いわしの梅煮
昨日、手頃な大きさの鰯が安かったのでまとめ買いして、いわしの梅煮を炊いているところである。
梅煮のレシピを読んで最初に作ったのは、確か「辻留」の辻嘉一氏の随筆だったと記憶している。鍋の底に竹の皮を敷いて炊くそのレシピは、今でも辻氏の本を御一読いただければ再現できると思うけれど、ここ最近僕が採用しているのは、『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』で濱本良司氏が紹介したこのレシピである。関西の料理らしい、丁寧なレシピである。単純に、ここに書いてある通りに作ればいいわけだが、いくつかコツがあるので、それを書いておくことにする。
まず、いわしの下処理だが、いわしは身が傷付きやすく、味も抜け易いので、真水に触れさせてはならない。このレシピでは塩水で洗うように書かれているが、海水と同じ位(重量濃度で 3 % 程度)の塩水をボウルに作って、その中で洗う。市販のいわしで、よく頭が落とされて内臓が抜かれた状態のものがあるのだけど、これを使う場合でも掃除は必要である。腹に鱗があるので、これをそうっと包丁などで除去して、腹を肛門のところまで切り開く。腹腔には黒い腹膜が被っているのだが、これがいわしの臭みの源になるので、内臓(頭ごと除去されていても、肛門に腸の一部が残っていたり、卵巣や精巣が残っていたりすることが多い)共々、ボウルの塩水の中で、親指の腹の指紋を使ってやさしく擦り取る。このレシピでは酢水で下茹でするので、水気を拭き取らずにそのまま鍋に並べてもらって構わない。
そして酢水で下茹でをするわけだが、僕はここでは純米の米酢を使っている。いわゆる合成酢の類でも、その後味を付け直すので問題がない、と言われそうだけど、調味料には少し贅沢をした方が、こういう料理は美味しくなる。醤油共々、あまりケチらないようにした方がよろしい。
酢水を切った後、酒と水を等量入れた中に調味料を加えていくわけだが、僕はここでは料理用清酒を使っている。いわゆる料理酒は、酒税法対象になるのを回避するために塩が添加されている上に、基になっている酒の質が著しく悪いので、手元にちゃんとした日本酒のない方は、たとえば宝酒造の「料理のための清酒」などを購入されることをお薦めする。できれば(淡麗辛口ではない)純米酒を使われると申し分ない……たとえば「美少年」とか。醤油も、脱脂大豆やアルコールを使用していないものがお薦めである。何か僕が贅沢でこういうことを書いていると思われそうだが、こういう料理だからこそ、調味料に少し贅沢をすると差が大きい。貧乏人(僕もこの範疇だ)はむしろ調味料でケチるべきではないのだ。
そして、おそらく一番問題になるもの……それが、梅干しである。これに関して書きたくて、今日こうやって blog にわざわざこんなことを書いているのである。実は、スーパーで普通に売っている梅干しでいわしの梅煮を作ると、おそらくかなり高い確率で、美味しくない梅煮が出来上がってしまうのだ。残念ながら、それが今の日本の現実なのである。
どういうことか、というのは、スーパーで売っている普通の梅干しのパッケージを引っくり返して、原材料をチェックしてもらえばすぐに分かる。たとえば、今ちょっとググって出てきた、ある梅干しの原材料のところを見てみると、こんな風に書かれている:
原材料: 梅、漬け原材料〔食塩、還元水飴、砂糖、発酵調味料〕、調味料(アミノ酸等)、酸味料、ユッカ抽出物、 ビタミンB1 (原材料の一部に大豆を含む)……残念ながら、これが今の日本の梅干しの現実なのだ。先日、某量販店に行ったときに、試しにそこで売られている梅干しの原材料を全てチェックしたが、この手の添加物を使用していない梅干しは、残念ながらひとつも存在しなかった。
梅干しを作るときは、まず熟した梅の実を食塩で漬け込む。浸透圧で、梅の水分とクエン酸等が外に出てくる。これを白梅酢と言うのだが、これが十分上がってきたところで梅を取り出して天日干しする。白梅酢に塩で揉んで色を引き出した赤紫蘇を漬け込んで赤梅酢を作り、この赤梅酢に再び梅を戻す。これを1か月程寝かせてから、梅を天日で3日間干す……いわゆる「土用干し」というやつだ。土用干しが終わったところで、赤梅酢の中に再び漬けて熟成をかけ、ようやく梅干しが出来上がる。
このような作り方をした梅干しは、20 % 以上の塩分を含んでおり、梅酢に起因する酸味や香りも強い。昨今の減塩ブームや、この強い酸味や香りを敬遠する向きがあるので、梅干しの生産者は、せっかく作った梅干しを流水に何日か晒して、塩と酸味を抜く。その梅に、先の調味料を沁み込ませたものが、スーパーなどで売られている梅干しの正体である。
いわゆる JAS(日本農林規格)法では、このように塩抜きをした後調味料を沁み込ませたものを「調味梅干」、昔ながらの梅干しを「梅干」と表示することが義務付けられている。和歌山名産の南高梅などの、大粒のものを店頭でよく見かけるけれど、そういう(世間では「高級」だと思われているであろう)ものも、ほとんどがこのような「調味梅干」である。おそらく皆さん、甘酸っぱくて美味しい、などとよく買われているのかもしれないが、いわしの梅煮のように、梅の酸味と香りを調味料として使う場合、この「調味梅干」では十分な味や香りが出ない。それらは塩分と共に、梅干しの外に流れ出てしまっているのだ。いわしのような、味も匂いもキツい魚に、こういう梅干しでは太刀打ちできない。
僕は茨城・水戸で生まれ育ったわけだが、水戸は偕楽園の梅で作った梅干しが比較的容易に入手できたこともあって、調味梅干というものには十二、三歳位までお目にかかることがなかった。しかし、他所で何かのときに梅干しを食べることがあって、口に入れた途端に「こりゃ駄目だ」と吐き出したのを覚えている。明らかにグルタミン酸や甘味が足されたそれは、どう考えても僕にとっては「梅干し」とは違う食べ物だったのだ。
しかし、現時点において、JAS 法で言うところの「梅干」はもはや絶滅の危機にあると言ってもいい状態だ。大阪に住んでいた頃、某百貨店で「梅干」を探していて見つからず、店員に、
「なるだけ塩分濃度の高いものはありませんか」
と聞いたときの、あのまるで異形のものにでも遭ったかのような表情は、未だに忘れることができない。
名古屋の金持ち連中の間で有名な割烹に、ちょっと用事があって飯を食べに行ったことがあるのだけど、そのとき、店主に講釈を垂れている客に出喰わしたことがある。その人物は、店主の出した鱧の湯引きに添えられた梅肉が気に入らなかったらしく、
「いいか、お前はまだ若いから知らないかもしれないけど、梅肉ってのはもっとこう味があって、まろやかじゃなきゃいけないんだよ」
などと説教めいたことを言っていて、僕は、あーなるほどな、と思ったのだった。その客が帰ってから、店主に、
「この店で梅肉に使ってる梅干しはどんなものですか?」
「え?……はいはい、これはですね、うちの母ちゃんが漬けた梅を使ってるんですよ」
あー、やっぱり。グルメぶってこの店で飯を食っている客も、もはや本当の梅干しの味を知らないということか、と、暗澹たる気持ちになったのだった。まあでも、それが日本の食文化というものの現実である。
……さて。いわしの梅煮の話に戻ろう。ネットで探してもらうと、梅干しの直販をやっている農園などで、昔ながらの漬け方をしている「梅干」を見つけることは、まだ不可能ではない。目立たなくなってはいるけれど、原材料に「梅、食塩、赤紫蘇」位しか使っていない梅干しがきっとある筈だ。このような「梅干」を使っていただければ、梅煮はきっと美味しく作れると思う。
勿論僕も、そういう梅を探してストックしてある。普段こういう「梅干」を食べるのはちょっと……という方も、こういう「梅干」は本来の梅干しとしての長期保存が可能で、乾燥や高温多湿さえ避けてもらえれば、使う頻度が少なくても問題なく保存できるので、もし梅煮を作られるのであれば、事前に確保していただければ、きっと満足していただけると思う。逆に言うと、いわしの梅煮を美味しく作るのに気をつけるのは、これ位のことで十分なのだ……ああ、勿論いわしは鮮度の良いものがいいと思うけれど、それはスーパーとかで買われても、あまり問題ないと思うので。