カトリック信徒の徳とは
まずは皆さん、復活おめでとうございます……いや、昨日がいわゆる復活祭というやつだったので、この時期の挨拶は、こう言うことになっているもので。
イエスの復活のくだりを、新約聖書の共観福音書中で最古といわれる『マルコによる福音書』で見てみよう。
現在の聖書ではこの後もつづきがあるのだが、聖書文献学、特に本文批評の研究によると、この後の部分(新共同訳聖書では「結び」という見出しが付けられている箇所)は後に加筆されたもので、オリジナルは上引用部の最後 (16:8) で終わっていた可能性が非常に高いといわれている。安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。――マルコ 16:1-8
どうだろう。葬られたイエスの遺骸に香油を塗るために婦人達が墓に赴くと、墓穴を封じていた石が除けられ、中には誰とも知らぬ若者がいて、イエスの復活を告げる。しかし婦人達は、あまりの人智を超えた出来事の前に墓から逃げ去り、誰にも何も言わなかった。おしまい。何やら薄気味悪い、しかし想像力を刺激されるエンディングではなかろうか。
このようにマルコ福音書が唐突に終わる、ということに、おそらくほとんどのカトリック信徒は抵抗を感じるかもしれない。しかし、僕はバート・D・アーマン(新約聖書の研究者として世界的に有名な人であるが)の『捏造された聖書』でそのことを初めて読んだときに、ああ、それはありかもしれないなあ、と思ったものだ。マルコ福音書で、(使徒達を含む)人々は、神の権威と深意を理解できない存在として描かれているし、イエスがそんな人々に苛立ちをあらわにすることも少なくない。僕はだから、マルコ福音書が好きなのだ。人の人としての愚かさを隠すことなく描写しているこの福音書に、愚かなる人々の一員である自らに繋がるものを感じるのである。
復活祭というのは、こんな風に、改めて自らの信仰を考えたりする時期でもあるはずだ。時々原点に立ち返って、自分や自らの信仰というものが歪んでいやしないか、とチェックすることは、実は非常に大事なことなのである。ところがこの週末、自分の所属教会で、お話にならない位の低次元な話を山程聞くことになってしまった。非常に気分がよろしくない。いや、実に下らない話なのだ。
カトリック(だけではないのかもしれないが)の信徒に、ある一定割合で存在するのだけど、自分が教会やそれと関係する人々と近しいことを以て、自らの正当性というか、徳の高さというか……を主張する人、というのがいる。この手の人々は、聖職者と見るや、猫撫で声で近付いていって面識を持つ。そして、事々につけ、
「私は○○○会の×××神父様と知りあいで……」
というようなことを言うのである。はあ、アンタがその人と知り合いなのは分かったけど、それが何か? まさかその人と知り合いだから、自分の行動や主張の正当性を、その人が保証してくれるとでも思っているのだろうか? 下らん。実に阿呆らしい。
僕や U は、この手の人々からしたら厄介な存在らしい。僕も U も、聖職者の知り合いが何人かいるし、そういう人から何か頼まれ事をされたりすることもちょくちょくある。しかし、そういうことになるのは、僕や U が、そういう人達に見返りを求めることもなく、そういう人達の名前を何処かしらかで振り回すこともないからなのだ。考えてもみてほしい。聖職者でなくとも、自分のあずかり知らぬところで他人の名を濫用し、しかもその名を、他者を圧倒するために用いているような人と、知り合いになりたいなどと思うだろうか? そんな人に、自分の名前を濫用されたいなどと、思うはずがないと思うのだけど。
あまりそういう人に慣れていない聖職者、特に神学生などは、この手の「札付きの」信徒に対して、格好の餌食になってしまうのだけど、多くの聖職者は努めて距離を保とうとする。しかし、そうされればそうされる程、その手の信徒は何とかして近付き、昵懇になろうとする。
この手の信徒をうまく「利用」しようとする聖職者もいないわけではない。何となくその気にさせておいたら、歓心を買おうと一所懸命色々やってくれるわけで、それが結果として皆の為になるならば、やらせておけばいいじゃないか……という聖職者もいたりするわけだ。しかし、そのような人達は、自分達の名前を以て何が為されているか、という問題を、どうも軽く考え過ぎているような気がする。事態は、実際深刻なのである。
僕も知っているある女性信者の話である。この女性が、あるとき友達と話していて、些細なことで言い争いになったらしい。するとこの女性、僕の所属教会の主任司祭だった某氏のところに駆け込み、
「神父様、私が正しいんですよね」
と問うた、というのである。それに対してこの司祭が何と答えたかは判然としないのだが、この女性は、
「○○○神父様は、私が正しいって仰った!」
と、その司祭の名を振り翳して、言い争いになった人達を責めたのだ、という。
その司祭は、実は先月一杯を以て、他の教会に異動になったのだが、つい何日か前のミサの説教で、
「皆さん、『裏主の祈り』というものがあるそうです」
という話をしたらしい。「主の祈り」というのは、キリスト教ではお馴染みの祈祷で、
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。……という文面である。これの「裏」というのはどういうことか、というと、
側にいてくださる私の神よ。私の名を覚えてください。私の縄張りが大きくなりますように。私の願いが実現しますように。私に一生糧を与えてください。私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めてください。私が誘惑にあって悪に溺れても私だけは見逃してください。国と力と栄光とは限りなく私のものであるべきだからです。アーメン。……どうやらこういうものらしい。ひょっとしたら、この司祭は、暗に件の某女性信者を戒めるために、こんな話を持ち出したのかもしれぬ。しかし、困ったことに、そういう輩に限って、こういう苦い話が出てくると、それが己に向けられたものとは努々思わないものなのである。
信仰の付属物を身に纏うことで、自らの有り様が保証される、などとは、およそ信仰の彼岸に位置する行為だと思う。しかし、身に纏うものだけで己の徳を確信できるような輩には、信仰を持つことで生じる苦悩だとか、それを負って生きることの意味とかいうものは、きっと理解はおろか、認知すらできないものなのだろう。自分だけはそこから逃れていられる……そんな信仰なぞ、何の意味も持たない下らないものだと思うのだけど。