チョークの線
歳のせいだとは思いたくないのだけど、最近、世間の風というものの冷たさを痛感するときがある。
今年の春のことだったと思うけれど、たまたま市役所で手続をする用事があって、ある窓口の椅子に座って市役所の職員とごにょごにょやっていたとき、隣の窓口に、僕と同じ位の年齢の男性が、男性の職員と何やら話していた。この職員が、どういう訳なのかやたらと詰問口調なのである。
「どうなんですか、分かってるんですか?」
「はぁ……」
「はぁ、じゃないですよ。そんなことでは支給できません」
支給?そこでようやく、僕は事情を察したのだった。隣の窓口は、生活保護の申請を行っている部署だったはずだ。あの男性は、おそらく生活保護受給の申請に来たのであろう。しかし、応対する市役所職員の態度は、到底そういう「福祉的」なニュアンスなど感じられないものだった。
僕は、たまたま今まで、そういうことにならずに来ている。幸いにして子供もいない。しかし、僕と同じ位の年齢で、たとえばうつなどの理由で離職を余儀なくされた人で、こんな風に生活保護申請に来ている人がいたとしても、何の不思議もない。仕事ができるものならしたいのかもしれないが、40代にもなろうという年齢でうつの既往歴があったら、(これは保証してもいいと思うけれど)トヨタグループ各社をはじめとするこの地区の会社で、雇うどころか、まともにとりあってくれる企業など、おそらく皆無だろう。
いや、最近はうつもポピュラーで……などと仰るあなた。実情を知らないにも程があろうというものだ。まともに雇ってくれる口もなくて、たとえば「うつを理由に不当な扱いを受けた」などと言って、労働基準監督署に駆け込んだとしよう。労基署が何をしてくれるか。これも保証してもいいと思うけれど、彼らは何もしてはくれない。それがこの地域の現状である。
じゃあバイトでもしよう、と思っても、この地域では、コンビニでバイトするにも要普免、というのが常識である。コンビニも雇ってくれない。ならば新聞配達はどうか。自転車で配達をしようにも、「この辺のサービスエリアは広くってさぁ」と婉曲に断られるのが関の山である。クルマに乗らずんば人に非ず。それがこの地域の現実である。
まあ、クルマの話はさておき、僕位の年齢で失職した人間は、おそらくこの国のどの地域に住んでいても塗炭の苦しみを舐めることになる。とにかく職が見つからない。年齢で断わられ、キャリアで断わられ、うつだったらその既往歴で断られ……一度そういうことでドロップアウトしたら、まるで「死ね」と言われんばかりのことを、山のようにつきつけられることになる。それはそれは非道いものだ。
ここを読まれている方々は、そういう世界は自分の暮らす世界と全く別種のものだ、と思っていやしないだろうか。これも保証していいと思うけれど、断じてそういうことはない。そうやって失職している人々と我々の間には、我々が思っている程の隔てなどない。それはあたかも、チョークで引いた線のようなものだ。
そのチョークの線は、傍目で見れば、見落としてしまいそうなただの線に過ぎない。しかし、その線のあちら側とこちら側で、その認識は絶望的な程に異なっている。まだこちら側にいる人にとってはそれは単なる線に過ぎないが、向こう側にいる人にとって、それはまるで見上げると上が遥か空に霞んでいる高い高い障壁なのである。
先に書いたような状況で失職している者にとって、仕事を探しても見付からない、というのは、これは本当に過酷なことである。失業保険もそのうち尽きる。電話だって止められるかもしれない。ネットだって使えなくなるかもしれない。そうなったら就職活動もおぼつかない。何処かしらかで説明会があるらしい。けれど交通費を捻出できない。書類を送って面接にこぎつけた。面接に来なさいと言われたけれど、その片道の交通費が捻出できない。行ければ、往復の交通費を支給してくれるらしいけれど、まずそこに行きつくことができない。そうして、彼、もしくは彼女は思うのである。ああ、どうせダメなんだ。自分は、どうせダメなんだ。
この「どうせ」というのが、チョークの線の向こう側にいる人々を縛り、苦しめるものの正体である。暮らせない?仕事探せばいいじゃない?バイトすればいいじゃない?生活保護受ければいいじゃない?そんなことをあれやこれやとトライする前に、彼らは絶望にがんじがらめに縛り尽くされているのである。彼らの抵抗は、この社会の無関心や不寛容や、そういったものにことごとく芽を摘まれてきたのである。そして彼らは絶望し、誰かにアクションを促されても「どうせ」としか言葉が出てこないのだ。
これを荒唐無稽な話だと思われるだろうか。ネットで少し探せば、こういう話はいくらでも転がっている。最近ニュースサイトで出ていたけれど、医者に行って「3000円でなんとかなりませんか」と言う人がいるという。これをケチだとかシミッタレだなどと言ってはいけない。実際に、その3000円がなければ、ライフラインや、就職のための連絡手段や、日々の食事に不足を来すような生活をしている人が存在しているのだ。何度でも繰り返すけれど、これは事実なのだ。
僕は幸いにして、そのチョークの線の存在を知ることができている。しかし、ここを読まれている方の中で、このチョークの線の断絶というものがどれ程深刻で、過酷なものであるか、実感できる方が果たしてどれ位おられるだろうか。ましてや、政党交付金を含めたら一年に四千万も貰っている国会議員の方々に、それが実感できるのだろうか。少なくともひとつだけ言えるのは、実感できているならば、あんな政治情勢には絶対になってはいないだろう、ということである。