神との盟約?
U はバッハの歌曲を扱う合唱団に入っているのだが、その合唱団の団長なる人物が、話を聞くに、なかなかにダメダメな輩らしい。U の本業はデザイナーで、奉仕のようなかたちでコンサートのチラシを作成していたのだが、あるとき、烈火の如く怒っているので、どうしたんだ、と聞くと、
「あの団長、チラシ持ってこいって言うんだよ」
「ん?何部あるんだ?」
「二万部」
まあ皆さん、冷静に考えていただきたい。A4 のコピー用紙1枚でも数グラムあるのだ。フルカラー印刷のチラシ1枚というと、もう少し重いだろう。それに 20000 をかけたらどうなるか。先のコピー用紙の重さで換算しても 100 kg である。それを一人で、しかもクルマもない人間に軽々に持ってこいなどと言う(ちなみに団長なので、チラシの部数は最初から知っていた筈である)。ちなみにこの団長、某大学の工学部出身なのだそうだが、こんな計算もできないんだったら、学士を返上しなければならないんじゃないのかね。
まあそんな人物らしいので、アホアホなことを懲りもせず繰り返す訳だけど、今回 U がぼやいているのは、もっとアホな話である。先日のコンサートのパンフレットで、
So bist du denn, mein Heil, bedacht.これに対する訳として、こう書いている、というのである:
Den Bund, den du gemacht.
Mit unsern Vätern, treu zu halten
Und in Genaden über uns zu walten;
貴方は、我が救いよ、心配りたまえ、
あの盟約、貴方がかつて
我らの父達と結ばれたものを信実に守り、
恵みもって我らに普及させようと。
まあざっと見てもツッコミどころはひとつではないと思うのだけど、一カトリックとして明らかに引っかかるのは「盟約」という言葉だ。この一節における「貴方」は神、「我らの父達」というのは記者の先祖、まあユダヤの部族全体かどれかを指しているのだろうが、簡単に言うなら「民」だ。神と民の間に「盟約」?これはあまりにおかしな話である。
「盟約」というのは、もともと利害を共有するような対等の存在同士で結ばれる誓いのことだ。しかし、神と民は何がどうあっても対等ではないし、神と民の間に結ばれるのは「契約」だ。まあ僕も40年以上カトリックとして生きているわけだけど、明らかにこの「盟約」には違和感を感じる。
では、聖書には「盟約」という言葉がどれ位出てくるのか。実は新共同訳ではたった一回しか出てこない。
災いだ、背く子らは、と主は言われる。誤解しないでいただきたいのだが、「盟約の杯を交わす」のは、彼らがお互いに交わすのであって、神と「彼ら」が交わすのではない。つまり、神と人との間に交わされるものとしての「盟約」なるものは、聖書のどこにも出てこない。新共同訳の前に使われていた口語訳聖書では、「盟約」はただの一度も出てこない。新改訳では8回出てくるそうだが、こちらは福音派でも結構カチカチな人々の御用達という印象があるので、これに出てくるから OK ということにはならないだろう。そもそもバッハがどういう宗派に属する人物なのか、まずは考えるべきだと思うんだが……
彼らは謀を立てるが
わたしによるのではない。
盟約の杯を交わすが
わたしの霊によるのではない。
こうして、罪に罪を重ねている。 (イザヤ 30:1)
アホな団長は、おそらくこの対訳がトーキョーダイガクのエライセンセーの訳だから正しいんだ(磯山雅とか?しかしねえ、このオッサン、ミサ曲の典礼上不可欠な箇所に対して平気で「ここは余計だからなければいいのに」とか講演で言ってたらしいからねえ……)、とか言うんだろうけれど、こういうのを「仏造って魂入れず」と言うんじゃないんだろうか。神と人の間の約束というのがどういうものなのか、それを断ずることができるのは、自らその約束を結んでいる人だけなんじゃないのかね。いやいや、その遥か以前に、神と人間との関係において「盟約」という言葉をあてるのは明らかにおかしいんだよ。相手が何者であったとしても、僕は一カトリックの信徒としてはっきり言っておくけれど。