問題を解く、ということ
突然だが、僕は数独というのがどうも苦手である。解けないということではない。あれを解くことに時間を費すのが、どうにも苦痛なのである。よく、電車に乗ったり、病院の待合室にいたりすると、膝の上に本を広げて、鉛筆片手にあれを解いている方を見かけることがある。勿論、そういう方々に何か物申すつもりはないのだが、自分で暇潰しにあれをするのか、というと……どうも、そういう気になれない。
英語で「暇を潰す」ことを kill time と言うけれど、「殺し」ているその時間は、自分の人生の時間なわけだ。勿論、機械に潤滑油が必要であるように、人生にも無駄は必要だ。efficiency 至上主義で生きることなど、考えるだけでも息が詰まる。ただ、こう……何と言うか、「心の滋味」とでも言うべきなのだろうか、そういうものが感じられるようなことを、人生の潤滑油として僕は選択していたいのだろう。それはあくまでも主観的な基準によるものだけど、そういう選択をしていなければ、本当に自分で自分の人生を殺しているような気になってくるのだ。
思い返してみると、10代末の受験生・浪人の時代から、いつもそういうことを考えていた。英語や理科、数学の問題を解くときも、その先に広がる学問の地平みたいなものを感じさせてくれるような問題を解いては満足し、逆に機械的な操作や、ただの複雑さを経て、その問題の外に波及しないような小じんまりとした答に行き着くと、こういうのを愚問というのだ、と鼻で嗤っていた。後に、自分でそういう問題を作らなきゃならないような状況になって、ああ、あの頃の俺を満足させる問題を作るのは、ちょっと手間がかかり過ぎるよなあ……と反省させられたわけだけど、そんな今でも、自分が何かを解くときに、そういう「心の滋味」を求め、それの多寡で主観的な価値を算定していることに気付かされることがある。
暇を潰すというと……ああ、そう言えば、20代の頃にalt.binaries.pictures.何ちゃら(かつて盛んに使われていた電子ニュースというものがあったのですよ……それのアヤしい画像が流れているグループですね)に流れている画像(uuencode され、更にいくつかに分割されていることが多かった)を自動復元するツールなんかを書いたことがあったっけ。別にアレな画像に執着していたわけではなくて、一種の知的遊戯だったわけだけど……しかし、これも(当然の結果としてディスクが逼迫すること、そういう画像が全て自分の嗜好の範囲内であるとは限らないこと、そして自分が見切れない程の数の画像があっても無意味だということに気付いて)すぐ飽きてやめてしまったのだった。余談だけど、あの当時、某国立大学(我が母校の名誉のために書き添えるが、阪大ではありません)のニュースサーバが alt 関連をごっそり保存していて、これ大丈夫かなあ、露見したら管理者何か言われるんじゃないだろうか、などと仲間内で話していたのだったが、あそこはその後どうなったのだろう……
余談ついでに書くけれど、当時、こういうアレな情報に関わるニュースグループの購読に関してはふたつの見解があって、アレな情報専門のグループを購読するなどけしからん、と言う人と、admin が article 全部チェックできるわけないんだから貯めてるだけだったら責任ないでしょう、と言う人がいた。前者が当然世の多数派だったわけだけど、後者はリソースに恵まれた人か、原始共産主義的なネットワークの幻想を抱き続けていた人か、システムの有用性がモラル至上主義によって毀損されることに唾を吐くクール・ガイか……なるほど、だから alt は回っていたわけか(本当か?)。しかし、本当に今は本当に電子ニュースなんて読まなくなってしまったなあ。
話が脱線したのを戻すけれど、そんなわけで、今の僕はゲームの類を一切しない。ちょっと前にクロンダイクをやってみたけれど、すぐ飽きてしまったし、Windows にも Linux にもゲームは一切入っていない。コンピュータから離れても、パチンコもしない、株もやらない、宝くじすら買わないような日常だ。そういう時間ができたら、楽器を触っているか、何か書いているか……ああそうそう、酒、酒。純粋に消費する楽しみ、というと、酒位じゃないだろうか。しかしこれも趣味というのとは違うような気がする。モルト関連業界で僕の顔を知っている方がおられるかもしれないが、僕は酒に関することの一切を、記憶はしても、(画像や文章で)記録しないことにしているので、いわゆるモルトマニアというのとは違うし。
いかんいかん、また脱線している。話を数独にまで戻そう。数独というのは、数を埋めるルールに従った一種のパターンマッチングで、これはコンピュータにやらせようと思えばできない話ではない。事実、そういうソースを web で公開されている方もおられるようだ。コンピュータにできることを、わざわざ人間がする必要はないではないか……と、考えてしまうわけだ。つまり、人間(というか自分というか)がやるからこそ意味のあることに、自分のリソースを費したい、と、僕はどこかで考えているのだろう。
さて。何故こんなことを書いているか、というと、今週の木曜の晩に "The new Audi Q3 Decode Challenge" なるものを目にしたことに始まる。はじめは無視しようと思っていたのだが、少々気になったので、他のことの合間にちょこちょこメモを取り、土曜に解答に至ったのだった。
既にネット上ではあちこちにこの解答が暴露されているようだ……一応、名誉のために書き添えるが、僕はそれを知る前に解答に至り、その後にふとかけた検索で、あちらこちらで暴露されているのを発見したのである。そもそも僕はクルマに乗らないので、これに応募する旨味はないし、それで答を見てしまったら、もはやこの問題に関わる意味がなくなってしまうのだ。
で、僕は、ここに解答を書く気はないのだが、どうしても書かずにはおれないことだけ、記録の意味で書いておくことにする。この問題は、図形を基に数値表現で文字に変換し、あるルールに則ってそれを配列することで解答に至るのだけど、その「ルール」が、あるパズル的な要素で規定されるもので、結局はその手のパズルの定石から脱却していないものだったことに、ただただがっかりさせられたのだ。
この手の暗号めいた話で、へーなるほど、と思わされたのは、おそらく look-and-say sequence を見知ったとき以来ないような気がする。勿論、この分野は非常に深く、また実社会とも関わる分野で、僕はその分野においてはただの門外漢に過ぎないのだが、その深淵を覗く思いは、今回の "The new Audi Q3 Decode Challenge" からは到底感じ得なかった。なんだ、結局、キーはそれかい……ということで、非常にがっかりさせられた、ということだけ、ここに書いておくことにしよう。詳細は、このキャンペーンが終了した後にまた書くことにしようと思う。