『バカの壁』の源流
養老孟司氏の『唯脳論』を読み進めているわけだけど、この中に、おそらくは『バカの壁』の源流になったのはこういうことか、と思わせるくだりがある:
言語を用いれば、相手の考えがある程度わかる。なぜか。それは言語を表出する側と、それを聞いている、あるいは読んでいる側で、似たような脳内過程が生じているからである。言語の場合、その類似の厳密性は数学よりも弱い。したがって、数学はより明確に脳の機能を反映する。あるいは、より基礎的な脳の機能を示す。
もっとも、言語も数学も、ある程度を越えると、理解する人の方が減る。つまり、そうした脳内過程には、個体差を越えるほどの一般性が無い。時代によって、同じ考えの理解度が違ってくるのは、教育、つまり環境の問題に過ぎない。江戸期の人に微積分を教えても、いまの人同様によく、あるいは悪く、理解したであろう。
前にこの blog で、Twitter のアイコンに日の丸を入れている輩をコキおろしたときに、余程癇に障ったのか、「バカの壁」とだけ書いてリンクを張った輩がいたけれど、そう、それこそがバカの壁である。ただし、そういうことだけ書いているというのは、これは自らの脳内過程を表出する術に尽きたのだ、と言われても仕方あるまい。そう、壁があるのは件の輩の脳の内なのである。