迫害としての戦争体験
最初に書いておくけれど、私は日曜朝9時半のミサには行かない。もともとそんな習慣ではなかったのだけど、現在の所属教会に来るようになってから、そういうことになってしまった。ユダヤ社会からの教会の伝統として、日没後は翌日扱いになるので、土曜の夜のミサが日曜……すなわち主日のミサになることから、主日のミサとして土曜の夜に教会に行く習慣になってしまっている。その理由は、あの教会に行っている人々ならば何となく察しがつくと思う。「教会は罪人の集まり」というけれど、まあそういうことである。
しかし8月4日、朝9時半のミサが終わる頃に、カミサンと一緒に教会の信徒会館にいた。カトリックの教会は、毎年8月の6日から15日までを平和旬間と定めていて、それに先駆けて今日、ミサの後に戦争体験を語ってもらう講演会が行われることになっていたからである。今日の講演者、目崎久男さんの戦争体験というのは、ある意味非常に貴重なものだと思うので、ここに書いておくことにしようと思う。
目崎さんの一家は、太平洋戦争勃発前はサイパン島に住まわれていた。しかし、1940年代に入り、日米関係の緊張が増してくる中、米英と戦争になる可能性が高いという情報が流れるようになったため、一家で日本に戻ることを決めた。父親の職も内定したため、東京・小石川区(現在の文京区の西側に相当)に転居、区内の小学校に通うことになった。学友と遊んでいたとき、サイパン島に関する話などをする中で、米英と戦争になる、そうなるとサイパン島は戦場になるので、内地に引き揚げてきたのだ……という話をしたところ、友達が皆、へー、と感心するので、幼き日の目崎さんは得意になってあちこちでこの話をしていたらしい。
しかしこれはあまりに時期が悪かった。日米開戦前ではあったものの、日本では1938年に国家総動員法が制定され、日中戦争下における思想統制として近衛内閣が「国民精神総動員運動」を推進している時期であった。国民の間でも治安維持の意識が高まっていた時期で、目崎さんの話は程なく特別高等警察(特高)の知るところとなった。
目崎さんの父親は「不穏なデマを流す不貞の輩」ということで特高に逮捕され、そのまま一ヶ月間拘留された。父親はこの間苛烈な拷問を受け、家に返されてからもしばらくの間寝たきりの状態だったそうだ。その後、三ヶ月間の自宅謹慎ということになったのだが、これが一家の地獄の始まりであった。
この時代、食料品や酒、燃料等は、売り歩きや御用聞きで買うことが一般的だった。しかし目崎家には特高の係員が門前に立って監視しており、その状況で売り歩きや御用聞きの入れる筈がない。仕方がないので外に買いに行くわけだが、目崎少年が酒屋に行くと、「君は未成年だろう。未成年の者に酒など売れる筈がないではないか」と、売ってくれない。要するに特高の確信犯的嫌がらせで、近隣の商店がろくに応じてくれない状況になったわけだ。そして、収入源たる父親の仕事の内定も取り消された。
三ヶ月が過ぎた後は、更なる地獄が始まった。官憲こそ姿を消したが、近隣住人は彼らと一切口をきかなくなったばかりか、彼らによる迫害の日々が始まったのだ。家の壁には「此処は非国民の家」「スパイの家」との落書きがされ、ビラが貼られた。近隣の店では煙草も豆腐も、何もかも売ってくれない。何処からともなく家内に石、糞便、動物の死骸、火の付いた藁まで投げ込まれ、「非国民、死んでしまえ」と、ののしられる。そんな日々が続いたのだという。
目崎少年の地獄は家に留まらなかった。学校で目崎少年は「スパイの子」ということにされた。目崎少年は担任教師によって口に赤いテープを×字に貼り付けられた上、廊下に一時間立たされた。「サイパン」との蔑称で呼ばれ、非国民と罵られ、クラスの誰も彼と口をきいてくれなくなった。本当のことを言っただけなのに何故こんな仕打ちを受けるのか……しかし彼は誰にもこのことを訴えることができず、そのまま学校に行くことができなくなってしまった。
母親は半狂乱になり、もう一家皆で死のう、とロープを持ち出してくる程の状況だった。そんなときに、横須賀にいた父親の海軍時代の友人が、父親に三菱重工名古屋の仕事を紹介してくれて、一家は名古屋に移住した。幸いなことに、名古屋でこのことで追及されることはなく、名古屋の小学校……やがて国民学校と名が変わるわけだが……の教師も、これを問題視することはなかったという。目崎少年は救われた、かに見えていた。
しかし、彼の東京における問題はどうやら記録されていたらしいのだ。当時の学校教育は智・徳・体の三位一体の教育というのが志向されており、この中の徳育に対する評価を操行点という。日常の行動・態度・思想等の評価ということだが、この操行点が低いと人格的欠陥者としての扱いを受けたという。当時の操行点は優良可の三段階評価だったが、可の評価の場合、備考欄にその理由の記入が求められた。目崎氏は、おそらくこの備考欄に「治安維持法違反の処分を受けた家族である」旨の記載があったのではないかと推測されている。この記載はその後もずっとそのまま、学校教育における彼の書類に残っていたらしい。
やがて旧制中学に進学した目崎少年は、1944年、学徒動員でトヨタ自動車の工場に配属され、旋盤工として勤労奉仕を行う日々をおくっていた。皮肉なことに、当時の目崎少年は立派な少国民を自認するいわゆる軍国少年に育っていたそうなのだが、学徒動員中でも週一回行われる軍事教練を指揮する配属将校が、目崎氏の操行点に関する記述を見咎めたらしいのだ。
ある日の教練でいきなり「この中に根性のねじ曲がった者がおる。一歩前へ出よ」と言われ、匍匐前進をさせられ、「根性のねじ曲がった者は匍匐前進もねじ曲がっておる」と、木銃(銃剣術で用いる木製の銃)の銃床で殴り倒された。あるときはサーベル(配属将校は騎兵連隊の所属だったそうなのでいわゆる軍刀でなくサーベル風の拵だったのだろう)の鞘で頭を割られ、医務室で縫合されたこともあるという。救われたと思ったところで地獄が再燃し、それは敗戦の日まで続いたのだという。
これは余談だが、私の祖父は農機具製造の工場を経営していて、戦時中はこの木銃を製造していたことがある。そのため幼少の頃、祖母の家で日常的にこの木銃を触っていた(裏口の心張り棒にしていたので)のだけど、戦時中の木銃というのは着剣した三八式歩兵銃のサイズなので、まあデカい。長い。そして重い。三八式歩兵銃の木材部分はクルミ材だが、木銃は樫のような木でできていたと記憶している。いずれにしても、あんなものの銃床で殴られたら、下手をすれば死にかねない。目崎氏が受けたのは、そういう仕打ちなのだ。
講演の後、私は目崎氏に聞いた。戦後、東京に行かれることもあったかと思いますが、そのときはどのような御心境だったのでしょうか、と。目崎氏は「それはねえ……」と溜息をつき、こう話した。
「私は、昭和三十四年に愛知県の上級行政職員として採用されました。で、上級職員というのは、将来の幹部候補でありまして、普通は何も仕事しなくてもいいんですが、ただ、予算を獲得するとか、条例の制定、あるいは法律を県に有利なようにしてもらうにはどうしたら良いか、いわゆる本庁での交渉が主な仕事で、これで実績をあげると出世できるわけですが、私は、東京に行くと、なんかトラウマになって、なんか……口がうまくきけないというか……」
「中央官庁のお役人を相手にして、丁々発止とやって、勝ったぞぉ、と言って帰ってくるっていうのが上級職員の仕事だったわけです。ところが私は、なんか……はっきり言って、東京に行くと、夜、眠れないんです。なんか、いわゆるトラウマっていうんでしょうねえ。今でもそうです。東京に行くとどうも落ち着かない。東京恐怖症みたいなのが、染み付いております」
この後、「したがって、愛知県では出世もできなかったわけです」とオチをつけられたのはさすがだと思うけど、そりゃそうなりますよ。教会の人々は、このオチだけ聞いてゲラゲラ笑っていたけれど、この痛みを彼らは感じられないのだろうか。