ロータリーポンプの思い出
僕の稼業では、よく真空ポンプというものを使う。真空ポンプと言ってもピンからキリまであるのだけど、僕等の業界では、真空度の低い方だったら油回転ポンプ(通称ロータリーポンプ)、高真空だったら油拡散ポンプ(通称ディフュージョンポンプ)、二者の間で高速排気が必要ならスクロールポンプ、ディフュージョンより高い真空度が必要ならターボ分子ポンプを使うことが多い。油拡散ポンプとかターボ分子ポンプというのは、基本的には単体ではなく、より低真空度のポンプと結合して使うものなのだけど、そういうときにはロータリーポンプを使うことが多い。だから、真空デシケータを引くようなちょっとしたことから、XRD の回転電極管を引くような時まで、このロータリーポンプはありとあらゆる所に転がっているものだ。
あれはまだ大学院生の頃のことだけど、あるときこのロータリーポンプを動かさなければならないことがあった(そういうことは日常的にあるものだけど)。で、たまたまそのときは急いでいて、何十キロもあるポンプを台車に載せるのに、えいやっと力任せに持ち上げた、そのときだった。
「ピキ」
という嫌な音がどこかしらかで聞こえて、僕はその場に崩れ落ちた。身体を曲げようとすると、腰に激痛が走る。何だ、何が起こったんだ?
当時の指導教官T氏が部屋にやってきて、床に転がっている僕に気付いて、どうした、と声をかけてきた。脂汗を流しながら事情を話すと、
「アホやなぁ、こういうときは腰を折らずに膝を曲げて持ち上げんと……」
しかし、T氏は妙にニヤニヤしている。
「T先生、これ、一体、どうしちゃったんですかね?」
「どうって……分かるやろう。これがギックリ腰ってやつや」
そして、そうかぁ、Thomas 君初めてかぁ、いやいや、ついにやってしまったなぁ……と言いながら、妙にニヤニヤし続けている。こっちは痛くて、脂汗を流しつつ、近くの壁に身を寄せているのだが、そのうちに、ボスのH教授が上がってきた。
「ん、何や、どうした?」
「ああ、H先生、Thomas 君がね……」
T氏はニヤニヤしながら、
「腰イワしたみたいで。初めてらしいですよ」
これを聞くと、H教授の口角がきゅん、と上がった。
「何、腰か? 何や Thomas 君初めてか、あーそうかそうか、ついに Thomas 君も腰イワしたか……」
二人顔を見合わせてニヤニヤしながら、妙にしみじみしたような口調で「いやぁ」「いやぁ」と言い合っているのを見上げながら「アンタら鬼か」と思ったのは、今でもよく覚えている。これが僕の「初ギックリ」で、このときは治癒までに1週間程かかった。最初の何日かは、トイレでいきむのにすら苦労したものだ。
その後も、何年かに一度腰を痛めるようなことがあって、現在に至るわけだが、この十何年か、自分のも他人のも含めると、結構な数のギックリ腰に遭遇してきた。しかし、どうして、誰かがギックリ腰で倒れると、皆ああもしみじみした様子になってしまうのだろうか。仲の悪い人達ですら、顔を見合わせ口々に、自分の過去の経験を交えた「養生訓」をしみじみと語り合ってしまうのだ。
あの「初ギックリ」以来、僕はロータリーポンプを見るとその体験がフラッシュバックしてしまい、ポンプを運んだりメンテナンスで分解したりするときには、妙に慎重になってしまう。「Thomas さんどうしたんですか」と聞かれることも少なくない。いや、でも、あの初ギックリのときの記憶は、おそらく一生忘れることはないだろう。
あれは30になって間もない頃のことだったと思うけれど、某研究所でやはり腰をやってしまい、早退して近所の整形外科に受診した。腰のレントゲン写真を何枚か撮影して、シャーカステンを前にドクターと二人向い合うと、
「Thomas さん……腰ですけどね」
「はぁ」
「まあ……一口で言うとですね……」
「はぁ」
「……もう、若くはないということですよ」
ハァ? と思わず聞き返してしまったけれど、あのときのドクターの妙に嬉しそうな顔ったらなかった。どうして、腰を痛めた人を前にすると「こちらの世界にようこそ」みたいな反応をするんだろうか。次の日、出勤時に上司に報告がてらこの話をしたら思いっ切り笑われてしまったのだった。
「まぁ、皆やっとるんや。君だけやない、ということや。そうか……しかし、そうか……『もう若くない』か……プププ」
プププちゃうわ。まあそういう経験をしたので、自分より若い者が腰を痛めたときは、そういう対応だけはしないように心掛けている。
いや、なぜ今日こんな話を書いているか、というと、実は今日、教会で椅子を運ぼうとして、腰を痛めてしまったのだ。もうさすがに慣れたし、周囲の人にそういう風に扱われるのが嫌だから、帰宅するまで一人耐えていたけれどね。