarten(幼稚園)、Pre K(幼稚園にあがる前の子供のための学校)、そして1年から12年までの学校、と、要するに「保育園・託児所レベルから高校3年相当まで」の幅広い年齢層を対象にしているようなので、今回僕が購入した本をかつて読んだのがどの辺りの年齢層なのかは知りようがない。しかし、40数年を経て、これ程いい状態の本を9ドル99セントで買えるとは、正直思っていなかった。嬉しい誤算であった。

遅ればせながら

新年明けましておめでとうございます。

今年は伊達巻を焼いたのだけど、1回目はレシピを勘違いしてひどい代物が出来たので、初売りで材料を買い直してリベンジに臨んだ。

材料は、生海老150 g に対して、卵(全卵)が6個(小さいものならもう少し多くてもいいだろう)、砂糖が50 g、みりんが大匙3、酒が大匙1.5、醤油が小匙1.5、である。以下、作り方をメモしておく。

まず海老の摺身を作る。海老は全て背腸を抜いて、片栗粉と酒(上記分量とは別)を加えてボウルの中でよく攪拌して汚れを取り、水で何回かすすいでから水気を取る。本当はこれを当たり鉢で擦るのが一番いいのだけど、今手元に当たり鉢がないので、今回はフードプロセッサで挽いた。これに全卵をひとつづつ入れ、入れてはよく攪拌して……を繰り返し、全ての卵が摺身とよく混ざるまで繰り返す。

本当に売っているものと同じ水準のものを作りたい場合は、上の作業を当たり鉢の中で行い、卵液と摺身が混ざったものを裏漉しするとよい(ただし、相当手間がかかるのでご注意を)。フードプロセッサの場合も、目の細かいザルなどで漉すと出来上がりが良くなる。

こうして仕上げた液体に調味料を投入して、いよいよ焼きに入る。アルミフォイルで、巻き簀より一回り小さな縦・横寸のバットのようなものを作成して、内側にサラダオイルを塗ったところに液体を流し込み、予熱した200℃のオーブンで20分焼き、温度を180℃に落として更に数分焼く。これはオーブンの個体差で時間が変わってくると思うが、目視で焼き具合を確認されるとよかろう。

焼けてくると、生地が餅のように膨らんでくるが、これは竹串などで潰しておくと良い。焼けたら粗熱を取り、焼いたときの上面が巻き簀側に来るように巻き簀の上に伏せ、アルミフォイルを剥がす。剥した面に巻き簀の目に平行に何本か切れ目を入れ、断面が「の」の字形になるように巻き込んで、輪ゴムや糸などで固定して冷ませば出来上がりである。

伊達巻には特別の思い出がある。子供の頃からの好物で、正月になると、これを食べるのが楽しみだった。勿論、親もそれ程たくさん食べさせはしなかったから、一度一本丸ごと買ってきて一気食いしてみたい、と思っていたのだった。

高校生になって、楽器を買うためにマクドナルドで早朝のバイトをしていたのだが、懐具合が良くなったので、かねてからの企みを実行に移した。まあ結果は容易に想像できるわけだけど、半分位食べたところでうんざりしてしまった。何事も楽しむには程というものがあって、程を越えて欲望を拡張させても、それを享受することは物理的に不可能だ、ということを、そのときに学んだのだった。

大阪に住み出した頃、年末に「せめて伊達巻位は」と思い買いに行ったらどこにもなくて、大いに困ったのだった。大阪では、鱧などの摺身を使った上等な蒲鉾を伊達巻の代わりに食べることが多いようで、結局その年は伊達巻を食べられずじまいだった。大袈裟な話だけど、正月が来なかったような気がして、ひどく寂しく思えたものだ。

そして今。まあ、今年はとうとう自分で焼いたわけだけど、これも一人で抱え込んで食べるのはあまりに味ないわけで、U とちびちび食べているわけだ。まあ、こういう食べ方が、実際のところは一番いいのかもしれない、と思う。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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