さよなら絶望先生

と言っても漫画やアニメの話ではない。これは半ば僕自身への呼びかけのようなものなのだ。

先日のネット詐欺騒ぎや、バターン死の行進の「一緒に歩いたんだから虐待じゃない」騒ぎに関して某氏と話していたときのこと。

「……ということは、Thomas さんはそういう人々やそんな人々が存在する社会に絶望してるんでしょうかね?」
「絶望……いや、絶望というのとはちょっと違うかもしれませんよ。昔はね、絶望していたんですけど」
「昔は?」

「たとえば、『WWW ページでの個人情報公開について考える』ってのを僕は公開してますよね」
「ああ、あれを公開してから Thomas さんはかなり攻撃を受けた、って言ってましたよね」
「そうそう。『ネットの持つ無限の可能性を貶めるな』とかね。でも、あれを公開して早々に、そんな批判を展開していた某男性が、不倫相手にその事実を暴露される、という騒ぎがあってね」
「ええ、それで皆さん、Thomas さんの主張を practical に理解した、と」
「そういうことです。でもね、あれを公開してから何年かして、出会い系サイトで知り合った女性をクルマに乗せて郊外のダムに連れてって、暴行した挙句に殺して、ダムに放り込んだ……って事件があったんですよ」
「うわ……」
「で、僕は、『あれ程僕が言っていたのにこんなことが起きて』と、かなり絶望的な気分になっていたわけです」
「でも……Thomas さんのページを、誰もが皆読んでいるわけではないですよね」
「勿論そうです。たとえ1万人があのページを読んでいたって、日本人の1万人に1人より更に低い割合の人しか読んでいないわけだし……」
「……それに、読んだとしても、その内容を我がこととして受け止めるとは限らない、と」
「そういうことです」

「そこに Thomas さんは絶望していた、ということですか?」
「そういうことです」
「うーん…… Thomas さんは、世の流れを変えるようなつもりで書いていても、実際のところは変わらない、そういうところに絶望感を感じていたんですか?」
「ええ。でもね、世事ってのは、川の流れのようなものなわけです。簡単に川の流れを変えるなんて、そりゃ出来はしないわけですよ」
「ええ」
「だから、僕のアプローチは、まるで大河の流れに抗うようなものかもしれないわけです。でも、そんな流れであっても、例えばせき止めるための石を投げ入れていって、やがて人がそれに続くなら、少しは変わるかもしれないわけじゃないですか」
「ええ」
「だからね……僕は、絶望するのをやめて、『あきらめる』ことにしたんです。世の中はそう簡単には変わらないし、世の中の人々も、愚かしさをそう簡単に変えてはくれない。だから、drastic にそういうことは変えられない。それは確かにそういうことだろうし、徒に流れに抗って飲まれてしまうのもまた愚かかもしれないけれど、でも石位は投げ込んでおこう、と考えたわけです。これが、僕の言う『あきらめ』ですよ」

「ああ……でも、それはそうかもしれませんよ」
「というと?」
「ええと、『あきらめる』って、もともと仏教用語なんですよね。で、確か語源が『明らかに究める』なんだそうですよ。物事を明らかに究めれば、現状を把握して、受容することになる。だからそこへの良からぬ執着を断ち切れる。もともとはそんな意味だったらしいですよ」
「なるほどね。だとすると、『絶望からあきらめへ』というのは、僕の人生において重要なテーマだ、ということなんでしょうかね」
「うん……そういうことなんでしょうね」

「絶望からあきらめへ」という言葉だけ聞くと、非常に後ろ向きなニュアンスを感じるかもしれないが、僕にとってこれは重要なキーワードなんだなあ、と、改めて実感したのであった。

採血

今日は某病院でちょっと検査。半年ぶりに採血する。

この稼業を長くやっていると、半年に一度採血を行うのが当たり前になってしまう。今はまだましだけど、京大の原子炉実験所で実験をやっていたときなどは、あれやこれやで真空採血管を5、6本程採血されていた。こんなに抜かれたら貧血になるんじゃなかろうか、などと冗談を言いながら採血されていたものだ。

で、今日採血を行っていた某看護師、どうも注射器での採血が苦手らしい。いつもシリンジに細いチューブを経由して翼状針を付けて、これで採血するのだ。シリンジの組み立てをしてから、ゴム管を巻いて静脈を浮かせるのだけど、

「……」
「ん、浮きませんか?」
「え?いえいえ、そういうわけじゃないんです」
「では何か?」
「(二つある静脈の)どちらが痛くないかなー、って」
「……ハズレは痛いんですか」
「え?あぁ、いえいえそうじゃないんですよぉ。でもね、皮膚が厚いところだと引き攣れて痛いかなー、って。ですからねそのぉ」
「……品定めされてると余計痛そうなんで、早いところお願いします」

丁寧なのも考えものである。

知らざる者の傲慢

なんか僕の mixi のアカウントにわざわざリンクを張ってまでさらされていた(一応魚拓も取っておいた)のに objection を。

まず、この手の輩は、人が何事かに対して答える上で、相応の責任を負い、労力や時間も(些少ではあるかもしれないけれど)消費させられるものだ、という視点が欠如している。これに関しては、Linux 業界で有名な生越氏の(これはもうかなり前に書いているはずだけど)『我々は十分か』:

http://www.nurs.or.jp/~ogochan/linux/5.html

でも読んでみればよろしい。生越氏の言葉を借りれば:

それは、ここでの対象となっている「タコども」が、あまりに「お客さん」であり「感謝を知らない」ために、文句を言っているので ある。
……まあ、この手の質問に20年近くも答え続けていれば、誰でもこの心境に至るものだよ。僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。

次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。

じゃあ、彼らの求める「やさしさ」が何なのか、というと、これは精神科医の大平健氏が言うところの「やさしさ」(彼は記号的に、このやさしさを平仮名で表記する)だと言えるだろう。この「やさしさ」に関しては、大平氏の『やさしさの精神病理』に詳細に記述・考察されているので、興味のある方はそちらをご一読いただきたい。

いやはや、しかし、上リンク先の人物、こういう風に書いている:

で二つ目は、mixiのTeXのコミュニティ。TeXもマイナーなんで、同じ原理で(?)優しい人が多いんだけど、正直http://mixi.jp/show_friend.pl?id=546064の人はどうかと思った。荒れるってわけじゃないけど、傲慢さよく出てる・・・というか、自意識過剰な感じが良くない方によく出てる。なんか・・・全裸説教強盗って感じ?
いや違うでしょう。むしろあなたみたいなのを居直り強盗というんだよ。

【追記】

またしつこく書いてるなこの人。一応リンク、そして証拠保全のために魚拓。

先方の引用部でなぜか以下の部分が消されている:

僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。
一応ここは重要なところなんだけどなあ。僕の心の叫びみたいなものだからねえ。

しかも僕の書いているところの「優しさ」と「やさしさ」の違いをまるっきり理解しようとしていない。それに、ある人物のモラルを以て(社会的規範を損なわない限りは)他者を断罪すべきものではない、ということもどうやら理解していないようだ。僕は書き言葉ではカタい言葉を使うので、しばしばこのような「込めてもいない悪意」を感じて悪意を以てこのような書かれ方をする経験があるけれど、自分の書いたことをちゃんと読まずに、しかも恣意的引用(ととられて然るべき引用の仕方)をして、原文が net 上で open なのにリンクもしない……なんて輩は、本当にたちが悪い。

そしてこれがこの人のドグマなんだよな:

で、この人(筆者注:原文ママ)場合、この文章の「人に教えを乞う」という表現から傲慢さがよくわかる。
僕は「人に教えを乞う」という定型句なんか書いていない。僕はこう書いたのだ:
次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。
要するに、この人が言うところの「やさしさ」(平仮名表記であることに注意)を冒していると僕を非難する行為は、この人の「やさしさ」のドグマで僕を断罪しているだけの行為だ、と僕は言っているのである。そもそも、「教えを乞う」って、そんなに屈辱的な言葉なのだろうか?まあたしかに「乞」は「乞食」の「乞」だけど、そもそも「乞」という字は「神仏に対して願う」という意味を帯びているので、何ものかを貶めるものではなくて、求める側の謙譲の意が入っているだけなんだけどね。屈辱なんて意味は、そもそもこの字にはないんですよ。

一応自然科学者の端くれとして書いておくけれど、僕は何事か、より reasonable なものに近づけるのだったら、相手が三歳児だって教えを乞うだろう。そして僕のそういうスタンスは、僕が出会ってきた、僕の関わった研究領域での権威と呼ばれる人達に学んだものだ。彼らは、当時学生だったり、学位を授与されたばかりの新米研究者だったりした僕に対して、権威の威光を振り回すなんてことはなかった。実にフランクに、僕の意見を聞き、自らの見解を僕に示してくれた。けれどそれは、相手の見解に対して相手が負うのと同等の責任を負うことの必要性を暗に僕に感じさせて、僕はいつでも冷や汗をかきながらそういう人達とディスカッションをしたものだ。

だから、教えを乞う/乞われるときに、どちらが上でどちらが下だ、などということは、そこに何の関わりも持ち得ない。求められるのは、必要な情報を得る上で真摯に問うているか(自力で調べられることは調べて……勿論人間だから力及ばないこともあるだろうけれど、聞くことをちゃんと分からないなりに整理して、何がどう分からないのかを伝えるように努めているか)、そしてそれに対して必要な情報を十分な確かさで、そうでないならエラーバーも含めて真摯に提示できているかどうか。それが全てだ。目線の上下なんてのは、そういうやりとりには何も関わりがないし、何も影響しないし。勿論僕はそんなものをこういうやりとりに導入したことがない。

それにしても……この人、まるで「『上から目線』過敏症」みたいだよなあ……あるいは過去に何か「教えを乞う」という文脈において、何か大きな大きな負の記憶でも抱えているんじゃなかろうか。抱えていようがいまいが、それは個人の勝手だけど、それを振り回すなんて、これこそが傲慢なんだっての。

知らないと恥をかくけど、知っていると恥ずかしい

世の中には、知らないでいると恥をかくけど、知っていても恥ずかしい思いをする……そういうことがしばしばあるものだ。

たとえば、こんなことがあった。日本で web 日記が流行りだした1990年代半ば頃、日記書きのコミューンの中に一人の女性がいた。その女性は人文科学系の大学院生で、colon という handle(何度もしつこく書くけれど、「通り名」の意味で使われるのは "handle" で、"handle name" という語は存在しないし、ましてや "HN" などという略語も存在しない……日本の jargon としてはどうかわかりませんけれどね)を使っていた。「コロン」だから女性っぽいし、お洒落な感じでいいじゃないか、とか考えたそこのあなた。何かおかしいと思いませんか?

そもそも「コロン」が何故女性っぽい、お洒落なイメージを喚起するのか、考えていただきたい。おそらく、この「コロン」から香水とかをイメージするので、そういう風に考えるということなのだろうか?だとしたら colon というのはおかしい。そもそも「香水」を意味する「コロン」という言葉は存在しない。え?フランス語?それを言うなら「パルファム」Parfum だろう。

僕も別に偏屈親父を気取っているわけではない。おそらく「香水」から「コロン」を連想する方が、正確には「オーデコロン」という単語を経由しているのだろう、ということは分かっている。「オーデコロン」は、フランス式にちゃんと書くと Eau de Cologne だけど、まず、これ式で「コロン」を連想するなら Cologne と書くべきだろう。そして、そもそも Cologne という語には(辞書ででもひいてもらえばすぐに分かることだけど)「香水」というような意味はない。フランス語でも英語でも、Cologne と書けば、これはドイツの都市であるケルン(ドイツ語では Köln と書くけれど)を指すのである。

なぜこんなことになっているのかは、Eau de Cologne の歴史を調べてもらえればすぐ分かる。Eau はフランス語で「水」、あるいは水のような液体を指す言葉だから、Eau de Cologne を直訳すると「ケルンの水」とでもいう感じになるわけだけど、世界最初の Eau de Cologne は、ケルン在住のイタリア人香水職人 Giovanni Maria Farina(イタリア式に読むと「ジョバンニ・マリア・ファリナ」だけど、ドイツ式に「ヨハン・マリア・ファリナ」と呼ばれることが多いらしい)が 1709年に製造したものとされている。ファリナは自分の第二の故郷であるケルンの街の名を冠して、この新しい香水を Echt Kölnisch Wasser(= original Eau de Cologne)と名づけたのだが、1794年にケルンに進駐したフランス軍の軍人が、これを自国に持ち帰り、それ以後はフランス語の Eau de Cologne が世界的に用いられるようになったと思われる。ちなみにケルンでは、この当時の区画整理番地に由来する "4711 Echt Kölnisch Wasser" が現在も製造されている。

……いや、単なるケアレス・ミスでしょ?何をそんなに全力で否定しなきゃならないの?とお思いの方が多いと思う。だから先の colon なる単語に戻るけれど、これを英和辞典ででもひいてみてもらえたら、ここまで駄目を押す理由がお分かりになるかもしれない…… colon は英語では ":"、つまり句読点のコロンを指すか、小腸と直腸の間の部分(日本語で言う「結腸」や「大腸」)を表す言葉なのだ。そして、何の前触れもなしに colon と出てきたら、おそらく連想されるのは「腸」の方である。知らなかったであろうとは言え、handle が「結腸」というのは、これはあまりにケッタイな話なのである。

前に blog で書いたことがある話だけど、僕が大阪に住んでいたときに、近所に開店したケーキ屋の看板に "Taste of Mammy" と書かれていて、これをどうしたものか、と悩んだことがあった。これも「お母さんの味」という日本語が、正確には「お母さんの手になる味」「お母さんによる味」を表すことを深く考えずに、安易にそのまま英単語に置き換えた(もちろんこういう置換を「訳」とはいわない)結果、恥ずかしい看板が出来上がってしまったわけである。 "Taste of Mammy's Cooking" と書けば、何もおかしくないんだけれど……まあこれも、知らないと恥をかくけど、知っていると恥ずかしい一例である。

……で、今日、どうしてこんな話を書いているか、なんだけど……以下、若干シモネタがかった話になることを、どうかご容赦いただきたい。実は前々からおかしい、おかしい、と思いつつも、おおっぴらに話したり書いたりできずにいたことがあるのだ。今日こそは、それをここに書いておこうと思う。

ニコニコ動画のコメントとか2ちゃんねるの書き込みとか、あるいはアダルト関連の情報一切の中で、よく「肛門」の意味で「アナル」「アナル」と書かれているのを見かけるのだけど、これっておかしくありませんか?僕の言語感覚では「アナル」というのは anal だとしか考えられないんだけど、これはいわゆる形容詞格ってやつで、anal という言葉単体では意味を成さないはずなのだ。これは anus「アヌス」じゃないんだろうか?

Anus というのはおそらくラテン語由来の単語だろうと思ったらその通りで、もともとラテン語で「環」を意味する言葉なのだそうな。まあ「肛門」という単語が単体で使われることは非常に少ないわけだけど、あたかも単体で「肛門 = アナル」というのが正しいかのように世間に定着しているのが、僕にはどうにも気持ち悪いのだ……『さよなら絶望先生』の木津千里じゃないけれど、どうにも「イライラする!」。皆さん、もしこの単語を使われる際は、形容詞格との使い分けに注意しましょう、ええ。どうにも気になるんです(自分で使うことはないんですけど)。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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