愛と鞭
世間では、大阪市立桜宮高校において、バスケ部の顧問教諭から日常的に体罰を受けていた部の主将が自殺した事件に関してあれこれ議論が盛り上がっているようである。体罰容認派、反対派、様々な意見が出ているらしい。
意外に思われるかもしれないが、僕は剣道と居合を高校までやっていたので、この手の体罰に関しては「される側」としてはそこそこの経験がある。では、僕が大学に入って以降、人を教える側に立ったとき、体罰を与えたことがあるか、というと、これはただの一度もない。もちろん、僕が主に大学生以上の人々の教育にたずさわっていたから、というのが、その最大の理由なのだろうけれど、たとえ小中学生が相手であったとしても、僕は体罰を手段として使うことはないだろう。
では、体罰を完全に否定しているのか、と言われると、そうでもないような気がする。何が何でも、相手に目前の問題を認識させ、それに対してどうあるべきか、という課題に向かわせる上で、一発頬を張る、というのは、それはそれなりの効果があるだろう、とも思うのだ。僕自身は、そういう局面では手を上げず、相手のトラウマになるかならないか、ぎりぎりのラインでかなりキツいこと(「君は頭に腐ったオガクズでも詰めてるのか」とか「君には年齢相応のプライドもないのか」とか「君は親から貰った感覚器官で目前の事物を認識することもできないのか、できないんだったら、そういう器官が欲しくても損われている人達にさっさと差し上げるべきじゃないのかね」とか)を言うわけだけど、そういうまわりくどいことを言うよりも、頬を一発張る方が説得力が高く、後々わだかまりを残さずに済むときもあるのかもしれない。
ただし、言葉であっても体罰であっても、こういうことを行う際には気をつけておかなければならないことがある。それらの行為は、それ自体は教育的効果を為さない。キツい一言もビンタも、教育上ぜひとも教わる側に認識しておかなければならないことに、否応なく彼らの耳目を向けさせるための手段に過ぎないのだ。だから、その手段を行使する際には、タイミングを見誤ることのないように、注意深く、そして過不足のないように行使しなければならない。
そして、教える側は、言葉を浴びせられる、あるいは頬を張られる相手と、その痛みを共に負わねばならない。嫌な言葉を吐けば、その日一日気分が悪くなるだろう。最初はそんな言葉を吐かせた相手への憎しみを感じるかもしれないが、早々にその感情は、そんな言葉を吐いた自分自身への嫌悪感に変わる。物理的に頬を張るときだって、掌が充血するだろうし、時には相手の前歯で手を切るかもしれない。それは、相手に問答無用で衝撃を与え、否応なく物事に耳目を向けさせる、という手段でしか相手を指導できなかった自分への責めとして、深く深く受け止めなければならないのだ。
そして、教える側は常に己に問いかけなければならない:自分は、自分のフラストレーションの捌け口としてそのようなことをしてしまっていないだろうか? と。相手が飲み込みの悪い性質だったら、言葉を荒げたり手を上げたりする前に、どうしたら飲み込めるのか、どうしたら咀嚼できるのか、を考え、手を尽すのが、教える側の本来の仕事なのだ。それができない己の至らなさに、常に心を向けられなければ、その人はもはや教育者ではない。
今更こんなことを書かねばならないのは苦痛なのだけど、学校で子供を教える、という意味で使われる英単語には education と discipline というふたつの語がある。最近は後者を使うことは滅多にないと思うけれど、たとえばイギリスのパブリックスクールなどでは、言うことをきかない子供を教師が校長室に連れて行き、校長が部屋に備えつけの鞭で尻を叩く、なんて話が実際にあったのである。こういう教え方を discipline と言うわけだ。
僕は、「教える」という意味での自らのミッションは education であって discipline ではない、と確信しているので、教える相手に手を上げるようなことはないわけだ。しかし、たとえ discipline の方を行うにしても、実は先のパブリックスクールの例などはそれなりに工夫されているのだ。児童に恐怖を与えるのは校長であり、そして尻を叩く鞭は、児童に致命的な傷を与えるようなものではない。
要するに、たとえ discipline であったとしても、相手に苦痛を与える行為の背後には、本来の目的が何なのか、ということを考慮した上での線引きがされている、ということである。愛の鞭というのは、相手を毀損するためのものでは断じてない。そして、与える痛みや恐れの程度は、その対象と効果という観点から吟味に吟味を重ねたものでなければならないのだ。
これはあくまでも僕の推測だけど、先の顧問教師は、おそらく部全体の問題に対して、部の代表的存在である主将を叱咤し、体罰を与えていたのだろう。これは、主将の責任感を喚起し、部全体の一体となったモチベーションを育てる、という狙いで行われていたのだろう……最初のうちは。しかし、やがて主将は、部の代表としての存在を否定されるレベルまで体罰が向けられるようになり、やがて単なるスケープゴートへと存在の意味が変質してしまった。そして顧問教師は、その場その場で、自分の思ったような結果が出ないときに、この主将に体罰を与えるようになった。それは教育的効果が期待できるのだろうか? その場その場で顧問教師が感じたフラストレーションを、ヤギを苛めて晴らす、という、およそ教育の彼岸にあるような行為に、それはなっていたのではないだろうか?
百歩譲って、体罰が許容されるとしても、鞭は愛の実現のために振るわれるべきなのである。相手を毀損しては、何の意味もないのだ。