吾唯足知
カトリックを何十年もやっていると、身に沁みてくる言葉がある。この言葉に関しては、実は非常に不思議な思いをすることがあった。
僕がよく口にし、心に置くようにしている言葉に「足るを知る」という言葉がある。現状に妥協する、迎合する、という意味ではなくて、今の自分に与えられているものへの充足感を感じるように努めていれば、欲にかられて暴走することなく己を治められる、という意味のことばである。
僕は、この言葉は老子のことばだ、と認識していた。今回の地震とそれに伴う原発事故、そして未だに続いているミネラルウォーターの買い占め騒動を耳目にするにつけ、僕はこの言葉を思い出していたのである。しかし、お恥ずかしい話だが、僕は老子の原典をちゃんとチェックしていなかった。で、この夜に、いい機会だからちゃんと読んでおこう、と老子の『道経』を読んでいたのだった。
この「足るを知る」という言葉が出てくるのは、『老子道徳眞經』の第三十三章(辯徳)のこのくだりである:
知人者智、自知者明。
勝人者有力、自勝者強。
知足者富、強行者有志。
不失其所者久。死而不亡者壽。
人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志あり。
その所を失わざる者は久し。死して而(しか)も亡(うしな)わざる者は寿(いのちなが)し。
他者を知る者は智者であるが、自分自身を知る者は明晰な者である。
他者に勝る者は力のある者だが、自分自身に勝つ者はそれに勝って強い者である。
既に持つ物で充足する者は豊かな者だが、自らを叱咤して努力できる者は大志を持つ者である。
自分が居るべき所を見失わない者は長続きする。死を迎えるときも尚その生を失わない人は、その天寿をまっとうできるのである。
ん?これを読むと、対比表現の前者の方に「知足」が来ている。うーん、これは決して「知足」が悪いことだと言っているわけではないんだけど……と、ちょっと調べてみると、貝原益軒(『養生訓』で有名な元禄時代の文筆家)の『楽訓』なる文章に行き着いた:
わが身の足る事をしりて、分をやすんずる人まれなり。これ分外(ぶんがい)をねがふによりて楽(たのしみ)を失へり。知足の理(ことわり)をよく思ひてつねに忘るべからず。足る事をしれば貧賤にしても楽しむ。足る事をしらざれば富貴をきはむれども、猶(なお)あきたらずして楽まず。
もちろん、貝原益軒の脳裏には老子の文章があったことは想像に難くないが、僕のイメージする「足るを知る」というのは、どうもこれが起源のようである。
ちなみに、「吾唯足知」ということばの起源だが、これは龍安寺(方丈庭園……枯山水の石庭としてあまりに有名だが……のある寺である)に置かれている蹲踞(つくばい……手水鉢と言ったらいいのだろうか)に彫られているのだという。その蹲踞を寄進したのは、水戸藩第二代藩主・徳川光圀だと言われているそうだ。