「被爆2世だから」という言葉への違和感
世間では、佐村河内守氏の一件で喧しい。まあ音楽に限定した話ではないけれど、アートというのはしばしば扇動されるものであって、それを享受して謳歌しているつもりでいる大衆は、扇動する側にしてみたら単なるカモに過ぎない。音楽以外だったら、たとえば Chim↑Pom とそれを評価するキュレーター達の存在、なんてのはその典型である。
しかし、それと同じ位僕が違和感を感じるのは、この佐村河内氏が折々に触れ「被爆2世だから」という言葉を吐いていたことである。僕の身近には、U という被爆2世がいるわけだが、U が「私は被爆2世だから」という言葉を口にすることは、通常まずないと言っていい。なぜなら、U はそれを以て自らのアイデンティティを主張することがないからだ。
U の中学時代の同級生に、福山雅治という人がいる。彼は、自らのラジオ番組で被爆2世であることを語っているけれど、彼はそれを以てアイデンティティを主張しているわけではない。あくまで彼はミュージシャンであり、役者であり、時々は写真を撮ったりもしているようだけど、そういうことで彼はアイデンティティを確立しているわけだ。
二人に共通していることは、乏しい自らのアイデンティティを水増ししたり、それを他人がある程度の質・量のあるものとして受容せざるを得ないようにしむけたりする道具として、自らの被爆2世としての出自をふりかざすようなことがない、ということだ。彼等は郷里で、被爆者や被爆2世がどのような辛いめに遭ってきたかをよく知っている。その上で、それを自分の一部として負って生きている。だから、たとえば8月9日に彼等の口から語られる「いや、まあ、実は私は被爆2世ということになるんだけど」という言葉は重いのだ。
佐村河内氏のインタビューなどを見返してみると、彼の言葉にはそのような重さが微塵も感じられない。いや、彼が嘘をついているとか言うつもりはない。しかし、その重さの違いはどこから生じるのか、と考えると、ああなるほど、そういうことなんだな、と得心がいくわけなのだ。
Re:「被爆2世だから」という言葉への違和感
”現代のベートーヴェン” とか言われていたようですが、私はニュースになるまでこの人のことをよく知らなかったし、何の興味も無なかった。というか、言動・風貌といい 見るからに「胡散臭っ」と思っていました。うーむ自分の感って結構いつも 当たってる(笑)