統一教会に関わる哀しい思い出
僕は、自分がカトリックの信者であることを公言しているわけだけど、日本において、ほとんどのカトリックの信者は、必要ない限りはそういうことを公言したりはしない。それは信仰に関わる問題のためではなく、周囲との無用な摩擦を避けるためである。
僕自身も、そういう摩擦を経験したことがある。たとえば、大学に入って間もない頃のこと……当時、銀座の外れに住んでいた友人Yの家に遊びに行くと、一人の男が訪ねてきた。中学時代の同期だ、と言うのだけど、僕はどうにも思い出せずにいた。Yと話もあるだろうし、僕は移動の途中にYを訪ねたに過ぎないので、そのときはしばし歓談した後に辞去した。
それから程なく、僕が再びYに会ったときのことである。
「あのときは酷いめに遭ったよ」
とYがこぼすので、何があったのか、と訊くと、
「あのとき本人が言わないので黙っていたけれど、あいつは一家揃ってのガチガチの創価学会員なんだよ」
「……うん」
「あのとき、お前がカトリックだとかいう話になったろう」
そう言えば、そんな話をしたかもしれない。
「お前が帰った後に、あいつ、キリスト教がいかに不完全な宗教か、ということを滔々と俺に語ってなあ」
それは災難だったろう。なにせYは倫理学専攻で、カトリックの神学者にして倫理学者であるスピノザの倫理学を研究していたのだから。
「で、な。俺はもうあいつの弁にうんざりしてしまって、論破してしまったんだ」
「……うん。そうしたら?」
「そうしたら、あいつ、俺は帰るけれどこれを置いていく、読んでくれ、って」
そう言うと、Yは一冊の文庫本を僕に差し出した。青春文庫、と表紙にある。裏を返すと、聖教新聞社と書かれている。著者は……池田某。中を見ると、あちこちに線が引かれている。なるほどねえ。知らなかったとは言え、Yを酷いめに遭わせてしまったのには、僕にも責任の一端はあったのかもしれぬ。
こんなこともあった。やはり大学時代のことだが、大学に NeXT というコンピュータが導入されて、ネットワーク接続され、モリサワフォントや Mathematica がインストールされ、400 dpi の PostScript レーザープリンタが使える UNIX ワークステーションが24時間好き放題に使える状態になって、2年程が過ぎたときのことだ。
当時、端末室に入り浸っている面々は仲良くなって、深夜に皆でファミレスに行ったりしていたのだけど、その面々のひとりに、「ユンカース」というハンドルを使っている下級生がいた。彼は僕に、自分は木根尚登のファンだ、としきりに言う。僕が音楽をやっているからだったのかもしれないが、別に僕は TM Network のファンというわけではなかったので、正直持て余していた。彼は、木根氏の『ユンカース・カム・ヒア』をしきりに賛美し、学内の電子ニュースにおいても、木根氏に関する宣伝を延々と書き続けていた。
当時の僕は、中学以来の読書量を落としておらず、大学の最寄り駅の近くにある古本屋で毎日のように本を買っては読む、という生活をしていたので、あまり自分が読む価値も感じない単一の作品を毎回毎回賛美されることにうんざりしていた。まあそんなことがあって、彼とはそのまま疎遠になっていったのだが、誰かが電子ニュースで、彼と彼が宣伝している木根氏に関して批判的なことを書いたときに、逆上した彼が「罰が下る」と書いたことを、僕は妙に鮮明に記憶していたのであった。
それからしばらくして、木根尚登という人が熱心な創価学会員であるという話を聞いて、彼の「罰が下る」という言葉の意味が分かった。おそらく彼は「仏罰が下る」と書きたかったのであろう。この言葉は、創価学会員が自分達に批判的な意見に対して使う常套句である。つまりは、彼もまた熱心な創価学会員だったのだろうと思う。
誤解しないでいただきたいのだが、僕は何も創価学会だから何もかも悪だと言っているわけではない。社会との折り合いを付けて暮らしている創価学会員がいることを、僕も知らないわけではないからだ。僕が豊中・晴風荘に暮らしていた頃、隣に暮らしていた年配の女性は創価学会員で、一度だけ「聖教新聞を取ってくれないか」と来たことがあるけれど、それ以外は実によくしていただいた。そういう方も、いないわけではない。しかし、皆がそうだというわけでもない。社会においてしばしば耳目にし、僕も実際に目の当たりにしたことのあるトラブルが、そういう「社会と折り合いを付けられない」ものの存在を裏打ちしてしまっているのだ。
まあ、それでも、創価学会に関しては賛否両論あるところと言うべきなのかもしれない。しかし、標記の統一教会(世界基督教統一神霊協会)が反社会的存在である、ということに関しては、おそらくほとんど反論される方はおられないであろう。カトリック、というか、クリスチャンとしては実に迷惑な話なのだけど、未だに統一教会がキリスト教の一種であると思われている方がおられるようだが、統一教会はキリスト教ではない。ここは何が何でも強調しておかなければならぬ。
なにせ、統一教会の教義によると、文鮮明はキリストの生まれかわりなのだ、という。冗談ではない。僕等の知るキリストは、あんなに現世利益に塗れた存在では断じてない。文鮮明は、自らがキリストの実現し得なかった地上の理想の世界を実現する、と言っていたそうだけど、自分の息子をコカインの常用による心筋梗塞で死なせるような輩にそんなことを言われたかぁないのだ……と、まあ批判するとキリがないのだけど、大学というところに居たときには、僕の身近にもこの統一教会の気配があったのだ。
先の、端末室に入り浸っていた面々の話である。この面々というのが、下は学部の2年生位から上は院生まで、結構な幅があったのだけど、その中にひとり、電気系の学科に所属する大学院生がいた。この面々の根城になっていたのが、その電気系の学科に隣接した端末室と、理学部にある端末室だった(事実上24時間開放された状態だった)のだが、寮からの距離は前者の方がやや近い。そこで毎夜のことく過ごしているうちに、その院生と顔見知りになったのである。
あるとき、彼からメールが送られてきた。共同購入で、光磁気ディスクを買う計画があるのだけど乗りませんか? という内容だった。当時、まだ光磁気ディスクは普及する前だったのだが、僕等が使っていた NeXT には 5インチの光磁気ディスクドライブ(容量 256 MB)が付いていた。まだこの頃は、数百 MB もの容量のディスクを持ち歩くなど、普通の生活をしていたら考えもしなかった頃で、数千円という価格でそれを実現できるというのは、まさに夢のような話だった。当然、僕は二つ返事でこの話に乗ることにした。
それから一月程後だったろうか。端末室で、彼から光磁気ディスクを受け取った。丁度5インチの FDD のケース位の大きさ(そりゃそうだ、同じ5インチなんだから)で、厚さは1センチちょっと位だったろうか。このディスクはリード / ライトが非常に遅かったのだけど、ゴトゴト音を立てながら NeXT cube にこのディスクをマウント / イジェクトしているだけでも、何やら特別なものを掌中にしたような興奮を感じたものだ。
これが縁で、その院生(以下H氏と称す)と、オンラインでもオフラインでもちょこちょこ話をするようになったのだが、あるとき、H氏が1週間程姿を見せなかったことがあった。学会にはまだ少し早い時期だったので、どうしたのだろうか、と思っていたところに、
「ちょっと旅行に行っていました」
と、学内の電子ニュースに書き込まれていた。へー、俺なんかとても旅行に行く時間も金もないのに、そういう余裕のある人もいるものなんだなあ、と、そのときはそのまま納得していたのである。
ところが、そのうち妙なことに気がついた。H氏が左薬指に指輪を嵌めているのである。指輪といっても、普通の結婚指輪より妙にゴツい感じの、金色の指輪である。目敏い連中が、
「あー、Hさん、もしかして結婚したんですかぁ?」
とはやしたてると、H氏は笑うだけで、それ以上何も答えない。
「じゃあ、婚約したんですか?」
と水を向けてみたが、やはり笑ってそれ以上何も答えようとはしなかった。
そのうち、端末室で、顔見知りの学生から妙な話を聞いた。H氏が、デスクトップに女性の顔写真らしきものを貼り付けているというのである。当時……まだ Windows 95 の出現する前の話である……、僕等が使っていた NeXT の GUI システムでは、画像をデスクトップに置くこともできないわけではなかったけれど、ほーHさんもなかなか大胆じゃないですか……と、早速見物に行った。H氏が何か書きものをしているのを後ろから見てみると、確かに女性の顔らしきものが貼られている。しかし、解像度が今一つだったので、どんな感じなのかはっきりとはしなかった。他の学生達はその件で盛り上がっていたけれど、僕はあまりその話には深く踏み込まない方がいいような気がした。どうも、何か普通と違っているような気がする。あの指輪にしても、その妙に不鮮明な画像ファイルにしても、何か、何かが普通ではないような気がしていたのだ。
実は、その指輪がどんなものだったのか、検索で見つけることができた。こんな感じである:
そのうち、ひょんなことから、僕はバンドを組むことになった。このバンドのドラム(ドラムだからD氏とでもしておくか)が、なんとH氏と同じ電気系の学科に所属しているという。あれ、じゃあHさんって知らない? 端末室でよく会うんだけど……と言うと、D氏は、ああ、はいはい、同じ研究室ですよ、と言う。
当時、僕等は箕面市の公民館(さすがに高級住宅街で有名なだけあって、簡単なレコーディングの設備も付いた十分な広さの練習スタジオが、なんと半日500円で借りられた)で練習をすることが多かったのだけど、練習の帰り、D氏のクルマの助手席で、ふとH氏の話になったのだった。すると、
「あのさあ、Thomas 君ってクリスチャンとか言ってたよねえ」
「え? ああ、そうそう。うちは祖父の代からのカトリックでね」
「カトリック? カトリックって、旧教のこと?」
えらく珍しい言葉を聞いたなあ、と思ったのだが、考えてみれば、キリスト教と縁のない人にしてみたら、まあそういうことになるのだろう、と思い、
「旧教……まあ、歴史の教科書とかにはそう載ってるねえ。そうそう、その旧教だよ」
すると、D氏は少し考えてから、
「じゃあ、Hさんとどうして知り合いなの?」
「え? ああ、ほら、NeXT 使う連中が、君の研究室の近くのあの端末室に集まってるだろ。あそこで会うことが度々あって、そのうち光磁気ディスクの共同購入とかで誘われて、それで、ね」
D氏は、クルマを路肩に寄せて停めた。そして、うーん、と、やや混乱したような表情で、
「…… Thomas 君は、Hさんの件を知らないんだね」
と言う。「Hさんの件?」
「うん…… Thomas 君、Hさんが指輪してるの知らない?」
「ああ、知ってる知ってる、皆が結婚指輪かエンゲージリングか、って騒いでたんだけど、あの指輪、あまり見ない形だよね」
「……うん。あと、今年の8月末位に、1週間位休んでたのも知ってる?」
「ああ、そう言えば、旅行に行った、とか何とか」
D氏は溜息をついてから、こう話し始めた。
「Hさんってね、統一教会の信者なんだよ。今年の8月に旅行に行った、っていうのは、あれは合同結婚式に行ったんだって」
それを聞いた途端、それまで違和感を感じていたことに合点がいった。
「じゃあ、デスクトップに貼ってた女性の顔は……」
「うん、それはその合同結婚式で結婚した相手だろうね。ただし、結婚してから、しばらくは一緒に暮らせないとか何とか言ってたけど」
僕は、次にH氏と会ったときに、どんな顔をしたらいいんだろう、と、考え込んでしまった。
「……しかし、Thomas 君、本当に知らなかったの?」
「そりゃそうだよ、今ここで初めて聞いたんだから。それに、僕に対して宗教的に攻撃してくる、とか、布教しようとかいう風でもなかったしね」
「……まあ、そういうことでね。ほら、Hさん、D4 だろう? あれも、その件で揉めて学位論文が遅れてるらしいよ」
「なるほど……今、ようやく、全てが頭の中でつながったよ」
……その後、僕は別にH氏を遠ざけたわけでもないし、どちらかがどちらかを攻撃したということもなかったのだけど、彼とは疎遠になってしまった。今はどうしていることだろうか。
一説によると、合同結婚式で結ばれたカップルの8割が、その後壊れてしまうのだという。人と人の縁というものを、まるでブリーダーが犬を交配でもするように貶めてしまった結果がこれだ。幸せは、人が人にモノのように与えることなどできはしない。神を騙った、汚れたヒトが他人の幸福を無責任にも粗製濫造することが、どれ程罪深いことなのか。ここにこれ以上書くまでもなく、それは明らかなことであろう。
あの頃、僕は丁度プライベートでも色々あって、純粋な出会いとか恋とかいうものに飢えていた時期だった。そんな時期にこういうことを知ってしまい、何とも言えず哀しい気持ちになったことは、今でも鮮明に記憶している。文鮮明が死んだ、というニュースを聞いて、ふと、そんなことを思い出してしまったのだった。