Ask not what your country can do for you, but what you can do for your country.

國母選手の問題に続いて、スケルトンの日本チーム監督である高橋宏臣氏の blog が炎上している、という。女子スケルトンの小室選手のそりのブレードに、連盟公認のシールが貼付けられていなかったために、小室選手が失格となり、その責任を問う書き込みが殺到しているのだ。と、このように書くと全うな objection のように思われそうだけど、実際のところ、その blog のコメントを見てみると「国の損失の責任をとれ」というようなものが多数を占めているようである。

前々回に國母選手の一件について書いたときに「シャツをズボンから出した位で損なわれるような国の品格など唱えている者こそ国賊である」と僕は書いた。これは思考停止して吠えているわけではなく、国家の品格などというものをそう簡単に振り回されたら、国家の品格を背負う場に居合わせることのあった者の端くれとしては迷惑千万だ、と思うからである。そう。世間で(品格品格と、気軽に)吠えている連中は、実のところ自らが国家の品格を負うことがないからこそああも気軽に吠えていられるのだ。

手前だけコタツにぬくぬくと潜り込んで、バンクーバーの雪や氷の中で力を尽くしている人々のことをどうこう言おうというだけで、僕から見ればそういう連中は「恥知らず」だと思う。おそらくそういう連中はこの言葉を知らないんだろう:

Ask not what your country can do for you,but what you can do for your country.

この言葉は、あのジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領が言った言葉の中でもおそらくは一番有名なものである。訳するとこんな感じだろうか:

国が何をしてくれるかを問うのではなく、国のために何が出来るかを問おうではないか

ここで言う「国が何をしてくれるか」「国のために何が出来るか」という二つの問いが、オリンピックというものと国の品格という文脈でなされるならば、國母選手や高橋監督を口汚く罵ることに血道をあげることと、黙して国の代表として試合にのぞむこととが、この二つの問いのどちらに相当するか、猿でも少し考えればわかるんじゃないだろうか。そして、国の品格を主張するならば、先のケネディの言葉を実践もできずに、何事か他者に矛先を向けられるものだろうか。平気で矛を振り回す人のことを「品格を尊ぶ者」だ、などと、どこの誰が思うものだろうか。僕の知る限り、このような手合いは、日本語で表現するならば「恥知らず」「卑怯者」という単語で表記すべきだし、実際そういう手合いだとしか思えないのだ。

日本が國母を見限る前に

スノーボード・ハーフパイプ代表の國母選手に関して、このところ世間では騒ぎになっているようだけど、僕には何が何やらてんで分からない。

まず、なぜ彼の服装や言動が「日本の品位」に関わるのか、という話。そもそも JOC の服装規定というのが実に曖昧なのだ。なんでも、JOC が定めた「日本選手団公式服装着用規定」というのがあって、

(着用の規定) 第2条 日本選手団に認定された者(以下「選手団という」。)は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない。
との一文があるのだそうだが、あの國母の服装は、おそらく國母本人にとっては「自覚と誇りを持って」ああしているのだろうと思う。もちろんドレスコードというのはああいう場には暗黙のものとして存在するわけだけど、だったらなぜ飛行機を降りる前に彼に一言かけなかったのか。そもそも彼がああいう服装をすることは十分予測し得るわけだし、降りるときに誰かしらか彼の姿を視認しているはずなのだから、そこで指導者や監督者が「ドレスコードってのがあるから、プレスの前で選手団の公式服装を着るときはこうしてくれ」と言えばいいだけの話だ。そもそも「自覚と誇り」なんていう主観的感覚で統一を問うこと自体、ナンセンス極まりない。こうさせたい、というものがあるなら、それをコードとして明示すればいいだけの話なのに、なぜそれをしないのだろうか?

いい歳の大人が……云々、という話が出てくるのだろうけれど、彼の着崩し方は実に違和感のないものだった。なにせ、あのピーコが「上手い着崩し方をしている。普通の人があんな着方をしたら総崩れになっちゃうのに」と感心していた位だ。そもそも、空港のロビーという場所でそんなに厳密なドレスコードが問われるものだろうか?スポーツ選手が試合の地に入ってくるときというのはリラックスしているべきだと思うし、あんな格好をしているのならむしろリラックスしていることに安心すべきなんじゃなかろうか。

いやそれでは日本の品位が損なわれる、とかいう人がいるのだろうか。そんなこと位で損なわれるような国の品位だったら、さっさと捨ててしまえばよろしい。自分の話で恐縮だけど、僕は国際会議とか外国人相手のディスカッションとかで何事かを主張しなければならない場に何度となく身を置いたことがある。しかし、日本人としての品位を損なわない、ということは、少なくとも服装なんかでどうこうできるような話ではない。どんな綺麗な服をどんなに上手く着こなしていたって、どこそこの国で女を買って……みたいな話で汚らしく笑っているような日本人を、僕は何度か見たことがある。彼らはいずれも社会的ステイタスというものを持ち合わせている人達だったけれど、僕はああいうときには、自分があいつらと同じ国の人間だと思われるのか、と考えただけで、この上なく汚らわしく感じたものだ。繰り返すけれど、ズボンからシャツを出したくらいで損なわれるような品格など、主張するだけで有害だから、そういう品格を振り回す人は自分が国賊であることをまず認識していただきたいものである。

最後に……そもそも國母選手はプロのスノーボーダーで、ワールドシリーズにも参戦している人物である。プロ選手にとって最も大切なのは、己のポテンシャルを主張する場としての、つまりはプロとしての試合であるに決まっているのだ。そして、そのためには他国に行くことだって彼らは厭わない。必要であるならば、その国に帰化してでも、彼らは戦うのだ。それがプロスポーツプレイヤーというものだ。プエルトリカンの大リーガーも、日本のナショナルチームでプレイしていたサッカー選手も、年寄株の取得を目指す外国人力士も、皆そうしているし、社会はそれを受容しているではないか。

國母選手だって、アメリカやカナダでプロとしてのキャリアと生活を両立できる、となれば、そういう国で生活するかもしれない。場合によっては帰化することだってあり得るだろう。日本が國母を見限る前に、きっと國母が日本を見限るに違いない。それは日本のスノーボード界、そして広くスポーツ文化というものにおいて、大きな大きな損失になるに違いないのだけど。

トヨタのリコールが何故問題なのか

この問題に関しては面倒なので書かないでいようと思ったのだが、トヨタ擁護の論者をあちこちで散見するので、ここにはっきりコメントを掲載しておくことにする。

まず、工学的視点から。今回のプリウスのブレーキの問題は、ABS に絡んだ問題だ、という報道がなされているが、その内実を詳細に書いたものがあまりないようだ。そもそも ABS というのが何か、という話から始めなければならないのだが、アンチロック・ブレーキ・システム、つまり、ブレーキのロックを抑制する装置、ということである。どのように抑制するか、というと……クルマに乗られている方は、ポンピングというのをご存知だと思う。ブレーキをかけるときに、ロックしたら踏力を抜き、グリップが回復したらまたブレーキペダルを踏む、というのを、ポンポンと繰り返すのがポンピングなのだけど、これを自動的に行うシステムが ABS である。一般的な油圧ブレーキの場合、油圧を弁の開閉でかけたり抜いたりすることでこのような制御を実現できるのだけど、実際の ABS はこのポンピングの周期が非常に短かい。アスファルトのブレーキ痕を見ると、タイヤ痕が切れ切れになっていることがあるけれど、これが ABS の動作していた証拠のようなもので、クルマのスピードから考えても、その周期の短かさがよく分かる。

ところが、ハイブリッド車のブレーキは、この油圧ブレーキだけではない。ハイブリッド車の場合、回生発電という機構で車の運動エネルギーを回収するからだ。この回生発電というのは、減速時にモーターを発電機として動作させることによって、クルマのブレーキとエネルギー回収の双方の役目を担わせるというもので、今回問題になっている新型プリウスの場合は、実際のブレーキングの大部分はこの回生発電によって行われている、という。

つまり、ハイブリッド車の ABS というのは、油圧ブレーキと回生発電というふたつの異なる機関の組合せで行っているブレーキングにおいて、高速でポンピングを行う必要がある。その際、ポンピングしながら、回生発電と油圧ブレーキ制動の切り替えも行わなければならない。今回のブレーキの問題というのは、この制動機構の切り替えと ABS の作動のかねあいで起こるものと言われている。

ここであまり話に出ないのは、回生発電ではポンピングしているのかどうか、という話だ。回生発電制動でポンピングすることは原理的には可能で、これは負荷比率をロックする境界線の各々に設定し、二つの負荷設定を高速スイッチングで切り替えればいい。しかし、実際にはこのようなスイッチングは決して簡単ではない。低摩擦路での制動試験における映像を見る限りでは、新型プリウスでは、回生発電をタイヤロックを来さない負荷領域で行い、制動負荷が大きくなる止まりかけの領域で、回生発電から油圧制動への切り替えをして、その後にポンピングを行うような制動を行っているようだ。

このような制動を行っていれば、ふたつの制動機構の切り替わるときに人間が違和感を感じることは容易に想像できる。なぜならば、回生発電はフットブレーキに影響を及ぼさないが、油圧ブレーキのポンピングは、ペダルの踏力の反力となっている油圧を高速で上げ下げするわけだから、ペダルの踏力がガクガク変化するようなフィードバックをもたらす。このふたつの状態が何の予告もないままに切り替わると、ブレーキペダルの踏力で制動力の情報を得ている人間は当然混乱するのである。

だから、工学屋としては、今回のプリウスの問題は、

  • ふたつの異なる制動機構の切り替え
  • それに伴う運転者へのフィードバックの変化
というふたつの問題をきっちり追い込んでいなかったためだと「容易に」推測できる。お粗末極まりない、としか言いようがない。

そして、企業としてのトヨタのありように関して。そもそも、横山裕行常務役員のはじめのコメントがダメダメである。

私どもは、お客様の感覚と車両の挙動が少しずれていることによって、お客様が違和感を感じられるという問題だと認識していた
このコメントは、読みようによっては「客がずれているんだ」と取られても仕方がない(実際、この横山常務は本当にそう思っていたんでしょうな)。しかし、クルマを動かすのは人間なのだ。だから人間の感触がおかしいなら、そう感じさせるクルマの方がおかしいのだ。自社製品を顧客の反応の基準とする、など、思い上がりもはなはだしい、としか言いようがない。よくもまぁ、国交省に(しかも、その新型プリウスに乗って!)顔を出して、リコールの書面をメディアの前で渡せたものだ。恥知らずにも程がある。

現在、アメリカではカローラの電動パワステが時速60キロ代で運転者の意思と無関係に左右にふらつく、というとんでもないクレームが相次いでいる、という。先のブレーキペダルの件も合わせれば、トヨタはクルマの最も基本的な3要件、すなわち「走る・曲がる・止まる」の全てにおいて不具合を出している、ということになるわけだ。これはユーザーからオアシを頂いて、しかも命すらあずかっている会社が断じてすべからざることなのではないだろうか。逆に言うと、そんなことを平気でする会社ってどうなのよ?そういう話なのである。

いや、一緒にせんといて下さい

世間では、僕のように信仰を大っぴらにしているカトリックというのは、実は少数派である。というのは、それを大っぴらにしていると不愉快なめに遭うことが少なからずあるから、なのだけど、そういう不愉快なことをしかけてくるのは大抵が「半可通」だったり、某信濃町系(仏教と自称する)個人崇拝団体の関係者だったりする。

僕が遭った事例を思い返してみると、自称キリスト教通にいわゆる千年王国とか携挙とかの話をされて、はぁしかしカトリックの僕には関係のない話ですねぇ、とか言うと、「そんなことも分からないでクリスチャンぶっている愚か者め」というようなことを言われたり……とか、たまたま友達の家で同席した奴が信濃町系で、僕が先に退席するや、いかにキリスト教が「不完全」(何がどう不完全なのか要領を得ないし、そもそも人間崇拝者にそんなこたぁ言われたくないんだが)か、そしてそんなキリスト教の信仰を持つ僕がいかに「不完全」な人間なのか、滔々と語り出した……とか、まぁそんな感じだった。この手合いは、放っておけば自ら馬脚を露わにしてくれるから、別に深く関わるつもりもない。

では、どういうのが問題だと思うのか、というと、「キリスト教代表」みたいな顔しておかしなことを言う連中が出現したり、その手の輩の風説が流布されたりする状況が問題なわけだ。この手のもので一番皆さんが覚えておいでであろうものは、ちょうど3年前にメディアミックスがかけられた、いわゆる『パワー・フォー・リビング』であろう。アメリカで保険のテレホンショッピングで財を成した Arthur S. DeMoss が設立した財団によるこのメディア・ミックスの後、僕も複数の人から「Thomas さんもああいうのなんですか?」と聞かれて困ったものだ。

ここに明記しておくけれど、あの『パワー・フォー・リビング』の運動を行った Arthur S. DeMoss 財団というのは、アメリカのキリスト教右派の立場を取る宗派を超宗派的に援助する財団で、妊娠中絶反対とか、家庭婦人運動とか、そういうものに影から多額の援助をしている。そして、財団内部では Arthur S. Demos の遺族達が不明朗な会計処理を行っていたことが判明して、アメリカ当局から厳重な査察・注意がなされたという過去がある。内においても外においても後ろ暗いところのあるこうした財団と、正直言って同一視されるのは御免なのだ。

さて。今回の話をする前に、日本の多くの人が知らないことに関してフォローしておく必要があるだろう。東アジアで最もキリスト教が活発な国はどこか?という話である。答は「韓国」。かの国は、国民の3割がクリスチャンという一大キリスト教拠点である。おおむねプロテスタントとカトリックの比率は 2:1 というところだろうか。だから、国民の2割がプロテスタント、1割がカトリックということになる。

2月1日号の AERA に韓国のキリスト教に関する記事が掲載されていた (pp. 30 - 32) が、そこでは、韓国でキリスト教が広まった理由として、韓国・延世大の柳東植元教授の著書『韓国のキリスト教』の中からこのような箇所を引用していた。

  • 日本の植民地からの解放や朝鮮戦争など、社会が激しく変動した時期に積極的に宣教した
  • 朝鮮民族の有神論的な霊性が、部分的にキリスト教の信念体系に合致した
  • 熱情的な祈祷会や伝道活動が民衆の宗教心をとらえた
いやそれは客観的でないコメントでしょうね。第一の理由はむしろ、朝鮮戦争後に、アメリカのミッションが多数入り込んで、国家復興と並行するかたちで伝道活動が行われたから、と書くべきで、日本植民地からの解放というのがダイレクトに結びつくという指摘は、これは明らかに不自然だろう。二番目や三番目も、「有神論的な霊性」とか「熱情的」と書くよりも、むしろ fanatic(狂信的)と書く方が適切だろうと思う。たとえば韓国由来のペンテコステ派の教会にでも行ってみれば、日本のキツネツキと見ため全く区別がつかない「異言」の様子をみることができる。現実はそうキレイなものではないのだ。

上述の AERA の記事では、韓国のキリスト教勢力の日本におけるムーブメントとして、「ラブ・ソナタ」に関して、そして、国際福音キリスト教会のセックススキャンダルに関して書かれていた。ここに明言しておくけれど、どちらもカトリックとは何も関係ありませんので、お間違いなきよう。

ラブ・ソナタであるが、これはソウルのオンヌリ教会が中心となって主催している、韓流からキリスト教伝道を行う団体である。2007年から活動している、というが……彼らが何者なのかは、彼らの自己紹介: 「ラブ・ソナタとは」を見れば分かる。ここにはこうある:

一番目、ラブ・ソナタは リバイバルです。

リバイバルとは何か。ここでの意味は、簡単に言うならば「聖霊のはたらきによる著しい信仰の目覚め」である。この「リバイバル」ということばがキーワードとして重要視されたルーツは、20世紀初頭のロサンゼルスであるとされる。程なくして「リバイバル」から「ペンテコステ」(聖霊降臨)を旗印としたペンテコステ派が誕生し、日本にも宣教師が来るようになった。現在のプロテスタントで言うならば、たとえば「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」は、日本におけるペンテコステ派の古株、ということになる。注意しなければならないのは、そういう既存の宗派の中にあって、「いや自分はこう考えてるんだけど」と思う人は「私は私の派でやります」と、新しい教団を設立してしまうことが非常に多い。極端に言うならば、一人一派とでも言うような活動が行われていて、日本だけに限定しても、ペンテコステの範疇にある教団というのは枚挙に暇のない程に存在する。

このように分散していく運命にあるプロテスタントは、カトリックや東方正教などとは異なり、ひとつひとつが持つ力が小さいものとなってしまう宿命を負っている。だから、同じ派の中で大きな力を持つ派に与するかたちで、福音宣教活動を行おうとするわけで、今回のこの「ラブ・ソナタ」も、韓国の大教会に日本の教会が乗っかったかたちだ、と見るべきだろう。

近年、日本のキリスト教はこのような韓国勢力を頼みとするような向きがあるのだが、どういうわけか、彼らの中からセックススキャンダルをおこす牧師が散発的に登場する。異端とされているかの統一教会や「摂理」などもそうだけど、この10年程の間、大きな問題になりながら、ついこの2、3日前までメディアで問題提起されなかったのが、国際福音キリスト教会である。

この教会を日本に設立したのは、韓国長老派の牧師である卞在昌(ビュン・ジェーチャン)であるが、卞は1997年に日本で宗教法人小牧者訓練会なる団体を立ち上げている(先の国際福音キリスト教会は、この小牧者訓練会の傘下の教会である)。この団体は、国際福音キリスト教会以外にも、雑誌『幸いな人』、動画配信サイト『アガペー TV』などを傘下に有している。この団体は、一見すると「ディボーション」というキーワードを推進する団体であるかのように見える。しかし、その内実は、聖書精読から、教会のリーダー格を育成するための活動、と言う方がむしろ正しいだろう。分裂・小規模化するプロテスタント教会にとって、このような指導者育成活動が一種の福音(この比喩を使うのはあまりに皮肉っぽいけれど)であったことは想像に難くなく、実際、彼らが主催したセミナー「全国小牧者コンベンション」は、上述 AERA の記事によると、昨年中止されるまでに、約2000もの教会(これは全プロテスタント教会の 1/4 に相当する)の牧師・宣教師・信者が参加しており、主催者である卞牧師も、各方面の聖職者に高い評価を受けていたのだ、という。

ところが、卞牧師に関するセックス・スキャンダルが表面化する。Faith of Esther (FOE)なる団体が、「宗教法人「小牧者訓練会」による被害を受けた女性達の救出と癒しを目的と」して設立された。そして昨日、ついに卞牧師が逮捕されるという事態に発展した。当の国際福音キリスト教会のコメントは、というと、今日の段階では以下の通りである:

このように、プロテスタントの宗派の中には、しばしば分裂と混沌の中に没入するが如く、このようなスキャンダルや、個人や団体に向けた誹謗中傷などにつきすすんでいってしまうものがある。二千年の長きに渡って、人の犯す過ちをあらかた経験してきたであろうカトリックの人間として言うならば、このような問題はまず間違いなく「人が人を牧する(ここでは「司牧」と言うよりも「牧会」と言うべきであろう)」という構造に起因している。カトリックの司祭のように、世俗の欲望の対象物を遠ざけることを課していないプロテスタントの牧師が神との関係を忘れてしまうと、とたんにその牧師は神の名を騙った暴君になってしまう。しかも神の名を纏っているが故に、信者はなかなかそれに抗うことができない。それ故に、このような話は他の何ものよりも罪深いのである。そしてこのような話は、探せばいくらでもある……たとえばあのキング牧師でさえ、信者女性との不適切な関係があったことが知られているのだから。

もちろんカトリックが清廉潔白だと言うつもりはない。しかしカトリックには、過ちの歴史という「財産」があるのだ。人が人として犯すことは、この二千年の歴史をひもとけば、まず初出ということはありえない。そして僕達は、その歴史から学ぶことができるのだ。もしプロテスタントが「カトリックだから」という理由だけでこのような「学習行為」を否定したり、無意味なものだとこきおろすのならば……お願いだから、一緒にせんといて下さい。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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