げさっか
U の実家に行ったとき、父上が時々この言葉を口にしていた(誤解なきように書き添えるが僕に向けてではない)。九州の多くの地域で通じる方言らしい。僕は語感から何となく分かったのだが、この言葉は漢字で書くと「下策か」と書く。なるほど、実に伝わりやすいニュアンスである。
プロフィールにも書いてある通り、僕は九州の出身ではない。しかし、今住んでいる辺りでは、しばしばこの「げさっか」という言葉を呟きたくなるときがある。この地で生まれ育っている人達が皆悪者というわけでもないし、この辺りが皆駄目な土地柄だというわけでもないのだけど、この辺りの方がもしもお読みなら、苦言として受け取っていただけると幸いである。
昔、こんなテレビコマーシャルがあった:
タクトを振っているのは、最近の方はあまりご存知ないかもしれないけれど、山本直純という方である。「大きいことはいいことだ」というこのフレーズは、戦後の高度経済成長期を代表するものとしてよく知られている(いた? 最近の世間がどうなのかなんて知らんのだけどね)ものだけど、どうも僕の住む辺りは、これを未だに引きずっているようなところがある。地元ローカルのテレビ番組(僕は滅多に観ない……けれど予告編とかは目に入ることがあるわけだ)などで、ネタが尽きたときなのだろうか、すぐこの手の「大きいことはいいことだ」的なグルメ企画が流されるのである。
グルメ企画が乱発されることは全国的風潮かもしれない。そりゃあ、制作費を安く抑えられるし、人間の欲求に、これ程までに強くアピールするものはない。まあ、キャッチーで、受け手の教養も何も求めない、という点では、ポルノグラフィと同じ位に「使える」テーマなのだろう。しかし、ことこの地においては、「甚だしい」ことがとにかく賛美されるのである。
上述のような企画の煽り文句として、外されることのまずないキーワードが「デラうま」「テラ盛り」である。「デラ」は、この地方の人に聞くと、deluxe に由来するものだ、とか言われることがあるけれど、それは嘘だろう。どう考えても「どえりゃあ」「でぇらぁ」という方言の方が先に存在しているのだから。おそらく「テラ盛り」というのも、もともと「デカ盛り」とか「デラ盛り」だったものが、tera(1012を意味する接頭辞)という言葉を聞き知った誰かが「テラ盛り」と言い始めたのだろう。
僕はこの手の「甚だしい量」をあれ程有り難がる人々が存在する、ということが、どうにも理解できないのだ。何故って、人の胃袋というものは、多少拡張するとは言え、その容積に限界があるものなのに、食事という一連の行為を甚だしく逸脱した量の料理が出されて、何が有り難いのか……その分「質」に投入することの方が、どう考えても贅沢というものだと思うのだけど、この辺の人にはそれが理解できないらしい。
これに対する責めは、メディア側は巧妙に回避している。要するに、これらの言葉は多くの場合、「B 級」という言葉と共に使用されるのである。B 級という言葉で、まず、質と量の質の方を頭打ちにしておいてから、じゃあアピールすべきは量に決まってますよね、ほら!……と、愚かなる受け手の思考を停止させてから情報を浴びせるわけだ。こんな稚拙なことで思考が停止してしまうのか、と不思議に思うのだけど、この手の企画が一向に廃れないという事実こそが、この戦略が成功している何よりの証明である。
それにしても、つくづく僕には不思議に思える。名古屋はもともと城下町である。僕が知る限り、城下町の文化というのは、たとえ金沢などのように贅沢であったとしても、それが下品にならないような慎しさ、というか、程、というか、そういうものが暗に要求されるもののはずなのだ。城下町の佇まい、とか、武家様式の町、とか言われるものは、そういう「程」の統制によって醸成されるはずなのだ。しかし、名古屋で僕がそういう雰囲気を感じることは、皆無ではないけれど、かなり少ない。水戸という、城下町における質素な武家気質の極みたい(だったのですよ、僕の居た頃はね)な町で生まれ育った自分のことを割り引いても、やはりこれは非常に奇妙なことである。
先のテレビコマーシャルと、トヨタの存在とを、このような状況に重ねてみると、この辺りの人は、高度経済成長期の幻想に、未だにどっぷりと浸っているのではないか、と勘繰りたくもなるというものだ。もはや、日本も世界も、そんな幻想に浸っている余裕すらない状況だというのに、今日もまた、テレビでは、高さ何十センチのパフェが、とか、こーんな大きいエビフライが、ほら三匹(三尾とは言ってなかったなあ)も! とかやり続けている。もう本当、免許制の公共性の高い放送事業で、電波資源をこんなことに使い潰すのは、一刻も早くやめていただきたいのだけど。