Distribution を用いる上での僕の態度・意見


はじめに

まず、何故僕が Vine のような distribution を使うのか、というと、各 application や library の version control を簡便化するためです。これ以 外の目的はありません。

で、何故 RPM を選択したのか、というと……「適度に slack であるから」と いうことと、「数ある distribution の中でも Vine の policy が僕のそれに 近いから」ということが理由です。

おそらく現在最も厳密に package 管理を行っているのは Debian GNU/Linux でしょう。しかしこの管理体系は僕にとってはあまりに strict 過ぎます。自 作の binary や他人の開発した特殊な用途の library 等を install するのに は、統一的な version control の必要性をあまり感じませんし、package 作 成の手間もあまりかけたくありません。

かと言って、Slackware のように archive をそのまま展開するようなタイプ の package ではちょっと slack 過ぎて、distribution のかなり細かなとこ ろまで把握している必要が生じてきます。僕も Slackware を使用している頃 にはそういう使用法を当たり前のものとして亨受していましたが、複数の端末 を管理するのにこのような状況だと、ちょっと手間とリスクが大きくなり過ぎ るような感じです。

そこで、Debian 程 strict でもなく、Slackware 程 slack でもない RPM が 丁度いい、ということになるわけです。

package をあてにするところとそうでないところ

これも簡単です。頻繁に更新するもの、特に日常の中で重要なものに関しては package に依存しないのが僕のやり方です。

...etc. に関してはそのまま install しています。

……で、このようなやり方に対して批判もあるのですが、僕は Emacs は /usr/local 以下に入っていることに慣れていますし、APEL や SKK は細めに 更新したいし……ということで、これらは package に依存していないわけで す。

package 教に関して

よく、この手の version control system においては全て package で管理し なければ駄目なんだ……と主張される方がおられます。御自分でそういう主張 を貫かれるのは大いに結構なのですけど、それをひとつの美徳というか、権威 であるかのように他人に主張される方がおられるようです。僕はそういう方の ことを package 教信者と呼んでいるのですけど、そんな呼び方をするのは、 そういうやり方が目的と手段を完全に取り違えているように思えてならないか らです。

繰り返しますが、御自分でそういう policy を設定されることには、僕は何も 異論を挿し挟むつもりはありません。それはあくまでひとつの方法論ですから。 しかしそれが多くの中のひとつの選択肢から、唯一絶対の道として主張される ものに変質した瞬間、それは思考の結果たる選択からそこに思考が欠如した一 種の宗教へと変質してしまいます。ましてやそんな硬直した考えを真理として 周囲に広げて、道具が道具として活用できないばかりか、道具に拘束されるこ とすらあり得るという状態に人々を引き込んでしまう……どうかそんなことだ けはなしにして頂きたいと思うのです……


Go back to index
Last modified: Mon Jan 8 21:55:08 JST 2001