商売物には
思えば、人を教えるということで金を貰うようになってもうどれだけの年月が経過したことだろう。大学生のときの家庭教師からだから……長いものである。
学部生のときは専ら男子生徒を教えていたわけだが、院生からは大学でも教えるようになって、いきなり妙齢の女性を教える機会が増えた。学生に慕われて……みたいなことを考えたことがない、とは言わない。しかし、この頃から戯れ半分、本気半分でよく口にしていたのが、
「この稼業、商売物に手を出したらオシマイなんですよ」
というセリフである。僕はこの実例をひとつ、よーく知っているのだ。
当時の知り合いに Q という男がいた。彼は、大学に入って程なく知りあったという女性と交際していて、就職したら結婚するものと思っていた。しかし、突然二人は別れ、Q はその年に大学に入ったばかりの女性を連れて歩くようになった。一体何が起きたのか。周囲の口は重かったけれど、あるとき僕はついにそれを耳にした。何のことはない、その女性は Q が家庭教師で教えていた子で、Q はその子に手を出し、妊娠させた上に堕胎させたのだという。事実を知った Q の恋人は彼から離れ、そして、それでも Q と共に居たいという教え子を、Q は次の女として連れ歩いていたわけだ。まあ、嫌な話だが、大学に居るとしばしば耳にする類の話である。
Q とはその後交流が絶たれているので、彼と彼女がその後どうなったかは知らない。ありふれた話に何を書いているのか、とお思いの方もおられるだろう。しかし僕はこのとき、ああ、やっぱり教え子に手を出しちゃ駄目だよなあ、と思ったのだ。その思いは、今に至るまで変わらない。
教える立場の自分の周辺を俯瞰すると誰でも気付きそうなことなのだけど、教える立場の人間は、教わる立場の人間をある程度コントロールすることができる。まあ、メンターと言っちゃ大袈裟かもしれないが、教えるというのはそういう類のものである。違う小路に導こうとすれば、全ての学生に対して可能ではないかもしれないが、ある種の学生をそこに追い込むことは不可能ではないのだ。
しかし、それが可能であっても、そんな行為を愛や恋とは言わないだろう。それはあくまでも、他人を自分の都合の良いようにコントロールしているだけだ。そもそも、そこまで可能な程に相手がこちらに心を委ねているからこそ、それをしないということを以てその信頼に応えることが、教えるという立場の持つ一種の聖性なのだ。それを意識できない者には、人を教える資格はない。そう僕は思っている。
そして、人を教える立場にある者は、学問の求心力を自らへの求心力と誤解させてしまうような振舞いを可能な限り回避しなければならない。プライベートのやりとりはしない。プライベートの披瀝もしない。二人きりにならない。どうしても他者の介在しない空間に居なければならない場合は、ドアを開ける。必要なら部屋を出てロビーを使う。それを当たり前の行動としてできなければならない。
教える側同様、教わる側もしばしば「勘違い」をする。いや、実際はもっと狡猾で、勘違いをしている風を装って、教える立場の覚え目出度き立場にあやかろう、なんて学生は、残念ながら一定割合で出現するものだ。その秋波は受け流さなければならない。それが、異性を含む学生を教える者としての才覚なのだ。
いや、何でこんなことを書くか、というと、僕以外の誰かさんに関して、そういうキナ臭い臭いがするのを僕が感じ取ってしまったからなのだが、頼むから馬鹿なことをしないでもらいたいものだ。いい歳なんだから、本当にやめなさいって。そんなコントロールではなくて、対等な大人の異性との関係を求めないならば、それはアンタがそういうことなしに女に振り向いてもらえない輩だ、って、自分で自分をあかししているようなものじゃないのかね。