IPA フォントに関して

配布可能、かつ高品位な日本語フォント

前述の通り、小塚フォントやヒラギノフォントのような、特定の OS・ソフトウェア上での使用に限定された「無料の」商用フォントは、そのフォントを埋め込んだ PDF の取り扱いに関して注意する必要があります。

たとえば、プレゼンテーション用のスライドや、講義用のレジュメを作成するのに TeX / LaTeX を使用している場合を考えてみましょう。高品位な商用フォントを埋め込んだ PDF を作成して、プロジェクタでそのファイルを映し出している分には何も問題はありません。しかし、その手のプレゼンや講義をしていると、大抵の場合、スライドやレジュメが欲しいんだけど……という話になります。そのときに、何も考えずにその PDF をファイル共有サーバで配布したり、 CD や DVD、メモリースティック等に入れて配布したりすると、フォントの著作権条項に抵触する可能性を否定できません。

欧米の場合だと、こういう場合に配布用に使用できるフォントは、TeX / LaTeX ユーザにはおなじみの Computer Modern を筆頭として、選択に困ってしまう位数多く存在するわけですが、日本語の場合はそうはいきません。日本語は文字数が膨大な言語ですから、フォントを作成する、ということは一大事業です(いや、英文フォントだって作成は一大事業なのですが)。日本語の豊富な字数をカバーしたフォントを、埋め込みや二次配布も許可する条件で無料提供する、というのは、極めてレアなケースでしょう。

のフォントを探すと、IPA フォントやその派生物以外の選択肢はほぼない状態でした(現在はこのコンテンツでもふれている源ノ角ゴシック/源ノ明朝、あるいは Noto フォントがあるわけですが)。そこで、以下に IPA フォントに関してその成立過程と現状、使い方に関して簡単に記しておくことにします。

IPA フォントに関する経緯

IPA と IPA フォントの経緯

IPA(独立行政法人情報処理推進機構)は、経済産業省所管の独立行政法人です。もともとは「情報処理振興事業協会」という名前の法人でした。経産省は、この IPA のような法人を数多く従えていて、このような法人を経由して各種研究プロジェクトの予算を管理し、成果を吸い上げているわけです。

IPA は、かつてはかの悪名高き「Σプロジェクト」(参考:Wikipedia のエントリ, 『シグマはどこへ消えた?』)を推進していたことで知られています。200億円以上の研究資金を投入して、結局まともな成果を何も残せなかった、という、稀代の失敗プロジェクトだったわけですが、IPA 自体は存続され、その後も各種情報関連のプロジェクトを統括し、またその成果を(自らの成果として)管理・公開しています。

この IPA が、GRASS GIS という地理情報処理システムの国際版に添付するフォントとして2003年に入札公募を出し、獲得したフォントが現在の IPA フォントです。もともと IPA フォント単体での公開・配布はされていませんでしたが、このフォントがフリーのものとしては極めて高品位、かつ文字数の多いものであったために話題を集め、ついに 2007年に単体での配布が開始されました。

2007年時点での IPA フォントのライセンスでは、フォントの改変は一切認められていませんでしたが、IPA は2008年からライセンスの改定作業受託先を公募し、2009年からオリジナルのオープンソフトウェアライセンスによる公開を開始し、現在に至っています。

誰が IPA フォントを作ったか

IPA フォントは、前述した2003年の競争入札で株式会社タイプバンクが落札・納入したものです。このフォントをデザインしたのは、タイプバンクの創業者で、1994年に亡くなるまで代表取締役であった林隆男氏です。

林氏は1975年にタイプバンクを立ち上げた後、1980年から日立製作所デザイン研究所とビットマップフォントの共同開発を開始しました。日本語ビットマップフォントのパイオニアであった林氏のフォントは、1980年代前半から普及したワードプロセッサ、1980年代後半から普及したプリンタにひろく採用されました。

デジタル時代におけるフォントの重要性を認識されていた林氏は、1988年にはアウトラインフォントの制作に着手、90年代初頭にはその成果が Adobe などを通して世に出ることになりました。

IPA フォントは、林氏が制作した「TB明朝」「TBゴシック」(1993年、アドビシステムズ株式会社からリリース)がベースになっています。

IPA フォントの現状

現在、IPA フォントとして公開されているのは:

の7種です。詳細は IPA の「フォント仕様」を御参照下さい。各書体は固定幅、プロポーショナル (P)、そして「日本語は固定幅、英数字はプロポーショナル (ex)」になっています。

2011年11月に公開が開始された「IPAmj明朝」(プレスリリース)は、住基ネットや戸籍業務に用いることを主目的として開発された、約6万文字を収録した新しいIPAフォントです。将来的にゴシック体もリリースされれば、Adobe の小塚フォント(Adobe-Japan1-6……23058文字…… 対応)を大きく上回る巨大な日本語フォントセットがオープンソースで入手・使用できることになるわけで、今後の動向には注目していく必要があるでしょう。

IPA フォントの問題点

現時点における IPA フォントの問題点をあえて挙げるなら、以下の二点でしょう。

CID 未対応であること

昨今、Unicode に代表されるような膨大なグリフ(字形)数の文字コード体系が一般化するのとともに、膨大なグリフ数に対応した表示を実現するようなフォントが登場しました。たとえば、最新の Adobe Reader に添付されている小塚フォントや、現行の Mac OS X に搭載されているヒラギノフォントは、Adobe-Japan1-5 や Adobe-Japan1-6 という CID に対応しており、20000以上のグリフを扱うことが可能になっています。

これに対して、現行の IPA フォントの収録文字数は約 11000 とされています。全体的な仕様は OpenType で、JIS X 0213:2004(いわゆる JIS2004)に準拠していますが、Adobe-Japan1-5 や Adobe-Japan1-6 のような CID には完全対応していません。

ライセンス上の問題

IPA フォントのライセンス条項を見ると、

第3条 制限

前条により付与された使用許諾は、以下の制限に服します。

1. 派生プログラムが前条4項及び7項に基づき再配布される場合には、以下の全ての条件を満たさなければなりません。

(中略)

(4) 派生プログラムのプログラム名、フォント名またはファイル名として、許諾プログラムが用いているのと同一の名称、またはこれを含む名称を使用してはなりません。

……この条項は「IPA の名でリリースされるフォントは、IPA 以外の何者もリリースできない」ということを意味しています。つまり、フォントに何らかの不具合が見つかったり、改良が行われたりした場合でも、それが取り込まれた IPA フォントは、一元的に IPA のみがリリースし得る、ということを意味しています。

これは決してアンフェアな条項ではないのです。ただし、フォントをアップデートしていくことを考えた場合、その進展を IPA が律速する、ということを、この条項は意味しています。IPA は、このライセンス条項を「オープンソースライセンスとしての国際的な慣習にも整合性を持つ」ものだ、と主張しており、Open Source Initiative (OSI) による「オープンソース定義 (OSD)」に準拠したものとして認証も受けているのですが、オープンソースとしての進歩が IPA 律速である、ということだけは、残念ながら事実です。

問題点への対応

CID 未対応に関して

これに関しては、先に提示した「IPA ex 明朝 / ex ゴシックフォントを埋め込むフォントマップ」を御参照いただきたいのですが、identity-* と書かれた行の行末に /AJ16 というオプションが付けられているのがお分かりかと思います。これは CID を ISO/IEC 10646 (UCS; Universal Multiple-Octet Coded Character Set) によって Unicode に変換するためのオプションなのですが、これを適切に用いることで、CID 未対応による問題が生ずることをある程度回避することができます。

ライセンスの問題に関して

この問題に対処するため、IPA フォントから分岐するかたちで Takao fonts プロジェクトが立ち上がっています。Ubuntu 10.4 以降、Debian GNU/Linux などではシステムパッケージとしてインストールが可能です。

Takao フォントの不具合に関して

ただし、現状の Takao フォントは IPA フォントのかなり初期のバージョンに依拠しているようで、初期の IPA フォントの不具合がそのまま反映されてしまっています。特に知られているのは "§" が入っていない、というものですが、これ以外にも複数の文字で収録漏れがあることが確認されています。詳細は以下リンク先を御参照下さい:

http://d.hatena.ne.jp/hoshimin/20110711
このような問題のフィックスが円滑に行われることこそが、Takao フォントに求められているものなのですが、2010年から、これを書いている2016年春の時点まで、未だフィックスされていないのが現状です。この問題を認識してから、僕は手元の Takao フォントを使用したフォントマップを、全て IPA ex明朝 / exゴシックを参照するように書き直しました。皆さんにも、現状では Takao フォントの使用は推奨できない、と言わざるを得ません。

TeX Live における IPA フォントの現状

2011年11月初頭、ついに IPA フォントが TeX Live にマージされました。先に解説した locate コマンドを使える方は、たとえば:

$ locate ipaexm.ttf
と入力していただくと、IPA ex 明朝フォントのある場所が表示されると思います。僕の手元のシステムでは:
/usr/local/texlive/2016/texmf-dist/fonts/truetype/public/ipaex/
に、IPA 明朝、IPA ゴシック、IPA ex 明朝、そして IPA ex ゴシックの4ファイルが納められています。

これらのフォントを埋め込むためのフォントマップは:

にあります。当初、これらには上述の /AJ16 オプションの設定がなされていませんでしたが、2011年12月以降は適切な設定がなされています。


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