聖書朗読が大切な理由

先週末は、3日連続で教会に行っていた。というのも、24日はクリスマス・イブのミサ、25日はクリスマスのミサ、そして26日が主日のミサ(いわゆる日曜礼拝というやつ)だったからだが、どうも最近、ミサに行く度にイラっとさせられることが多くて参る。

そのひとつが、ミサ中の聖書朗読がいい加減に行われていることである。どのように「いい加減」なのか、というのは、よくあるパターンそのままで、

  • 読み間違いが多い
  • 速過ぎる
  • さも感情移入している風を装ったあざとい読み方
というようなものなのだけど、受洗して何十年も経っていそうな人々までこの体たらくなのだから、お寒い限りである。

こういう人々は、おそらくミサ中になぜ聖書朗読が行われるのか、その理由が分かっていないのだろうと思う。それを知っていたら、とてもじゃないけれど、こんな読み方はできっこないのだ。聖書朗読がなぜ大切なのか、というのは、初期キリスト教の様相というものを思いやれば簡単に理解できる。

初期キリスト教というものの維持・伝播には、実は不思議な特徴がある。当時の社会において、かなりの割合の人が文盲であったにもかかわらず、キリスト教が聖書や書簡などの「文書」によって伝播し、維持された、という点である。キリスト教が「ことば」にいかに重きをおいていたのか、というのは、たとえば「ヨハネによる福音書」の冒頭部をみればよく分かる:

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。−−ヨハネ 1:1−5

この「言(ことば)」というのは、ギリシャ語では λόγος (ロゴス)、ラテン語では verbum (ウェルブム)と記されるが、このロゴスというのは、特に理知的・論理的な「言葉」を指す語である。つまり、神は理知的・論理的な言葉そのものである、と、上引用部は記しているわけで、これは神とその発した言葉の関係を神とキリストのそれになぞらえていて、しかも言葉と神が同一であると書いていることから、三位一体という概念に大きな影響を与えた記述とされている。やがてロゴスという言葉はキリストを指す語として使われるようになるのだが、これ程までに、キリスト教においては、言葉とその背景に湛えられた論理が重いものとして扱われているのである。

しかし、だ。我々は、キリスト教の成立当初において、それが社会的弱者のものであった事実を思いやらなければならない。彼らは充分な教育を受けることなど到底できなかったはずで、文字の読み書きなどできる者は極めて少数だったはずである。なにせ、聖書の中にも:

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。−−使徒言行録 4:13
と書かれている。この時代、無学という言葉は暗に文盲を指すものだったので、十二使徒の代表メンバーであったペトロとヨハネですら文盲であったことが、ここから推測されるのである。

しかし、この時期に、パウロは夥しい数の書簡を各教会に送っている。そしてその中に、その書簡を読み聞かせるように書いているのである。

この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。−−コロサイ 4:16
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。−−1テサロニケ 5:27
このような記述が何を意味しているのか。答は簡単で、各共同体にほんの一握りだけ存在した文字の読める人が、このような手紙を音読し、皆に聞かせる役目を負っていたのである。その人は、自分の言葉としてではなく、パウロの言葉としてそれを読み、文字の読めない信者達はその内容を自分のものにすることができたのである。

これは聖書においても同様である。

ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。−−ローマ 10:14−15
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。−−ガラテヤ 3:1−6
福音伝道が「読み聞かせ」たものを会衆が「聞く」ことによってなされていたのは、これらからも明らかである。つまり、聖書の使徒書や書簡、あるいは聖書の他の箇所を「読み聞かせ」るという行為が、教会成立当初からの、福音を分かちあう上での最も基本的で、最も重要な行為だ、ということも、やはり明らかなことなのである。

どうも最近、こういうことを何も考えずに聖書をただ読んでいる……いや、聖書すらチェックせずに、典礼用のパンフレットの引用箇所を、音読練習もせずにぶっつけで読んで、つっかえつっかえ無様に読んだり、はなはだしきに至っては、書いてもいないことを頭の中で勝手に補填して読んでいるような人が多数派になりつつあるのは、このような事実に目をやったことのある者からすると、もう苦痛で苦痛でたまらないのである。

痛む傷に触れないことの残酷さ

中国、また合意の「障壁」=朝鮮半島情勢で一致できず−安保理

【ニューヨーク時事】国連安全保障理事会は19日、朝鮮半島情勢の悪化を食い止めるため、国際社会の一致した声を上げようと努めたが、交渉は事実上決裂した。北朝鮮非難を断固受け入れない中国が再び合意の「障壁」となり、安保理には無力感すら漂っている。

安保理議長国・米国のライス国連大使は閉会後、「大多数の国が砲撃事件をはっきり非難することが重要だという立場だ」と指摘し、中国のかたくなな反対があったことをうかがわせた。会合開催を要請したロシアは、北朝鮮問題でしばしば中国と足並みをそろえるが、今回は日米などに譲歩。ロシアのチュルキン大使は「われわれにできることはやった」と無念さをにじませた。

砲撃事件が起きた11月23日以降、日米は安保理の対応を検討したが、中国は「北朝鮮を刺激すべきではない」との姿勢を堅持した。北朝鮮で発覚した新たなウラン濃縮施設をめぐっても、日米などは既存の決議違反だとして、非難声明の発表に向け動いた。しかし、安保理筋によれば、中国はここでも「施設を見たのは米科学者だけだ」などと、当初から後ろ向きの態度を取り続けた。

安保理は2006年と09年に北朝鮮が行った核実験を受け、制裁決議を2本採択した。それ以降も禁輸品が北朝鮮に流入する中、「中国の制裁履行の不徹底が最大の課題」(安保理筋)とされている。圧倒的な力を誇る常任理事国・中国の説得は容易ではなく、安保理は北朝鮮問題で行動を大きく制約されている。

(2010/12/20-14:38,時事通信社 元記事リンク

毎度の話ではあるが、緊急招集された国連安全保障理事会において、中国側の強硬な主張によって、国連の北朝鮮非難は実現しなかった。

昔の東西対立の構図が頭に沁み付いている人は、旧東側の国が北朝鮮を擁護した、と思われるのかもしれない。しかし、上引用記事を御一読いただけるとお分かりかと思うが、今回のこの安保理事会はロシアの要請によって緊急招集されたのである。ここには、もはや昔の東西問題の構図は存在しない。

中国が北朝鮮を擁護する理由は大きく分けてふたつある。ひとつは、自国と日本・韓国・米国との間に、非自由主義の国家を挟むことによるミリタリーバランスの維持。そしてもうひとつは、北朝鮮国家が瓦解したときに予想される、北朝鮮=中国国境からの大量の難民流入への懸念である。先頃、あの WikiLeaks の流出文書の中で、中国が非公式に、北朝鮮瓦解時には30万人程度までなら難民を抱えてもよい、とコメントした内容が暴露されているが、この経済発展の最中に大量の難民を抱える危険を、おそらく中国は最も恐れているのだろうと思われる。

しかしながら、中国は、北朝鮮が遅かれ早かれ瓦解する運命にあるという事実に対する対応を明確に見せてはいない。まあ早い話が、中国にしてみれば、北朝鮮という国の存在は、丁度、化膿した小さな傷があるようなものなのだろう。今すぐに命がどうの、という話ではない。しかし、このまま放置しておいたら、痛むし膿は出るし、あるいは発熱するかもしれない。でも、どうしても処置しなければならないようになるまでは、それがあることからせめて目を反らして、まるでそれが存在しないかのように振る舞っていればいい。そういう態度なのだろう、と、見てとれるわけだ。

しかし、この化膿した小さな傷は、決しておとなしく身を潜めていてくれるわけではない。先に書いたように、痛みも膿も確実に存在するし、そこが熱を帯びてくることもある。四六時中、恫喝的な放送を流しているし、時々巡洋艦を沈めたり、ロケット弾を撃ち込んだり、色々とやらかしてくれる。内部の権力移譲に伴うゴタゴタが吹き出して、今後の国家運営すら覚束ないのだ。

確実に破綻を来す隣人に、姑息的な友情を示している風を装って、他の人々には、まるで傷に風が当たるのが悪いのだと言わんばかりに「刺激するな」の一点張り。そんな存在に、一体どれ程の誠実さがあるというのだろうか。僕には、誠実さなぞそこに欠片程も存在しないとしか思えない。隣人のために被害を被る他の存在にも、隣人にも、確実にその被害は及ぶのだ。そして何より自らが、安易な姑息的平衡が都合良く続いてくれると思い込み続けたツケを、いずれは払わなければならない。それは決して安くつくものではないはずだ。自分にすらこれ程に、不実なことがあるだろうか。

日常生活においても、しばしばこういうパターンのことが起こり得る。特定のことをどうこう言うつもりはないけれど、傷を抱えた隣人の八つ当たりだけならまだしも、その隣人を律すべき人の姑息的な安寧のために、干渉される側の身にもなってほしいものだ。本当に、姑息で、不実で、そして卑怯なことではないか。

ザウアーブルッフについて (1)

先日、レーシック手術を行っていた眼科医院で、器具をオートクレーブで消毒しなかったために、何人かの患者が深刻な細菌性角膜炎を罹患した、というニュースが流れた。

銀座眼科の元院長逮捕=滅菌処理せず感染拡大−レーシック手術の角膜炎・警視庁

東京都中央区の「銀座眼科」(閉鎖)で視力矯正のレーシック手術を受けた患者が細菌性角膜炎に感染した事件で、警視庁捜査1課は7日、業務上過失傷害容疑で、元院長で医師の溝口朝雄容疑者(49)=茨城県日立市神峰町=を逮捕した。

同課によると、同手術をめぐる医療関係者の逮捕は初めて。同容疑者は「今は何も言えない」と話しており、ずさんな衛生管理による感染拡大の実態を解明する。

逮捕容疑は2008年9月から昨年1月の間、十分に滅菌されていない機器を使ってレーシック手術をし、都内や神奈川県の20〜40代の男女5人に不正乱視などの後遺症を伴う全治不明の細菌性角膜炎を負わせた疑い。

同課によると、この間に角膜炎に感染した患者は七十数人に上る。

同容疑者は手術1回ごとに、器具を高温・高圧で滅菌する必要性を認識しながら漫然と手術を繰り返し、感染を拡大させたとみられる。手袋やマスク、手術帽を着用しない場合もあった。

同課は、角膜炎を発症した複数の患者と、同眼科で手術に使われた吸引機から、同じDNA型の細菌を検出。同眼科が感染源と特定した。

捜査関係者らによると、同眼科では07年に患者が角膜炎を発症。同容疑者は06年8月の開院以来、滅菌用機械を1回も点検していなかった。昨年1月に機械を交換後、感染被害はなくなった。

同眼科をめぐっては、中央区保健所が昨年2月に立ち入り調査し、75人が角膜炎などを発症したと発表。弁護団は1億円以上の損害賠償を求めて提訴し、被害者12人が同庁築地署に告訴した。

(2010/12/07-12:53、時事通信社、元記事リンク

このようなニュースを耳目にする度に、ある一人の医師の名前を思い出さずにいられない。その名は、フェルディナント・ザウアーブルッフ Ferdinand Sauerbruch という。

ザウアーブルッフのことは、今までも何度か自分の blog に書いたことがあるのだけど、今に至るまで、日本語でザウアーブルッフに関して詳細に記したものが Internet 上には存在していない(Wikipedia 日本語版にもエントリーは存在しない)。これはおそらく、医師は一度は名前を聞くであろうけれど、現在の医学を学ぶ上での重要性が然程高くなく、そして一般人には名を聞く機会がまずないからだろうと思う。だから、僕のような門外漢であっても、この人物のことについて少しく書いておくことは、少しは世の役に立つだろうと思い、ここでふれておくことにする。なお、この人の名は以前から「ザウエルブルッフ」と記されることが多かったのだけど、現在のドイツ語の発音に近いであろう「ザウアーブルッフ」で以下の記述は統一する。

フェルディナント・ザウアーブルッフは、1875年にドイツのバーメン(現 ヴッパータール)で生まれた。フィリップ大学マールブルクで医学を専攻し、卒業後はフリードリヒ・シラー大学イェーナを経て、1902年にライブチヒ大学で学位を得、翌年にブレスラウ(現 ポーランド・ヴロツワフ)に移った。

若き外科医であったザウアーブルッフが、新しい手術の確立に野心的に取り組もうとしていたことは想像に難くない。ブレスラウ大学では、テオドール・ビルロート(ビルロート法、というのをお聞きになられたことのある方も多いと思うが、胃の切除術・吻合術を確立した人物である)の弟子であるヨハン・フォン・ミクリッツ=ラデッキー(ミクリッツの父系はポーランドであり、彼の名もイアン・ミクリッツ=ラデッキーと書くべきなのだが、慣習に従ってドイツ語読みにする)が教鞭を執っており、ザウアーブルッフはこのミクリッツに師事することになる。

ミクリッツはビルロートと共に消化器外科の研究に従事した後、甲状腺外科の分野を開拓したことで知られ、自己免疫疾患である「ミクリッツ病」にその名を遺している。このミクリッツの下で、ザウアーブルッフは、当時まだ開拓されていなかった胸部外科手術の研究に従事した。

胸部に関わるものとして問題になることが多いのが、心臓、食道、そして肺の疾患である。特にがんに関しては、ビルロートが胃に対して行ったような外科的切除の効果が期待されたわけだが、これには大きな技術的課題があった。胸を開けると、肺が潰れてしまうのである(これを肺虚脱と称する)。

肺を中心とした呼吸器の構成を、Wikipedia 日本語版のエントリ「呼吸器」から引用する:

呼吸器の構成:胸腔・肺・横隔膜

上図中の肺は、胸腔と呼ばれる閉鎖空間内に存在する。胸腔の底になっているのが、横隔膜と呼ばれる筋肉の膜で、これを上下することで、胸腔内の圧力を上げ下げし、肺を伸縮させることで、生物は呼吸できるのである。この図では今一つピンとこない、という方のために、模式的に示した図を以下に示す:

呼吸器の模式図1

上図の筒状のものが呼吸器だと思っていただきたい。緑の管が気管、ピンクの袋が肺、ピストンが横隔膜である。横隔膜を下げる = ピストンを引くと、胸腔の容積が増大するので、圧力の平衡を保つために、気管から肺に空気が入り、肺は膨らむ。横隔膜を上げる = ピストンを押すと、胸腔の容積が小さくなるので、圧力の平衡を保つために、肺から気管に空気が出て行き、肺は萎む。このような原理で、肺の中の空気が出し入れされて、呼吸が行われるのである。

もし胸腔が外界と通じたらどうなるのか。それを模式的に以下の図に示す:

呼吸器の模式図2……気胸

胸腔が外界と通じると、気管や肺を通らなくても、空気は胸腔の開放部から自由に出入りできることになる。そうなると、横隔膜を上下させても、肺が伸縮することなく、胸腔は開放部を通して外界との間で空気が出入りするだけ、ということになる。つまり、何の対策もないままに胸腔が外界と通じることは、肺が潰れて、呼吸ができなくなってしまう、ということである。このような状態を気胸という。

余談だが、病として起きる気胸は、多くの場合、肺や胸膜直下に生じた嚢胞が潰れることによって、肺の中にある空気が胸腔内に漏れ出ることで起きる。その状態を以下の図に示す。

呼吸器の模式図3……自然気胸

このような、外的傷害ではない原因で起きる気胸を自然気胸という。皆さんの身近にも自然気胸を患った方がおられるかもしれないが、その方の肺にはこのような状態が生じていたわけだ。

このように、胸部の外科手術においては、肺を潰さないような状態を維持する対策が必要になる。この対策としてザウアーブルッフが考えたのが、肺の周辺を大気圧よりわずかに低い圧力下に保持すればよい、ということだった。その概念を以下の図に示す。

呼吸器の模式図4……ザウアーブルッフ室の概念

胸腔が外界と通じている患者の肺の近傍を、閉鎖したチャンバー内に収容して、その内部の圧力をわずかに下げる。そうすると、閉鎖された胸腔で横隔膜が下がったのと同じ状態になって、肺の中に空気が流入し、肺が膨張する。この状態で手術を行えば、肺が潰れずに済む、と考えたわけだ。

ザウアーブルッフは、まず犬の胸部だけを収納できるグローブボックス(名前の通り、手袋の付いた箱で、気密の守られた箱の内部を手袋越しに外部から操作できるようになっている)のようなものを作り、そこに犬を入れ、箱に腕を突っ込んで手術実験を行ったらしい。[1] 犬は首から上と、胴から下は箱の外に出ている状態なので、胸腔の部分だけ圧力が低くなり、肺は膨張したままの状態になるわけだ。この実験に成功すると、次は人が入れる程の大きさの箱(と言うよりはもはや部屋だけど)を作った。箱の内部で、執刀者は座った状態で手術に集中できるようになっていて、箱の内部は外部よりも 10 mm Hg だけ低い圧力が維持されるようになっていた、という。

かくして、人の肺を手術する準備をザウアーブルッフは整えた。彼の考案した「低圧室」がどのようなものだったかを以下に示す:[1]

ザウアーブルッフ室1

小屋のような手術室の壁の穴から患者の首を出し、下半身を外に一端の通じたゴム引きの袋で覆う。穴や袋と人体の間にはゴムのパッキンがあって、空気が容易にそこから漏れないようになっている。この状態で、室内を外部より低い圧力にする(おそらく、継続的にポンプで脱気していたのだろう)。患者の胸部と腕だけが低圧下に置かれ、医師や助手はこの室内で開胸手術を行うのである。術中の外との出入りのために、エアロック付きの副室(下図)も設置されている。[1]

ザウアーブルッフ室2

この低圧室を用いても、設定いかんによって手術はうまくいかないこともあったらしい。[2] ザウアーブルッフ自身も初期の実験において患者を死なせたことがあり、落胆して自室で涙に暮れていたところを、恩師であるヨハン・フォン・ミクリッツ=ラデッキーはこう励ましたのだ、という。

「われわれは生命なき物体の気紛れが、われわれから勝利の果実を奪うにまかせるわけにはいかない」[3]

この激励に励まされ研究を続けたザウアーブルッフは、1904年に、低圧室を用いた胸腔内手術法を発表する。この手法は革命的なものとして受け入れられ、欧米の各地にはザウアーブルッフ法に用いるための低圧室が設置された。その中でも最大のものは、ニューヨークのロックフェラー医学研究センター(現 ロックフェラー大学)に1909年に設置されたもので、その容積は1000立法フィートあり、患者、医師、助手、見学者、低圧室の内圧を管理するエンジニア、そして麻酔医2人を含めた計17人を収容でき、しかも麻酔医は、低圧室内の患者の頭部近くに設置された「高圧チャンバー」(大気圧と同じ圧力に設定された副室)に入るようになっていた、という。[1] 日本においても、1900年代初頭にザウアーブルッフの在籍したブレスラウ大学に留学していた尾見薫氏が、帰国後、自らの病院にザウアーブルッフの低圧室を導入している。[4]

……と、ここまでを読むと、外科手術におけるエポックメイキングな業績だ、と思われるかもしれない。しかし、冷静になると、いくつか引っかかることがないだろうか?

まず、先程から「肺を膨張させる」という言い方を何度もしているけれど、肺が膨張していればそれでいいのだろうか?たしかに、肺はそれを構成する肺胞が空気と触れ合っていなければ、ガス交換、つまり呼吸ができないわけだけれど、「呼吸」という語が示すように、通常の呼吸は「吸って」「吐いて」行われるのである。ただ膨らんだだけでは、やはり呼吸は成り立たないのではないのか。これが第一の疑問である。

原理的には、「低圧室」の圧力を、ピストン等を用いて周期的に上下させてやれば、周期的に肺は伸縮するわけで、これで一種の人工呼吸が行えないこともなさそうである。しかし、ザウアーブルッフの手法を調べる限り、そのような「物理的なガス交換」に対するケアが行われていたような記述は、どこにもみとめることはない。

しかも、患者の首から先を大気圧として、それ以外の部分を陰圧下に保持して肺を伸縮させる、というアイディアは、実はザウアーブルッフのオリジナルではない。1838年に出版された論文の中で、スコットランドの医師ジョン・ダルジール John Dalziel は、自身が1832年に、溺れた人の救命目的で、患者を首だけ外界に出した状態で閉鎖空間に収納し、その空間を手押しポンプで減圧して肺に空気を送り込む人工呼吸器を作製・使用したことを報告している。このようなアイディアはやがて「鉄の肺」(ポリオで麻痺症状が出た人の呼吸管理に用いられた)に至るわけだが、その最初期のものと思われる、1864年にアメリカ・ケンタッキー州の Alfred E. Johnes が出願した特許中の図を以下に示す:[5]

最初期の「鉄の肺」

僕はザウアーブルッフが「肺を膨らませる」ことを重視した理由は、実は呼吸のためというよりも、肺に対するアプローチをし易くするためなのではないか、と疑っている。肺が縮んでいる状態より、膨張している状態の方が手術はしやすいと考えられるので、この「低圧室」は、患者の生命や QoL を重視したものではなく、メッサーとしての手技を活かすことの方を重視した結果だとも考えられる。そもそも、肺の膨張が肺手術に不可欠な要素なのか、ということを考えるとき、太平洋戦争が終わるまでの日本における肺手術、特に肺結核に対する病巣切除のことに目をやると、実は必ずしもそうでないことが分かる。京都府立医科大学麻酔科教室のサイトで、医師の藤田俊夫氏によるこの時代の様子の記録を読むことができる[6]が、そこには:

大正初期より進歩的な外科教室ではエーテル、クロロホルム開放点滴から、全身麻酔器による吸入麻酔下に手術を始めた。東北大関口蕃樹教授は、開胸時には肺虚脱を防ぐため気管内に加圧しなければならないと主張した。これに対して京大鳥潟隆三教授は「過圧(加圧)は無用かつ有害である」と反対した。大正から昭和の初にかけて "異圧開胸 vs.平圧開胸" の大論争は日本外科学会を揺るがせたのであるが、昭和13年(1938)鳥潟が京都で開催した第39回日外総会で大勢は決した。阪大小沢凱夫教授は宿題報告で「平圧開胸下に肺切除する事は決して恐るべきものではない」「局麻でよい、全麻は要らない」と結論した。 局麻 + モルヒン筋注は安価である。戦争に突入した日本では、もはや全麻の研究をする余裕はなくなった。

平成5年(1993)第13回日本臨床麻酔学会総会(彦根)で、私と松木明知教授が司会した「麻酔科学史のシンポジウム」において稲本 晃京大名誉教授は、「鳥潟教授の主張は誤りであった。 あの論争が日本の麻酔科学の発展を妨げた」と述べた。

戦前・戦中・戦後には大勢の人達が肺結核で死んだ。昭和25年(1950)まで死因の第一位は結核である。(厚生省「人口動態統計」) 結核撲滅は日本政府と国民の悲願であった。日本人の平均寿命が50歳を越したのは、漸く戦後の事である。肺結核病巣を外科的に取り除く「肺切」は、鳥潟らの主張に基き局麻でなされた。

とある。それが適切かどうかは別として、戦前の日本においては、ここに書かれている加圧(後述)や減圧などの処置をすることなく、開胸手術が行われていたのである。この様子は、たとえば遠藤周作の『海と毒薬』などを読んでみても明らかなことである。

そして第二の疑問である。そもそも、肺を膨張させるためには、肺近傍を減圧しなければならないのだろうか?肺の膨張はあくまで内外の相対的圧力差で決まるのだから、肺の近傍を減圧するのではなく、肺の内部を加圧すれば用は足りるのではないか?

呼吸器の模式図5……気管挿管法の概念

上図に示すのは、皆さんも一度位は耳目にされたことがあるであろう「気管内挿管」の概念図である。気管内に挿管したり、あるいは漏れの少ないマスクなどを経由して、気管に大気を吹き込み、直接肺を(陽圧で)膨らませれば、開胸手術における問題は簡単に解決することになる。

ザウアーブルッフの時代は戦争が多かったから、これは重要な問題だ。低圧室を持ち歩くというのはどう考えても非現実的だけど、気管内挿管であれば、これは管と挿管用の簡便な器具、それに訓練を積んだ医療技術者(たとえば衛生兵とか、現代であれば救命救急士とか)が居れば、極端な話、ベッドがなくたって可能である。

気管内挿管の技術が確立されたのが新しい時代だから、この当時にはそういう医療措置ができなかったのか、というと、実はそうではない。肺に空気を出し入れすることを呼吸と認識した起源は、文献で遡ると、なんと1543年に出た『ファブリカ』("De HumaniCorporis Fabrica" (人体の構造)、16世紀の医師・解剖学者であるアンドレアス・ヴェサリウス Andreas Vesalius の大著として知られる)にまで行き着く。ヴェサリウスは、豚の肺が伸縮することで呼吸が成されることを示しているし、同時代のパラケルススは、死にかけた人の肺にふいごで空気を送り込んで蘇生を試みた。次の世紀に移った1667年、ロバート・フックは胸腔を完全に開放したイヌで人工呼吸が可能なことを示した。これらの歴史的事実をみても、肺に強制的に空気を出し入れするというアイディアは極めて古いものであるといえる。[1] また、ザウアーブルッフ以前の1890年代に、ジフテリア患者の気道確保のために咽頭に金属管を挿入する技術が、アメリカの医師ジョセフ・オドワイヤー Joseph O'Dwyer によって確立されていることも考えると、ザウアーブルッフが挿管による気道確保に関して全く無知だったとは考えられない。[7]

参考文献[1] の著者であるコムロー Comroe は、生物学と医学の間の交流が近代まであまり盛んでなかったことが、このような「古典的な生物学的知見」と医学とを隔ててしまったのだろう、と書いているのだが、それだけで片がつく問題だとも思えない。あえてザウアーブルッフに好意的な解釈を試みるならば、溺れた人などを蘇生するために肺に空気を吹き込む処置を行った際に、しばしば(吹き込み過ぎが原因で)肺に損傷を生じ、そこから漏れた空気のために緊張性気胸を生じることがあったために、肺に陽圧を加えるのは危険だ、というコモンセンスがあったのではないか……と、言えないこともないだろう。

しかし、このザウアーブルッフの「奇妙な」低圧室の概念とその普及、そしてそれに遮られたかのように気管内挿管による陽圧換気が一般化しなかったことの理由として一番大きかったであろうものは、おそらくは、それがザウアーブルッフによってなされたことだったから、というものだったのではなかろうか。彼が従来不可能とされた手術を可能とする術式を開発したのは事実である。しかしその前後、それに置き換わるべき他の手法があったにも関わらずそれが普及しなかったのは、もはや象牙の塔の高みに据えられたザウアーブルッフの業績を否定することが、象牙の塔の住民にとってはなし難いことになってしまったからだった……と考えると、ドイツのみならず、ドイツを範とし、同じような象牙の塔が築かれた日本においても同様の時流が生まれたことを、矛盾なく説明できる。

この事実は、当時のドイツ(そして日本)において、実は憂慮すべき風潮が医学界に存在していたことを示している。それは「医学界の権威が、医学それ自身に優先する」というもので、健全な科学としての医学の進歩の中で淘汰されていくべきそのような風潮が、社会主義政権下にあった東ドイツにおいて、共産党政権下の官僚主義とも言うべきものとリンクし、非常に硬直化した状況を作り出した。そしてその中で暴走を始めたザウアーブルッフが、容易に制止し得ない結果に至ってしまったのである。

参考文献

  1. "Retrospectroscope: Inflation―1904 Model": American Rev. Respiratory Disease 112 (1975), pp.713―716. Available from the Internet: http://www-archive.thoracic.org/sections/about-ats/centennial/retrospectroscope/articles/resources/8-Inflation-1904Model.pdf
  2. 『「医療裁判で真実が明らかになるのか」−−対立を超えて・信頼に基づいた医療を再構築するために−−』: 桑江千鶴子: Available from the Internet: http://ameblo.jp/kempou38/entry-10157178103.html
  3. "Medical Blunders: Amazing True Stories of Mad, Bad and Dangerous Doctors": R.M. Youngson and Ian Schott, Robinson Publishing (1996). ISBN: 1-85487-259-1(邦訳:『危ない医者たち』:ロバート・ヤングソン イアン・ショット 著、北村美都穂 訳、青土社 (1997). ISBN: 4-7917-5536-7 ……ただし訳本は非常に訳が悪いのでお薦めしない)
  4. 『日本の麻酔を導いた府立医大の先駆者たち−−ヨンケル、革島彦一、尾見薫、並川力−−』: 藤田俊夫、京都府立医科大学麻酔科教室: Available from the Internet: http://www.kpu-m.ac.jp/k/anesth/history/KPUM_old2.html
  5. 『鉄の肺メモリアルコーナー』: 浜松医科大学医学部 麻酔・蘇生学講座 Available from the Internet: http://www.anesth.hama-med.ac.jp/Anedepartment/m-memorial-tetsunohai.asp
  6. 『京都府立医科大学麻酔科沿革(中央手術部を中心に)1959-1972』: 藤田俊夫、京都府立医科大学麻酔科教室: Available from the Internet: http://www.kpu-m.ac.jp/k/anesth/1959.html
  7. "The pioneers of pediatric medicine": by H. R. Wiedemann, Eur. J. Pediatr. 151[7] (1992), pp.471. Available from the Internet: http://www.springerlink.com/content/j3581q1843h58372/

同じ過ち

先日、中国の民主活動家である劉暁波氏にノーベル平和賞が授与されたときに、中国は色々とやらかしてくれた。他国の受賞記念式典への参加に干渉するのみならず、「孔子平和賞」なるものをでっちあげるということまでしてくれた。まったく、あの国のやることは、我々の想像を超えているなあ、と思われた方も多いのではないだろうか。

1935年のこと。ドイツがナチス政権の下にあったとき、ドイツのジャーナリスト・平和運動家であったカール・フォン・オシエツキー氏がノーベル平和賞を受賞することになった。氏は当時投獄されていたのだが、ノルウェー・ノーベル委員会は、ベルサイユ条約に反して軍備拡張を行うドイツを告発した氏に、平和賞を授与した。そして、ナチスはそれ以後、ドイツ人にノーベル賞を受けることを禁止した。

興味深いのはこの後日譚である。アドルフ・ヒトラーは、1937年に「ドイツ芸術科学国家賞 Deutscher Nationalpreis für Kunst und Wissenschaft」なるものを創設した。この賞はドイツ人にとってのノーベル賞の代替物であったわけだけど、そういう話を、最近、皆さんは耳にしなかったろうか?独裁国家の意に沿わない顕彰に対して、国家が何をしでかすのか、ということは、これこの通り、歴史が証明しているのである。そして彼らはどうやら、そんな歴史を学ぶことも、同じ轍を踏むのを避けることも、どうもできない……そういうことのようだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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