風邪をひいた。近くに罹患者が何人かいたので想定し得る事態ではあったけれど、鼻から喉にかけて炎症が広がり、おまけに熱も上がってきた。
こういうときは、僕は耳鼻咽喉科に受診することにしているのだが、家の近所にある耳鼻咽喉科は二軒。片方はアレルギーの専門医でちょっと有名なドクターの医院なのだけど、ここは前にインフルエンザで受診したときにひどいめに遭わされた(持って行ったのにマスクを買わされたし、鼻腔や咽頭をろくに診ようともしないのである)ので、行かないことにしている。もう一軒は、実に良心的な年配のドクターの医院なのだが、ここはここで若干問題があるのである。
受診した僕の鼻と喉を慎重にチェックしたドクターは、
「うん、風邪ですね」
普通、こうくれば抗菌剤と総合感冒薬、あとはムコダイン等の耳鼻咽喉科がよく用いる薬が処方されるところである。しかし、このドクターはちょっと違うのだ。
「いいですか、Thomas さん。風邪は、ウイルス性疾患なんですよ」
「はあ」
「ウイルスに薬は基本的に効きません」
「はあ」
「ですから、今日はうがい薬とトローチだけ出します。これでちょっと頑張ってみましょう。ああそうそう、あと今日は入浴は避けて、早めに休むように」
いや、確かにそれは正論なんですが、せめて総合感冒薬位出してくれませんかね。熱、悪寒、喉の痛み、鼻水はどうしたらいいんですか。
というわけで、今日、知り合いのドクターに PL を処方してもらったのだった。なんだかなあ。
ある村での話。長年村のために尽力している村長さんの永年勤続のお祝いをしよう、という話になって、村人達から、村長に何かプレゼントをしようということになりました。決して裕福ではない村で、あまり高価な記念品を買うこともできそうになく、皆で話し合った結果、ワインを贈ろうということになりました。
村の広場に、空の樽がひとつ置かれました。つまり、皆が家のワインを持ち寄ってこの樽に入れていき、樽が一杯になったら、栓をして、村長にプレゼントすればいいだろう……という考えだったわけです。しばらくして樽は一杯に満たされ、数人の村人がこの樽を村長の家まで運びました。
樽を贈られた日の夜。村長は、早速ワインをいただくことにしました。樽の中身をカップに注ぎ、にこにこしながらそれを口に含んだ次の瞬間、村長が顔をしかめました。彼の口に入っていたのは、ただの水だったのです。
これは、道徳の授業などでも教材にされることのある、よく知られた話である。皆ワインを入れるんだし、自分だけ誤魔化しても大丈夫だろう……村人全員がそう思っていた。その結果として、樽は水で満たされていた、という話である。
所属教会のミサに行く度に、僕はこの話を思い出さずにはおれない。とにかく、この教会の会衆は、祈りの言葉も、聖歌も、悉く自らの意志を以て口にすることがない。だから、統制は取れないし、いつもモヤモヤとした感じで、何を言っているのか判然としない。歌に至っては、ちゃんと声を出して歌っていると奇異の目でみられる程である。
このような状況になってしまう理由は何だろうか。それは簡単な話である。皆唱えるんだから、皆歌うんだから、自分だけがそれを声にしなくとも大丈夫だ……皆がそう思っているからである。しかし、日曜の朝、普通の人が家でブランチでも食べているような時間に、こうやって一堂に会しているのは何の為なのだろうか? この人々は、一体何をしにここに来ているのだろうか?
それは、聖体拝領のときに明らかになる。あれ程主体性をみせず、怠惰であった人々が、聖体拝領のときだけは皆並び、ホスチアを口にするのである。なるほど、彼等にとってミサとはホスチアを食うことで、彼等はホスチアを食いにここに来ているのであろう。そうに違いあるまい。
しかし、そんな人々に聖体の霊性なんてものが本当に齎されるのか? 僕には到底そうは思われない。だから、僕は周囲に奇異の目で見られながらも、祈り、歌い、そして聖体を戴く。周囲の連中がどんなであったとしても、僕は断じて、ホスチアを食いに教会に来ているのではないのだ。彼等に迎合していたら、自分が駄目になってしまう。樽に水を入れるような真似だけは、僕はしたくはないのである。
先日の「えーっと」問題の中学生に、今度はこんなことを聞かれた。
must と have to の違いがよく分かりません。
うーん。普段だったら「自分で調べろ」とか言うところだけど、これに関しては、結構大人でもちゃんと分かっていない人がいるものなあ。ということで、教えたのだけど、その内容をここにも書いておくことにする。
まず、must と have to の話、というと、英語を使う人にこんなことを言われそうな気がする:
いや、今日日 must なんて使わないでしょう。
うーん。そうかなあ。まあ確かに、現代英語、特に会話においては、義務に関して言うときにはほとんどの場合 have to を使うだろう。しかし、だからといって must が不要だというのは、これはあまりに暴論に過ぎる。
まず、ここにはっきり書いておかなければならないけれど、must は have to の古い表現、ではない。これは以下の文例を考えたらすぐに分かるだろう:
- You have to study English hard.
- You don't have to study English hard.
- You must not study English hard.
最初の英文は、「あなたは英語を懸命に学ばなければならない」という意味である。いわゆる「義務」を表す文というやつだ。しかし、義務(……しなければならない)というのは、実は結構厄介な代物である。そのままのときはまだいいのだけど、これを否定しようとすると、実は義務の否定には2種類あることに気付くわけだ。つまり、「……しなければならない」の否定は:
- ……しなければならない、というわけではない
- ……してはならない
の2つが存在するのである。
英語の場合、この2者の区別は明確だ。「……しなければならない、というわけではない」が don't have to ... で、「……してはならない」は must not ... なのである。すなわち、最初の例では:
- You have to study English hard.(あなたは英語を懸命に学ばなければならない)
- You don't have to study English hard.(あなたは英語を懸命に学ばなくともよい)
- You must not study English hard.(あなたは英語を懸命に学んではならない)
となるのである。2. と 3. が全く違う意味なのに関しては、多くを書く必要もないだろう。
では、肯定文では must と have to は同じ意味になるのだろうか、というと、実はこれも微妙に異なる。つまり、
- You have to study English.
- You must study English.
のニュアンスは微妙に違うのだ。
たとえば、この話の you の英語の成績が悪かったとする。この場合、彼もしくは彼女が「英語を勉強しなければならない」ということは、誰から見てもその必要・義務があると思われるものだ。このような客観的な必要・義務を表すときには have toを使う。
また、客観的な必要・義務ということは、それが客観的でないと思われるのならば従う必要がない、つまり拒否権があるということである。だから、have to を使う方が表現としてはややマイルドな感じになる。
では、彼もしくは彼女の英語の成績が非常に良く、周囲からは「この子は英語が無茶苦茶できる」と思われているけれど、僕から見て、彼もしくは彼女の英語が僕の満足するレベルに達していない、とする。この場合、僕が彼もしくは彼女に「英語を勉強しなければならない」と言うということは、客観的に言う必要があるのではなく、僕の主観でそう言うわけだ。このような主観的な必要・義務を表すときには、have to ではなく must を使う。
主観的な必要・義務というのは、他に比較するようなものがあるわけではないから、これを言われた相手が判断したり拒否したりする権利を認めない、つまり非常に強い強制のニュアンスを持つことになる。だから、相手に義務を負わせ、ときには服従を強いる命令・勧告として must は使われるのだ。
他にも、must は過去形がなく、また助動詞なので will と共に使えないので、must は現在形でしか使えないのに対し、have to は現在・過去・未来のいずれの場合も(完了形ですら)使うことができる。まあ、こういったことが must と have to の違いということになるわけだ。
しかしなあ……これを説明するのは一苦労だよなあ。どうしたものだか。
昨夜、所用で某所に赴いたときのこと。
そこは構内が土足禁止なので、入口で上履きに履き替えることになっている。僕はいつも、そこにある上履きで目についたものを履くことにしていた。そうして下さい、と言われてそうしていたわけだが、今回に限って、いつも履いている上履きが見当たらない。下駄箱を見ると、小さなクロックスが何足かあったので、その中の一足を「窮屈だなあ」と思いながらも履いて、中に入った。
しばらくして、入口の方で何やら人の話す声が聞こえる。よく聞いてみると、
「……がない」
と言っているように聞こえる。ん……もしや、と思い行ってみると、
「アタシの上履きがない!」
と訴える女性と、あれーおかしいねえ何処にあるんだろう、と辺りを探している数人の人がそこにいたわけだ。
「あのー、ひょっとして……これのこと?」
と、おずおずと足を示すと、あー、それー! と声が上がる。どうやら犯人は僕だったらしい。参ったなあ。
当然だが、まずその女性に事情を話し「ごめんなさい」と言う。それから、下駄箱の奥の方に押し込まれていたいつもの上履きを発見したので、それを履き、小さなクロックスを揃えて彼女の前に置いた。
こういうときは、関西に長く住んでいた者としては、ただ置くだけでは済まされない、と思うものである。関西エリアにおいて、笑いというものは、こういうときに人間関係がギスギスしないで済むための一種の安全装置なのであって、場の緊張を解す一言というのが、暗黙のうちに求められるものなのである。だから僕も、当然、何と言おうかなあ、と考え、
「……温めておきましたので」
と言ってみたわけだ。しかし、次の瞬間、そこにいた僕以外の全員が爆笑したのである。
うーん。オヤジギャグだと厭がられるのを警戒していたのだが、そういうことにはならずに済んだらしい。しかし、
「いや Thomas さん面白過ぎだわ」
……そ、そうかなぁ。うーむ、僕ってひょっとしておかしいのかなあ。