"THE COVE" を観て――情緒的反捕鯨論を考える
最近、僕の blog にしばしばニコニコ動画が登場するが、別に僕はニワンゴに恩を受けているわけでもないし、最近ニコニコ動画の広告塔になっているひろゆきに関わりがあるわけでもない。しかし、最近あのニコニコ動画が社会的にいくつかの興味深い試みをしていることは事実である。そのひとつが、あのアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門賞を受賞した "THE COVE" を、日本の映画配給各社に先んじて、しかも無料で配信したことである。
僕は、たったひとつの目的のためだけに、この配信で "THE COVE" を観た。それは、ただただ、「一度も観たことがないものを批判すべきではない」ということのためであったのだが、それにしても見れば見るほど、単純な人々がこの映画に引っかかる様が見えるかのようで、脱力しながら90分あまりの時間を耐えていたのだった。
以下、この映画に関してのコメントを書くけれど、それに先立って、いくつかの了解事項を皆さんに知っておいていただかなくてはならない。それは僕にとっては常識だと思われることなのだけど、僕の常識は社会の常識とは限らないらしい(そうそう、僕ぁ変人だからね)ので、面倒なのを我慢して厭々書くのである。皆さんもあるいは読むのが苦痛かもしれないけれど、今しばらくお付き合いいただきたい。
まず、ドキュメンタリーという概念に関して。これは世間で本当に誤解されていると思うのだけど、ドキュメンタリーというものが、社会に内在するある状況を中立かつ客観的な視点から描写するものだ、と思っている人が少なからず存在するらしい。これははっきりと書いておかなければならないのだけれど、ドキュメンタリーの視点は中立かつ客観的な視点ではない。ドキュメンタリーというものが、文章であれ映像であれ、ある作品として創出されるものである以上、それは表現者があるスタンスに立ち、主観的、かつその表現者の世界観を反映したかたちで生み出すものに他ならない。だから、ドキュメンタリーは真実の一部を描写しているけれど、その描写には当然歪曲が入っているし、表現者の意図に沿わないものは登場しないことすらある。このことは、ドキュメンタリー作家である森達也氏が『ドキュメンタリーは嘘をつく』で明解に指摘していることであって、森氏はドキュメンタリーというものを、社会問題を対象とした、報道の対局にある表現手法であると言い切っているのだ。
ドキュメンタリーを観るとき、僕たちは単純にそれが「真実」だと思い込んでしまいがちだ。しかし、ドキュメンタリーが「真実」を著しくデフォルメしたものであった例を、僕たちはよく知っているではないか。たとえば、レニ・リーフェンシュタールが撮影したベルリン・オリンピックの記録映画(『オリンピア』の名で知られるが、実際は『民族の祭典』『美の祭典』という二部作である)を考えてみよう。その描写のために、スタジオで競技を撮り直したり、アフレコで音声を撮り直したりまでして作られたこの作品で描かれている「強靭な意志を以て統制された肉体美」が「ナチスの強力な思想に統制されたアーリア民族の気高さ」へのメタファーであることは想像に難くない。皮肉なことに、かのナチス宣伝相ゲッベルズがこの映画のあまりのプロパガンダ色の強さに嫌悪感を感じ、何度となくリーフェンシュタールと対立したという、嘘のような本当の話まである。しかし、このリーフェンシュタールの『オリンピア』は、現在に至るまでなお、ベルリン・オリンピックのドキュメンタリーとひろく認知されている。それはこの後も変わらないだろう。つまり、ドキュメンタリーというのは、そういうものなのだ。
もう少し分かりやすく書いた方がいいのかもしれない。要するに、ドキュメンタリーは、執筆者あるいは撮影者が、社会問題の中に表現者の視点から見出した姿を、表現者の世界観や視点を反映させたかたちで表出するものなのだ。だからそこには、複数のメディアの報道を突き合わせて得られるような客観性も、中立性も、何一つ担保されていないのだ。
今回のこの "THE COVE" も、ひょっとしたら「ドキュメンタリーなんだから……」と、そこに実は何一つ担保されていない客観性や中立性が保証されていると思い込んで、単純に観てしまう人がいないとも限らない。これ程愚かなことはないのだ。そういうイノセントな人々に対して、「ドキュメンタリーは嘘をつく」。そのことを、我々は知らなくてはならない。
次に、イルカとクジラに関して。二次文献で恐縮だけど、Wikipedia における「イルカ」の定義を見ると、実にこの問題は分かりやすい。
「イルカ(海豚、鯆)は、哺乳綱鯨偶蹄目クジラ類ハクジラ亜目に属する種のうち、比較的小型の種の総称。」
つまり、イルカは小型のハクジラの総称であって、我々が普段イルカと称しているものは全て分類学上は小型のハクジラなのだ。英語における dolphin と whale の違いも、この「イルカ」と「クジラ」の違いと同様のものらしい。系統樹でいうと、イルカの固まりの中にはゴンドウクジラ亜科(いわゆるイルカより大型のものが含まれる)、シャチ亜科、イッカク科(これに関しては書くまでもないだろうけれど、まあクジラ類の中では特別扱いだろう)が含まれるものの、誤解を恐れずに書くならば、体長 4 m 以下のハクジラを「イルカ」と称するわけだ。
イルカは賢い、とよく言われる。これは脳の容積の比較が論拠となっていて、イルカの脳容積が人間のそれより大きいからである。実際、イルカは賢い。遊ぶ習性を持つし、人にもなつきやすい。しかし、それが単純に脳容積に依存するものであると考えるのは早計である。チンパンジー、オランウータン、ゴリラ、鳥類だったらオウムやインコなども、遊ぶ習性を持ち、人にもなつきやすい。類人猿に関しては人と同じように社会を形成するともされている。しかし、チンパンジー、オランウータン、ゴリラ、オウム、インコのいずれも、人間より脳容積は小さいのだ。では逆に人間より脳容積の大きな動物は……と探すと、ゾウはなんと人間の数倍の脳容積を有する。ゾウは賢い動物ではあるが、イルカに対する「知性信仰」のレベルから考えると、ニューエイジ的な深遠さをもった思考と、脳の容積との間には、どうやら相関は見いだせないようである。
イルカの脳は、解剖学的にはグリア細胞(神経系を構成しない細胞)の比率が高く、神経細胞の量は大きさから連想されるほど多くない。これは水生獣であることを考えるとリーズナブルな話だ……神経細胞は多量の酸素を必要とするために、無用な神経細胞は水中での棲息の障害になる……。だから、脳の大きさでイルカの知能の高さを云々するのはおかしな話である。
イルカの個体同士が超音波で意思疎通をしているのは事実である。しかし、イルカに人口言語を覚えさせてコミュニケーションの実験を行った結果、「誰が」「何を」「どうした」の入った文章を理解したが、「いつ」「どのように」という文章は理解できなかったことが報告されている。同様の研究はチンパンジーやオランウータンに対しても行われているが、京大のアイの例を挙げるまでもなく、このような知能試験に関しては、類人猿の方が圧倒的に高い成績を示すと言っていいだろう。
ではなぜイルカは、類人猿や鳥類、そして一部の哺乳類と比較して殊更に賢いと言われるのだろうか。それは、イルカの賢さがどういう文脈で語られるかを考えると、極めて分かりやすいだろう。イルカの賢さに関する証言は、そのほとんどが、遭遇したイルカの行動が、あたかも人間がある意図のもとにした行動と同じものであるかのように見えた、そして機能した、というものである。
人類学の立場から類人猿を研究している研究者達は、決して研究対象を擬人化しない。類人猿の行動が、彼らの形成する社会においてどのように位置づけられるものか、ということを解釈したその上で、それがあたかも人の……のようだ、と称することはあるだろうけれど、類人猿を擬人化し、その行動を人の行動と直結することを、彼らは避ける。だからこそ、ボノボが性器を擦りつけあう行為を、歪んだ性行動ではなく、社会的コミュニケーションの一つとしての擬似性行為だと見抜けたのだ。擬人化という行為は、対象を人に引き寄せているようでいて、その実は人のかたちに歪めて解釈しようという、極めて手前勝手な蛮行に他ならない。それは対象が類人猿でも、ペットでも、そしてイルカやクジラであっても、全く変わることがないのだ。
ではなぜ、イルカの場合はこういう深遠さがうまく機能しないのであろうか。それはおそらく、イルカに与えられた無垢なイメージというものが深く関係しているのだろう。人が幼少期に失ってしまうイノセンス、それを湛え続ける生き物としてイルカに惹かれる……まあ惹かれるのは本人の勝手かもしれないが、これはあくまでも主観的憧憬に過ぎない。このような情念に一般性を主張したり、ましてやこのような情念を持たない者が人として不完全であるかのように主張する、ということは、やはり極めて手前勝手な蛮行に他ならないのだ。
ちなみに、分類学の最近の共通認識として、イルカは偶蹄目、それもカバにもっとも近いということになっているのだという。たしかにカバに人智を超えた知性を感じる人もいるのだろうけれど、この事実は彼らのバイアスにどのような影響を与えるのか、実に興味深いものだと言えるだろう。
さて、以上のことを踏まえて、"THE COVE" に関する話をしていくことにしよう。この映画は、和歌山の太地町における、イルカの追い込み漁をショッキングに取り上げているわけだけど、映画の冒頭には、和歌山の魚市場でマグロが並んでいる場面が挿入される。マグロの肉質は尾の身で判定されるので、大きな刃物で尾を切り落とす作業をしていたりするわけだけど、そういう場面をシルエットで強調して挿入している辺り、あー次はマグロがターゲットなのね、と勘ぐりたくもなる(しかも、映画の中盤に再びこの場面が挿入されるのだ)。
そして、この映画の製作に携わった3人が登場する。監督のルイ・シホヨスは、海洋保全協会(Oceanic Preservation Society, OPS)という NPO の設立者である。リック・オバリーは、かつて「わんぱくフリッパー」のイルカのトレーナーとして活躍したが、自らの飼育していたイルカの一匹が死んだことから、一転してイルカ保護の運動家となり、飼育対象になっているイルカの不法放流などを多数行っている。そして……これは僕には結構衝撃的だったのだけど……SGI(シリコン・グラフィクス……画像操作に特化したコンピュータを製作していたことで知られるアメリカのコンピュータ企業で、後に HP に買収)やモザイク・コミュニケーションズ(WWW ブラウザとして一世を風靡した Netscape を製作していた会社で、後に AOL に買収)で有名な、あのジム・クラークが登場したのだ。ジムは、この映画では深い悲しみを以てイルカ漁を糾弾する(無論、その悲しみの源は先の主観的なイルカへの共感の念なのだけど)。
彼らの主張はシンプルだ。イルカはアイデンティティを有する賢い動物である(最初の方では「人と同じくらい」と言っていたのが、後の方になってくると「人より賢いかもしれない」に変わってくるのが笑えるのだが)。そんなイルカを殺すのは惨忍な行為である。日本政府と太地町はイルカが IWC の規制対象外であるのをいいことに、イルカを大量に殺して金を儲けている。イルカの体内には生体濃縮で高濃度の水銀が蓄積されており、そんなイルカの肉を食用に供することはましてや許しがたい行為である。
そして、そんな現状を衆目に明らかにするために、彼らはパルチザンとなって太地町に潜入する。警察を欺き、赤外線カメラを駆使して、イルカの追い込まれる入江を撮影する。彼らに語気荒く立ち退きを迫る漁師たち、IWC の総会で顔に笑みを浮かべる日本代表、つたないながらも英語を駆使しつつ彼らの行動を問い質す警察、いずれも戦争映画のナチの兵卒と同じ扱いである。そして彼らは、突きん棒で突かれるイルカの血で赤く染まった入江を撮影する。水中マイクでそのときのイルカの声を録音し、環境庁の担当者との会見の際にそれを突きつける。まあ、先に述べたような「ドキュメンタリー」的アプローチの、ある種の教科書であるかのように、うまくできているわけだ。
しかし、我々は先に「予習」している。ドキュメンタリーの結論が中立な視点と客観性とを担保したものではないということ。そしてイルカが賢い、イルカが人の喪失したイノセンスを忘れずにいる存在だ、と信じたい人々がいるということ。「予習」でみてきたことを通して、この "THE COVE" を通して観ると、結局彼らが、一番根幹にある主張の客観的論拠――なぜイルカを殺してはいけないのか――を何ら提示していないことがはっきりするだけなのだ。
僕らの回答はシンプルだ。イルカは賢い動物だけど、牛・豚・鶏・羊などの主要な畜肉動物と比較して飛びぬけて賢いという明確な証拠はない。そもそも、賢いから殺すなという理屈は、我々が負わなければならない、実は結構賢い畜肉動物を殺して食べて生きているのだという「カルマ」を負っていないということの証明ではないか。イルカを殺すのは惨忍な行為である。しかしそれは他の動物を殺す場合のそれと比較していささかも変わらない。行為の目撃者の心理的衝撃を以て行為の残忍性を一般化するということは、目撃者の文化背景を無視して同一の価値観を強制する蛮行に他ならないではないか。それに、イルカ漁のビジネスは、イルカショーの施設への売却の場合は何とも言えないけれど、漁師にとってみれば、沿岸漁業のそれと比べて何ら違わないものである。イルカの体内には生体濃縮で高濃度の水銀が蓄積されているのは事実だが、これに関しては既に環境庁や厚生労働省から明確なガイドラインが出ているし、米などのように毎日一定量を食べる食料とは位置づけも異なり、健康上の問題をまねくとは考えがたい。
では、なぜそれでも彼らはイルカに、そしてクジラに拘泥するのだろうか。僕はこれを考えるときに、あのクリスチャン・ラッセンの絵画を連想する。いわゆるニュー・エイジ思想において、イルカやクジラは、あの絵画が示すように重要なアイコンになっているのだ。それはなぜなのだろうか。
ニュー・エイジを一言で片付けるには無理があるが、その思想の中に「自然への回帰」そして「自然との対話」というキーワードがあることは、これは皆さんに納得していただけると思う。自然への回帰が向かう先は、深遠かつ混沌とした未知の場であって、それはたいてい宇宙か海か、あるいは高次(と彼らは主張する)の精神世界だ。実在の世界で、僕らがアクセスできるところは、海ということになる。そして、そんな海で「自然との対話」を希求することは、海で実際に意思疎通を行っている動物への憧憬の念を深めることに直結する。そう、まさにクジラとイルカはおあつらえむきなのだ。
イルカはカバに近い。しかしカバはどうやらこのようなニューエイジの嗜好にそぐわないらしい。ゾウの脳は大きい。しかしゾウにはどうやらニューエイジ信奉者は深遠な世界(の妄想)がふくらまないらしい。なんだ、元をたどれば、実はこんな単純な話だったんじゃないか。ニューエイジの信奉者はヒッピームーブメントからベビーブーマーにかけて多いわけで、"THE COVE" に登場する人たち、あのシー・シェパードの関係者達……実はこんな単純なくくりで、あの手合いを片付けてしまえるということになる。もちろん、大人の理屈(ロビイ活動の結果生まれる利権とか寄付金とか)が様相を複雑にしているのは確かだ。しかし、反捕鯨を叫ぶ人々の心のよすがは、何のことはない、あのラッセンのイルカの絵と同種のものだったのだ。
……あーあ、しかし、本当に、本当に、下らん話だなぁ。
本文中で言及した『ドキュメンタリーは嘘をつく』の著者で、ポストバブルの日本におけるドキュメンタリー作家の第一人者である森達也氏が、"THE COVE" に関する評論を書いておられるので、以下にリンクを張っておく: