palliative procedure
"palliative" というのは、医学領域でよく使われる言葉である。日本語では「姑息的」というのだけど、たとえば、末期の食道がん患者に対して、がんの治療目的でなく、食事の通り道を確保する目的で手術を行うような処置のことを「姑息的処置 palliative procedure」と言う。「姑息」というと、とかく悪いイメージがつきまとうけれど、「姑息」という言葉自体にはもともと悪い意味はない。「姑」は「暫く」という意味で、「息」は「休息」と同じ、つまり「息をついて休む」という意味だから、「姑息的」は「(本質的ではないけれど)一時的な対処として」という位の意味である。
とは言うものの、「一時しのぎ」という言葉には、やはりあまりいいイメージを喚起されることはないものだろう。本質的な問題解決ができることをサボった挙句の「一時しのぎ」なんじゃないか、と考えるからだ。進行したがんと戦う医師達にしてみれば、「姑息」という言葉にそういうイメージを付加されるのはいい迷惑に違いないのだが、残念ながら、世間にはこの誤謬を定着させるに十分足るだけの数のサボリ野郎が存在するのである。
毎度おなじみ TeX フォーラムやTeX Q&A では、年が明けた頃から質問の数が急増する。その質問の多くは、概ね以下のような特徴を有する:
- 「〜に書いてあることができません」と書かれることが多い。
- 使っているシステム構成や、「うまくいかない」ことが再現される記述例が添付されない。
- 文末が、
- 以上です。失礼します。
- どうすればよいでしょう。
- よろしくお願いします。
- 一体どうすればいいのでしょうか?
- 何が原因でしょうか。お手数をお掛けいたします。
- 質問に対する答が出ても、阿呆な質問への苦言が出ても、半分位はそのまま質問者が消えてしまう。
なぜ、こういう質問が多発するのか。まあ、その時期を考えると何となく想像はつく。おそらく、卒論や修論(さすがに学位論文でこんな泥縄野郎はいないと思いたいのだが)で TeX / LaTeX での論文作成が義務付けられていて、年明け位に「そろそろやらないとマズい」とか思うのだろう。そして、奥村氏の『美文書作成入門』を買って、何も考えずに巻末の DVD でシステムのインストールをする。そして、迫る締切に泡を食いながら書き始めるのだろう。
こういう手合いは、統合環境があるとまず間違いなくそれに飛び付く。統合環境は確かにユーザーフレンドリーに見えるけれど、システムがユーザーに対して返すメッセージに、ユーザーの注意が行きにくくなる、という弊害がある(誤解しないでいただきたいが、これはシステムのメッセージを注意しないユーザーのせいであって、統合環境それ自身やその開発者のせいではない)。書いてある通り(と本人は信じ込んでいるだけ、ということがほとんどなのだが)にやったのにできない。自分では原因特定ができない……と、こうなるわけだ。
最近は google という便利なものがあるから、極端な話、エラーメッセージを検索欄にコピー & ペーストして検索をかけるだけでも、対処法に辿り着ける可能性が高い(同じように卒論や修論で苦しんだ先達のブログとかね)。しかし、そもそもエラーメッセージを見よう、という、その意識すら彼等にはない。「書いてある通りにした」ということが「うまくいく」という結果を保証してくれる(と彼等は信じ込んでいるわけだが)はずなのに、その結果が得られない。どこに質問(というか、彼等にしてみればクレームという意識なのかもしれないが)を投げかけたらいいのか。そうして彼等は、奥村氏の TeX Wiki 傘下のページに到達するのであろう。
しかし……大学での研究というのは、少なくとも、まだ誰もやっていないことをやる、とか、既に誰かがやったことでも、異なる着眼点からやり直す、とか、そういうことなわけで、目前の事象を解析的な眼で見つめて挙動を探り、そこに法則性を見出して理解する……そういう行為である。ほとんどの事が文書化され、google でも使えば簡単にその文書にアクセスできるようになっている TeX / LaTeX において、そういう姿勢が欠片程も窺えない、ということは、大学で研究して論文を書く、という本分において、果たしてどういうことになっているのだろうか、と、心配になってしまう。無論、僕がその心配を晴らす義理など、何もないのだけれど。