『人体冷凍−−不死販売財団の恐怖』読了
いやあ、これはひどい話だ。内容的には当然予想の範囲内だけど、アメリカ人が生の桎梏からの解放というものに対して極めてカルティックな方にはしり易い、まさにそのことの犠牲になったような人が書いた本である。周辺情報と書評に関してはここに追記する。
いやあ、これはひどい話だ。内容的には当然予想の範囲内だけど、アメリカ人が生の桎梏からの解放というものに対して極めてカルティックな方にはしり易い、まさにそのことの犠牲になったような人が書いた本である。周辺情報と書評に関してはここに追記する。
先に書いた通り、この何日かはインフルエンザに感染したために床に臥せっているわけだけど、今朝、目が覚めたところで、いつものように体温を測ると……35.5度、と出る。僕は平熱が36度を少し割る(これは今使っている電子体温計のせいかもしれない)のだけど、まあ要するに平熱に戻った、ということである。
これは、リレンザ© のデータシート通りの経過である。以下に、データシートに記載されている、リレンザ© 服用開始時からの体温の推移の統計を示す:
一応コメントしておくと、プラセボ(偽薬)のデータはエラーバーの下端、リレンザ© 服用者のデータはエラーバーの上端を線で結んでいる。これで見ると、服用開始から3日で、おおむね平熱もしくはやや高めの体温に戻るということが分かる。僕の場合、服用直前(一昨日夕)の体温が38.4度、昨日の朝・昼・晩の体温が38.0度だったので、上のグラフから予想し得る範囲内(二日目がやや高いけれど)で体温が推移していることが分かる。
もちろん、ここで服用を中止しては意味がない。耐性菌を世の中にばら撒かないためにも、キットの薬を服用し切るまでは服用を継続した方がいいだろう。少なくとも、今日・明日位は続けなければならない。
このところ blog の更新があまり活発でないのは、ちょっと私的に興味があって調べていることがあるからである。
もう大分前の話になるけれど、まだ水戸に住んでいた頃、県立図書館の書架でふと見かけた本を読んで、僕は大きな衝撃を受けた。その本が、標記のフェルジナント・ザウアーブルッフ(歴史的に日本ではザウエルブルッフと書かれることが多いのだが、最近のドイツ語の発音に倣ってザウアーブルッフと書くことにする)に関するものだった。
ザウアーブルッフは、胸腔外科の技術を確立した人として、その筋では有名である(ただし、彼が考案した陰圧下開胸術は現在では使われていない)。第二次大戦前後のドイツ医学界において、ザウアーブルッフはまさに権威だった(丁度前回の blog に書いている「ドイツ芸術科学国家賞 Deutscher Nationalpreis für Kunst und Wissenschaft」を、ザウアーブルッフは1938年に受賞している)。戦後、彼は旧東ベルリンで活動していたのだけど、この晩年期のザウアーブルッフは、医療行為を行っている最中に奇妙な振舞いをするようになった。今で言う老人性認知症ではないかと思われるのだが、切り離した腸を吻合することなく腹を閉じてしまったり、甚しきに至っては、手洗いをせずに手術を行おうとしたという。もちろん、周囲の人々はこれに気付いていた。いたのだが、権威に物申すことは、旧東ドイツ社会においては、全てを失うおそれのある行為だったこともあって、この問題をほとんどの人が黙認し、その結果として多くの人命が失われた(つまり、ザウアーブルッフの手術によって死者が複数でていた)、というのである。
先日、レーシック専門の眼科医院である「銀座眼科」(現在は閉院)で、手術用器具を消毒しないで使い回した結果、角膜への深刻な感染症が多発して、元院長が逮捕された、というニュースが流れたが、このような話を聞くといつも、このザウアーブルッフの話を思い出す。しかし、彼の起こした問題に関してふれた書物はあまり多くない。特に、日本語では、1969年に出た Jürgen Thorwald の本の和訳版以外には、医療ものの小ネタ本みたいなものに若干の記述がある程度で、ザウアーブルッフの話は(医師以外には)あまり知られていないようである。
せめてドイツ語じゃなくて英語なら訳すんだがなあ……と思って見ていたら、英訳版がペーパーバックで出ているようだ。amazon.co.jp では入手できないのだが、amazon.com なら入手できる。ということで、安いので思い切って買った。後で日本語版も図書館で探して借りてくることにする。
前回の blog で書いた話の補足を少々。
僕は大学院生時代に、食うために非常勤講師をしていたことがある。情報処理関連の演習を担当することが多かったけれど、これもいわゆるコンピュータリテラシと呼ばれるものからプログラミングまで、幅広く教えていたし、他にも物理学実験とか、あとは自分の所属学科のリサーチアシスタントということでやはり情報処理演習の講師をしたりもしていた。だから、二十代の中盤〜後半は、週に何日かはスーツを着て「センセイ」「センセイ」と呼ばれる生活をしていたわけだ。
僕は自分がそういう演習を受講していた頃には、いかにして講師に一泡吹かせるか、ということに終始していたから、出された課題はさくっとクリアして、応用問題みたいなものを勝手に設定して、それをレポートにまとめては「今回の演習の程度の低さには見識を疑う」などと書き添える……ひどい学生だった。大分後になってから、その頃に演習を担当していた教官が、そういう僕のレポートを出してきて「いやあまりに面白いんでとっといたんだよ」などと笑うのに、だくだくと冷や汗をかかされたりしたのだけど……まあ、だから、平均的な学生の演習や講義に臨む態度とか、してくる質問とか、そういうものを聞き、また答えることは、なかなかに新鮮な体験であった。
で、慣れてくると、ある種の学生の存在を意識するようになった。その学生は女性だったのだけど、僕が巡回してくると、
「先生ぃ〜、これ、分かれへん〜」
と、しなだれかからんばかりの勢いで質問してくるのだ。最初は本当に分からないのかと思い、丁寧な対応を心がけていたのだけど、どうも他の学生の反応が冷たい。そこで、クラスの中でも1、2を争う程出来のいい女子学生にそうっと訊いてみると、
「あの子は、そういう感じやから」
「そういう感じって?」
「質問とかするのに、どんな先生にでも、あんな感じで、ベターって」
「ベターって……というと、媚びているというか、そういう感じなのかね?」
「……」
言わぬが華だ、と言わんばかりの溜息をついてみせるのだった。なるほど。まあ、本当に分からなくって質問してくるのでなければ、他の学生を優先すればいいだけの話である。そう決めて、次回の講義からは、他の子の質問を優先して対応していると、問題の子は、自分の席を離れて僕にまとわりついてくるのである。
異性の年下の子にこんな風になつかれると、鼻の下を伸ばすような人もいるのかもしれないが、僕は残念ながら、こういうことにはとことん懐疑的なのであった。これは何か変だぞ。どうしてこうもまとわりついてくるのだろうか?その子は講義中だけではなく、僕の休み時間にも、質問にやってくるのであった。ますます変な話だぞ?僕の中では警戒信号が鳴り響いていた。
いくつかの演習を経験するうちに、僕はそれが、どの演習においても観察される現象であることに気付いた。ほとんどの場合、その学生は女性であった……僕は夜間部の講義も受け持っていたから、自分より年上の社会人学生だったりすることもあったけれど……そして、同じように、しなだれかからんばかりの勢いで、僕に質問を繰り返すのであった。
非常勤暮しの先輩であった某氏に、この件に関して質問してみると、
「へぇ、Thomas クン、モテモテやないか」
「いやあ、そいつぁ違うでしょう。ああいうの、どうしたらいいんでしょうかね」
「まあ、食ってみるのも経験なんじゃないの?」
そう言って某氏はニヤニヤしていたが、これは明らかに「食わん方がいい」の意味だろう……まあよく分からないけれど、コマセの中には針が入っていて、パクっといったら「フィーッシュ!」とばかりに抜き上げられてしまうんだろうか。とりあえず、君子危うきに近寄らず、の原則に従って、
当時は、ネット関係で、いわゆるパーソナリティ障害とでも言うような感じの人の引き起こす問題に触れることが何度かあったのだけど、こういう場でも、僕にしなだれかかんばかりの勢いでアプローチをしてくる人に出喰わすことがあった。まあ、おそらくは僕の経歴とか、ネット上での発言内容とか、そういうものに惹かれてそういうアクションを起こすんだろう、と思っていたのだけど、あるときに、演習で出喰わす女の子と、このネット上でアプローチしてくる人とが重なったのだった。
あー、なるほど。解釈できてしまえば何のことはない話で、彼ら(彼女ら、と書くべきかもしれないが)は要するに、知的権威に従属したいんだ。もちろん僕は権威然としてふるまっているわけでもないし、隠然として権力を行使したりしているわけでもないのだけど、学生にとっての講師、まだ現在程「普通の」存在ではなかったネットで堂々と発言している大学院生、といった存在に、寄りかかる対象として接近しようとするアクションが、ああいった「媚びた」アプローチとしてなされるんだ、と考えれば、全ての行動がはっきりと見えてくる。当然だけど、そこには愛などありはしない。もちろんこちらから寄せるべき愛も、僕はそこに見出すことなどできなかった。
他にも、カトリック的な倫理観みたいなものも機能していたのかもしれないけれど、そんなわけで、僕がそこで affair に精を出す(なんか生生しいなあ)ことはなかったわけだ。しかし、もし僕に教育に従事する者としての意識が希薄で、そういう場で自分の思い通りになる異性を獲得しよう、という気があったならば、おそらくは、その目的を達成することは、そう難しくなかったのではないか。そんな気がしてならないのだ。だって、相手の望むものははっきりしている。こちらはそれを供給してやればいい。利害が一致したところで、相手に権威としての圧力を程良く作用させてやれば、自分の都合のいいように相手を操作することは、相手がその事実に気付いていた場合ですら、きっと容易いことだったと思う。
ただ、もしそうなっていたとして、それが「自分の主体的な意志による」対象の操作であったかどうか、ということに関しては、いささか怪しいと言わざるを得ない。だって、それが相手の操作の結果であって、まるで仏様の掌の上の孫悟空のように翻弄され、しかし自分では暴れ回っているように思い込んでいるだけなのかもしれないのだから。まあ、僕はそうやって誰かを操作することにも、逆に操作されることにも、正直、喜びを見出せるとは思えない。人生での人との出会いが想定範囲内に終始するなんて、そんな人生、何が楽しいのやら。
こういう体験をした時期が、この国で丁度パーソナリティ障害というものが注目されるようになった時期とかぶっていたことが、現在に至るまでの僕の日々の中で、極めて大きな意味を持っている。こういう、確信犯的に他者との関係性を操作することによる、一見充実しているように見えて、その実空虚な人間関係というもの……それが発生し、そして壊れるのを、その後何度となく傍観することになったからだ。
しばしば僕は、こういうシチュエーションを説明するのに、大平健氏の『やさしさの精神病理』に言及するわけだけど、僕との会話でこの本に興味を持ったらしき U が、『やさしさの……』を amazon で入手して、今丁度読んでいるところである。僕もちょろっと拝借してざーっと見返したりしていたのだが、20年経っても、人というものは実に進歩していないものなのだ、ということを思い知らされる思いがする。関係性を制御しようとすることは、結局はそこに変革も、予想外の出会いもない世界に、自らを押し込めているだけのことである。まあ……たとえばイプセンの『人形の家』における家庭と愛のかたち、とか、昔からそういうものは、その存在も問題性も認識されていたのだろうけれど。
茨城県水戸市生まれ。
横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。
その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。
e-mail address: