ぐだぐだ

この10年程だろうか。国際柔道を観る度に文句ばかり言っているので、U は「もう日本は柔道出るの止めちゃったらいいんだ」とまで言っているのだけど、これは日本柔道が国際化の道を選択した結果なのだから、仕方のないところもあるのかもしれない。

剣道をやっていた者として強調しておきたいけれど、もはや国際柔道は武道ではない。少なくとも、剣道の試合で一本取った後にガッツポーズなどしたら、その一本は取り消されるのが普通である。「残心」を失った国際柔道は、その時点でもはや武道ではないのだ。

しかし、今回のオリンピックの柔道は、いつもに増してひどい。今さっきの、男子66キロ級の海老沼匡選手と韓国のチョ・ジュンホ選手の一戦は……こんな試合、僕は少なくとも観たことがない。

双方が注意ひとつづつで時間切れで、いわゆる golden score に入って、海老沼選手は有効となった……のだが、これが取り消された。そしてそのまま時間切れ。海老沼選手の優勢勝ちか、と思ったら、なんと審判が3人とも青旗(チョ選手側)を上げた。場内は激しいブーイングに包まれた。

驚いたのはその後である。審判が3人とも会場の隅に向かい、そこで誰かと話し、そして……今度は白旗が3本上がったのである。日本にとっても韓国にとっても、こんな後味の悪い判定はないだろうと思う。解説者も、スタジオに居た古賀氏も、

「3本旗が上がったのが覆ったのは、今迄見たことがない」

と異口同音に驚きの声を上げていた。

阿呆な右がかった連中が無意味に食い付いてきそうなので書いておくけれど、僕はあの試合は海老沼選手の優勢で間違いないだろうと思う。問題なのは、このぐだぐだな審判システムの方なのだ。

皆さんは、柔道の審判システムに、数年前から画面に映らない「第4の審判」が加わっているということをご存知だろうか。さっき見てみたら、ちゃんと Wikipedia に説明が載っていたのでリンクしておこう:

Wikipedia 日本語版「ビデオ判定」柔道の項

事の発端は 2000年、シドニーオリンピックにまで遡る。男子100キロ超級の準優勝、篠原信一対ダビド・ドゥイエ(フランス)の一戦、篠原はドゥイエの内股を実に見事にすかしたのだが、審判は2対1でドゥイエの一本と判定、篠原は銀メダルとなった。この判定に関しては、後に国際柔道連盟が誤審と認めたのだが、国際柔道連盟試合審判規定第19条(審判が会場を離れた後に判定が覆らないと規定している)によってドゥイエの金メダルはそのままになった。僕は数か月前にたまたま観たフランス制作のドキュメンタリーで、ドゥイエが当時を振り返ってコメントしているのを目にする機会があったのだが、「あれは我々の完全な勝利である」と誇らしげに言い切るのを見て、本当に厭な気分になった。

話を戻すが、この一件で、柔道の審判システムにビデオのバックアップを付加すべきである、という話になって、2007年から、国際試合では2つのビデオカメラで試合を記録し、本部席の審判員(ジュリー Jury と呼ばれる)が微妙な判定に対してこのビデオで確認を行うようになったのだ、という。今回も、場内割れんばかりのブーイングで、このジュリーが主審・副審を呼び出して、このような事態になったのである。

何が問題なのかは明白である。篠原の一件に代表されるような事態に対する対策として、ビデオ審判を導入することが悪いとは言わない。しかし、それ以前の問題として、国際試合の審判の技術レベルのボトムアップ、というのがまず先に求められるべきだったのだ。それが十分でないままビデオ審判が導入された結果、微妙な判定が求められるときに、とりあえず判定しておいて、問題になりそうだったらジュリーの指示を求めればいい、というコモンセンスが生まれ、それが定着しているのである。ロンドン五輪の柔道をご覧になる方は、主審の耳を見ていただきたい。皆インカムを着けている。困ったときはジュリーに聞く、と言わんばかりの状況である(後記:山口香氏が指摘していたので気付いたのだけど、これはインカムではなくイヤホンである……つまり、審判はジュリーの言うことを聞いていればいい、ということで、ジュリーの方が権限が上だということなのだ)。

しかし、武道の審判というのはそんないい加減なものではなかった筈だ。相撲の行司を見ていただければ分かるが、行司は皆軍配を持つだけではなく、帯に必ず脇差を差している。差し違えがあれば腹を切る覚悟だ、ということを表すためのものだというのは、ご存知の方も多いと思う。

今、僕の背後のテレビでは、海老沼選手が準決勝で敗れる瞬間を映し出したところだ。つくづく思う。もう柔道は武道ではないのだ。勝利したグルジアの選手は、両手を上げて指を立てて……ああ、いやだいやだ。本当にいやだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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