教会に行く度に思い出す話
これは、道徳の授業などでも教材にされることのある、よく知られた話である。皆ワインを入れるんだし、自分だけ誤魔化しても大丈夫だろう……村人全員がそう思っていた。その結果として、樽は水で満たされていた、という話である。ある村での話。長年村のために尽力している村長さんの永年勤続のお祝いをしよう、という話になって、村人達から、村長に何かプレゼントをしようということになりました。決して裕福ではない村で、あまり高価な記念品を買うこともできそうになく、皆で話し合った結果、ワインを贈ろうということになりました。
村の広場に、空の樽がひとつ置かれました。つまり、皆が家のワインを持ち寄ってこの樽に入れていき、樽が一杯になったら、栓をして、村長にプレゼントすればいいだろう……という考えだったわけです。しばらくして樽は一杯に満たされ、数人の村人がこの樽を村長の家まで運びました。
樽を贈られた日の夜。村長は、早速ワインをいただくことにしました。樽の中身をカップに注ぎ、にこにこしながらそれを口に含んだ次の瞬間、村長が顔をしかめました。彼の口に入っていたのは、ただの水だったのです。
所属教会のミサに行く度に、僕はこの話を思い出さずにはおれない。とにかく、この教会の会衆は、祈りの言葉も、聖歌も、悉く自らの意志を以て口にすることがない。だから、統制は取れないし、いつもモヤモヤとした感じで、何を言っているのか判然としない。歌に至っては、ちゃんと声を出して歌っていると奇異の目でみられる程である。
このような状況になってしまう理由は何だろうか。それは簡単な話である。皆唱えるんだから、皆歌うんだから、自分だけがそれを声にしなくとも大丈夫だ……皆がそう思っているからである。しかし、日曜の朝、普通の人が家でブランチでも食べているような時間に、こうやって一堂に会しているのは何の為なのだろうか? この人々は、一体何をしにここに来ているのだろうか?
それは、聖体拝領のときに明らかになる。あれ程主体性をみせず、怠惰であった人々が、聖体拝領のときだけは皆並び、ホスチアを口にするのである。なるほど、彼等にとってミサとはホスチアを食うことで、彼等はホスチアを食いにここに来ているのであろう。そうに違いあるまい。
しかし、そんな人々に聖体の霊性なんてものが本当に齎されるのか? 僕には到底そうは思われない。だから、僕は周囲に奇異の目で見られながらも、祈り、歌い、そして聖体を戴く。周囲の連中がどんなであったとしても、僕は断じて、ホスチアを食いに教会に来ているのではないのだ。彼等に迎合していたら、自分が駄目になってしまう。樽に水を入れるような真似だけは、僕はしたくはないのである。