あの春、M1の終わり
思い出話などする歳でもないと思っているのだけど、ここ何日かのニュースを観ていて、ふと思い出すことがある。
あの阪神大震災が関西地域を襲った後のことだった。当時、僕の修士論文のための研究は進捗が捗々しくなくて、僕は M1 の終わる春の学会に発表できなかった。博士課程への進学を考えていた僕にとっては屈辱的なことだったけれど、技術蓄積のない困難なテーマの研究だったので、今考えれば仕方のないことだったのかもしれない。しかし、当時の僕は、知人が学会に行くという話を聞いただけでも胸が痛んだものだ。
そんなある日のこと。春学会に行っていた知人からメールが入ったのだった。朝、早めの地下鉄に乗って移動していたら、あの騒ぎに巻き込まれた、と。そう、地下鉄サリン事件である。
僕の知人は運がよかった。一本違いの電車に乗っていたら、あの霞が関で営団(当時)の職員が亡くなった、あの電車に乗ってしまっていたのだ、という。彼が実際に乗った電車は、霞が関を前にして止まり、彼は地上に出て、あの惨事を目のあたりにしたのだった。
理系出身者で道を誤った奴が、変な薬品の合成に手を出す、というのは、そう珍しい話ではない。アメリカ、特に西海岸では、LSD などの合成麻薬は大抵がそういう理系崩れの連中によって合成・供給されていた、という歴史的事実があるからだ。しかし、サリンや VX というものが(一応それがどういうものなのか知ってはいたけれど)自分と同じ、日本の大学で教育を受けた理系の若者によって合成された、なんて、最初は僕も信じられなかった。サリンや VX の薬理作用に関して知識があれば特にそうだ。余程の protection をしなければ、合成者自身の命が危ないのだから。実際、オウムでは合成に携わっていた若者、そしてそのガスを用いて殺人を行った、あるいは行なおうとした若者が、硫酸アトロピンのおかげでからくも一命をとりとめる、ということもあったという。
あれからもう15年が経つのだという。しかし、都市において毒ガスが用いられた事例というのは、それ以前も、そしてそれ以後現在までも、あの東京の地下鉄サリン事件以外世界に例がない。阪神大震災を含めて、あの春のことは、一生忘れられそうにないけれど、どうかこの記憶がこれだけに留まってほしいと思う。毒ガスで人が死ぬなんて話は、この先の人生で、二度とお目にかかりたくはない。