人品卑しからざるか否か
先日、S と教会の話をしていたときに、そう言えば僕達は人間崇拝というのには縁がないな、という話になった。
「司教が来られているときに、『司教様、司教様ぁ〜っ!』とか言って追いかけまわしているオバサン連中、あれは何とかならないのかねぇ」
「そうだねぇ……まぁ、あの人達はきっと神様以外の何かを信じているんだろうな」
などとキツい話を平気でしていたのだが……この手の輩は哀しいことにどこの教会に行っても見かけるのだ。そんな連中が、その舌の根も乾かぬうちに、ファリサイ人がどうのこうの、などと言うのだから、全く以てお話にならない。上にも書いたけれど、神以外の(神と自分の間にある)存在を神と勘違いし、無闇矢鱈に持ち上げて、その権威の代執行者を気取ろうとする輩は、見るにつけ本当に浅ましく思うものだ。
この手の輩は、ある領域において高く評価される存在が、一般的に高くある存在なのだと、半ば確信犯的に誤解している。そうしておけば、水戸黄門の印籠の如く、8時45分に周囲を平伏させて自分が胸を張れる、と思っているからに違いあるまい(つくづく下らんな)。ところがどっこい、その反例なんてのは歴史を顧みれば枚挙に暇がないのである。
ざっと思い返して思い当たるのを書いていくと……そうだな……ショックレーという科学者がいた。彼はベル研で世界で初めてトランジスタを発明して、その業績でノーベル物理学賞を受けたことで有名だけど、電子工学者としての彼に高い評価を向ける人がたくさん居たとしても、人間としての彼に同じ評価を向ける人がもしもいたならば、溜息をつかれるか笑われるかのどちらかだろう。ショックレーは白人至上主義者として有名で、あの IEEE Trans. に「遺伝学的に白人が有色人種より優れている」という内容の論文を投稿した(というか、掲載させようとした、というか)位なのだ。それだけではない。アメリカにはノーベル賞受賞者等の精子を扱う精子バンクがあることが知られているが、これを作るのに尽力したのはこのショックレーである。
コンピュータの世界に関わりのある人、ということならば、フォン・ノイマンを挙げるのがいいだろう。彼は紛れもない天才だった。彼は人間の脳の記憶容量を算定したことで知られているけれど、その容量は、現在世間で受け入れられている値より大きい。何故かと言うと、彼は「人は決して覚えたことを忘れない」という前提で脳の記憶容量を計算したからだ。どうしてか、って?彼がそうだったから、だよ。
それ程の才能で知られ、爆縮型原子爆弾のいわゆる「爆縮レンズ」の設計者としても知られるフォン・ノイマンだが、その振舞いは決して他者の尊敬を受けるものではなかった。彼の研究室での一日は、秘書の尻を触ることから始まった、というのは有名な話だし、自分より能力が低いと見做した存在には徹底的に悪口雑言の限りを尽くした。そんな彼が骨肉腫の脳転移で簡単な四則演算もできなくなり、今迄信じてきた己が能力が崩壊したことの恐怖に苛まれながら死んでいったのは、皮肉としか言いようがないのだけど、彼はそういう人だった。
世間でナイスガイだと知られている人だって、違う一面を持つことがある。あのリチャード・ファインマンは、その魅力溢れるキャラクターで未だに愛されているけれど、彼が二番目の妻と結婚するまでの間、共同研究者や後輩達の妻や恋人を寝取っていたのは、知っている人なら誰でも知っている。死せる存在を貶めることが無意味だから、こんな話は彼の伝記にこっそり書かれているだけだけど、事実なのは間違いない。
池波正太郎の言葉は、こういう多面的な人間を受容する上で大きな助けになるだろう:「人は清濁併せ持つものなのだ」。濁った部分だけで人を断ずるのは、池波の言葉を借りるなら「味ない」行為だろう。しかし、人は決して清いだけの存在ではない。都合のいい部分を、水戸黄門の印籠のように振りかざす馬鹿共は、きっとそんなことを考えもしないのだろうけれど。
うちのサイトのアクセス記録を解析していたら、僕が加藤守雄氏の『我が師 折口信夫』について書いた日記にアクセスが入っていたのだけど、折口信夫も、やはり清濁併せ持つ人だった。『死者の書』などで知られた彼の史観、そして文学は、勿論高く評価されて然るべきものである。しかし、國學院の折口門下生だった加藤氏の体験は紛れもない事実で、それが折口の一面だったこともまた否定できない事実なのだ。人は清濁併せ持つ。これを認識できない人は、権威を持ち上げるか、一つの曇りで貶めるかのどちらかしかできないカタワモノなのだ。