手抜きで旨い料理を食べるコツ

以前、毎日何を食べているか、という話になったときに「Thomas さんはグルメだ」みたいなことを言われることがよくあった。実のところ、グルメとかグルマンとか呼ばれるのは非常に厭だし、不本意に思うのだけど、金をかけないなりに旨いものを食べているのは確かかもしれない。

金をかけずに旨いものを食べるには、まず自炊することである。そして、自炊で使う調味料をケチらない、ということである。僕の場合、料理に使う調味料は、

  • 塩:海水塩と岩塩
  • 胡椒:ホールをその場で挽いて使う(このためにプジョーのミルを買った)
  • 酒:料理用の清酒(料理酒ではない)
  • 味醂:醸造用アルコールを使っていない純米味醂
  • 酢:醸造用アルコールを使っていない純米酢
  • 醤油:(油の絞りカスでない)大豆、麦麹と塩だけで作っている(醸造用アルコールを使っていない)もの
を使うことに決めている。ダシは少々手抜きをしているのだけど、理研ビタミンの素材力シリーズと、玉露園のこんぶだしを使うことが多い。勿論、ちゃんとした鰹だしや昆布だしが必要なときはちゃんととるのだが、これらを揃えておくと、まず、市販のめんつゆなどを買う必要が一切なくなる。かえしとだしがあればそんなものはすぐ作れるし、作ったばかりのかえしと理研ビタミンの鰹だしで使ったとしても、市販のめんつゆなんか使う気になれない位のつゆは簡単に作れる。

味噌は長崎出身の U の好みで麦味噌を使うことが多いのだけど、あわせ味噌でもいいから、これも穀物と麹と塩だけで作ったものを確保しておく。そうすれば、たとえば酢味噌が必要になったとしても、その場ですぐに作ればいいだけの話である。ちなみに僕は S&B の缶入り粉辛子を常備しているので、たとえば今夜食べる予定のホタルイカには、辛子を練って数分、そして味噌・酢・砂糖を量り取って合わせて、はい、準備完了である。

カレーを作るときはカレー粉を使う。カレールーというものをそもそも買ったことがない。別にそんなに珍しいスパイスを使うわけではなくて……とか書きかけたけど、そうでもないのかな? S&B の赤缶カレー粉インデアン食品のカレー粉、あとは S&B の出している FAUCHON のガラムマサラに、ホールのクミン、クローブ、カルダモン等を、ホールと粉に挽いたものを両方合わせて使っている。カルダモンを挽いてカレーに使うのは珍しい(普通はホールで油に香りを移して使われる)かもしれないけれど、これを入れると胸焼けすることがないので僕には欠かせない。

あとは……ハーブ。ローズマリー、タイム、セージ、バジル、イタリアンパセリ、ミントは栽培していて、いつもこれを使っている。それ位か。こう書くと贅沢だと思われるかもしれないけれど、ベランダで植木鉢やプランターでナンボでも栽培できるものなので、これを読んで興味を持たれた方は是非栽培してみていただきたい。

後は、極々普通の食材なのである。見切り品も見逃さず利用している。何も贅沢なことはしていない。手抜きで旨い料理を食べるのには、手抜き出来ないところがどこなのか、ちゃんと注意するだけのことなのだけど。

げさっか

U の実家に行ったとき、父上が時々この言葉を口にしていた(誤解なきように書き添えるが僕に向けてではない)。九州の多くの地域で通じる方言らしい。僕は語感から何となく分かったのだが、この言葉は漢字で書くと「下策か」と書く。なるほど、実に伝わりやすいニュアンスである。

プロフィールにも書いてある通り、僕は九州の出身ではない。しかし、今住んでいる辺りでは、しばしばこの「げさっか」という言葉を呟きたくなるときがある。この地で生まれ育っている人達が皆悪者というわけでもないし、この辺りが皆駄目な土地柄だというわけでもないのだけど、この辺りの方がもしもお読みなら、苦言として受け取っていただけると幸いである。

昔、こんなテレビコマーシャルがあった:
タクトを振っているのは、最近の方はあまりご存知ないかもしれないけれど、山本直純という方である。「大きいことはいいことだ」というこのフレーズは、戦後の高度経済成長期を代表するものとしてよく知られている(いた? 最近の世間がどうなのかなんて知らんのだけどね)ものだけど、どうも僕の住む辺りは、これを未だに引きずっているようなところがある。地元ローカルのテレビ番組(僕は滅多に観ない……けれど予告編とかは目に入ることがあるわけだ)などで、ネタが尽きたときなのだろうか、すぐこの手の「大きいことはいいことだ」的なグルメ企画が流されるのである。

グルメ企画が乱発されることは全国的風潮かもしれない。そりゃあ、制作費を安く抑えられるし、人間の欲求に、これ程までに強くアピールするものはない。まあ、キャッチーで、受け手の教養も何も求めない、という点では、ポルノグラフィと同じ位に「使える」テーマなのだろう。しかし、ことこの地においては、「甚だしい」ことがとにかく賛美されるのである。

上述のような企画の煽り文句として、外されることのまずないキーワードが「デラうま」「テラ盛り」である。「デラ」は、この地方の人に聞くと、deluxe に由来するものだ、とか言われることがあるけれど、それは嘘だろう。どう考えても「どえりゃあ」「でぇらぁ」という方言の方が先に存在しているのだから。おそらく「テラ盛り」というのも、もともと「デカ盛り」とか「デラ盛り」だったものが、tera(1012を意味する接頭辞)という言葉を聞き知った誰かが「テラ盛り」と言い始めたのだろう。

僕はこの手の「甚だしい量」をあれ程有り難がる人々が存在する、ということが、どうにも理解できないのだ。何故って、人の胃袋というものは、多少拡張するとは言え、その容積に限界があるものなのに、食事という一連の行為を甚だしく逸脱した量の料理が出されて、何が有り難いのか……その分「質」に投入することの方が、どう考えても贅沢というものだと思うのだけど、この辺の人にはそれが理解できないらしい。

これに対する責めは、メディア側は巧妙に回避している。要するに、これらの言葉は多くの場合、「B 級」という言葉と共に使用されるのである。B 級という言葉で、まず、質と量の質の方を頭打ちにしておいてから、じゃあアピールすべきは量に決まってますよね、ほら!……と、愚かなる受け手の思考を停止させてから情報を浴びせるわけだ。こんな稚拙なことで思考が停止してしまうのか、と不思議に思うのだけど、この手の企画が一向に廃れないという事実こそが、この戦略が成功している何よりの証明である。

それにしても、つくづく僕には不思議に思える。名古屋はもともと城下町である。僕が知る限り、城下町の文化というのは、たとえ金沢などのように贅沢であったとしても、それが下品にならないような慎しさ、というか、程、というか、そういうものが暗に要求されるもののはずなのだ。城下町の佇まい、とか、武家様式の町、とか言われるものは、そういう「程」の統制によって醸成されるはずなのだ。しかし、名古屋で僕がそういう雰囲気を感じることは、皆無ではないけれど、かなり少ない。水戸という、城下町における質素な武家気質の極みたい(だったのですよ、僕の居た頃はね)な町で生まれ育った自分のことを割り引いても、やはりこれは非常に奇妙なことである。

先のテレビコマーシャルと、トヨタの存在とを、このような状況に重ねてみると、この辺りの人は、高度経済成長期の幻想に、未だにどっぷりと浸っているのではないか、と勘繰りたくもなるというものだ。もはや、日本も世界も、そんな幻想に浸っている余裕すらない状況だというのに、今日もまた、テレビでは、高さ何十センチのパフェが、とか、こーんな大きいエビフライが、ほら三匹(三尾とは言ってなかったなあ)も! とかやり続けている。もう本当、免許制の公共性の高い放送事業で、電波資源をこんなことに使い潰すのは、一刻も早くやめていただきたいのだけど。

茄子の鴫焼き

まあ僕は普通に料理をするわけだけど、母や祖母から教わった料理、というのが、実はあまり多くない。料理における基本的な技術というのは、実家に居る頃に習得したのだと思うのだけど、実際にレシピを覚えて自分でいじって……とかいうことをするようになったのは、一人で暮らすようになってからのことだ。

その数少ない、母や祖母が作っていて僕も作る料理のひとつが、この茄子の鴫焼きである。子供の頃から「しぎやき」「しぎやき」という言葉だけ聞いてきて、「しぎ」が鳥の鴫のことだと気付いたのは、おそらく中学生位の頃だったのではないか。大阪で、後に中京地区で暮らすようになって、ふとその語感を思い出し、懐かしくなって作るようになったのだった。

茄子という食材の特徴は、今更ここに書くまでもないことだけど、

  • 水分が多い
  • 油を吸収しやすい
ということである。茄子自体は非常に淡白な食材なのだけど、この特性を活かして油や味を含ませると、強い満足感を得る料理に仕立てることができる。

鴫焼きのルーツは、16世紀頃まで遡ることができるらしい。当時は「鴫壺焼」という、茄子のヘタを落として中をくりぬき、そこに鴫の肉を詰めて酒と共に煎り煮のようにしたものに、塩をつけて食べる……というようなものだったらしい。それが江戸時代に入ると、鴫の肉を使わずに、茄子を山椒味噌で田楽のようにしたものを鴫焼きと称することになった。では、現在の鴫焼きはどういうものなのか。

僕の母の作り方を思い出しながら、今日も鴫焼きを作ったところである。それをここに書いておくことにしよう。

用意するのは茄子、豚肉(バラスライスを細かく刻むか、豚挽肉を使うといいだろう……勿論合挽きでも出来るけれど)、青みが欲しい方は獅子唐かピーマン。炒めるので油(胡麻油をお薦めする)、あと調味料は、砂糖、味噌(一般的な合わせ味噌で構わない……僕は麦味噌で作ることもあるが、このときは砂糖を控えめにするとよい)、醤油である。一応目安の量(二人分)を書くと、

  • 茄子(一般に売られている長茄子がいいだろう):2〜3本
  • 肉:100グラム前後
  • 青み:ピーマンなら2個位?まあ茄子と比較して極端に多過ぎない程度で
  • 砂糖:大2
  • 味噌:大2〜3
  • 醤油:味噌の味に合わせて加減する(小1 1/2〜大1位か)

作り方は簡単である。油をフライパンに熱したところに肉を入れ、赤身がなくなって油が滲み始めるまでよく炒める。ここに茄子(僕は長さ3センチ位の拍子木状に切る)を入れて炒め、茄子の表面に油が回るまで軽く炒める。青みを入れるならここで少し時間差をつけて入れるといい。

油が回ったら、まず砂糖だけを入れ、フライパンを煽って全体になじませる。テカーっとした光沢が出てきたところで味噌を入れ、火を中火にして全体に馴染ませながら炒め続ける。味噌が全体に馴染んだら醤油を加え、茄子に完全に火が通り、透き通った感じになれば出来上がりである。

祖母は甘味を強くしていた(ひょっとしたら僕に合わせてくれていたのかもしれないが)。母は砂糖は少し控えて、大人味にしていた。注意しなければならないのは、肉に完全に火を通してから茄子を入れること。もし酒や味醂を使いたいなら、茄子がそれを直接吸わないように工夫すること(強火にしてから入れる必要があると思う)。先にも書いたように茄子は味を含み易いので、肉の臭いや生のアルコールを含ませないようにしなければならない。

まあこんな感じで、5月の夕食が、今夜も始まろうとしているのであった。

つくばの竜巻に関して

各方面に連絡がついたので、ようやくこの話をここに書くことができる。

僕は茨城県水戸市で生まれ育ったわけだけど、親戚は茨城周辺の各地に散らばっている。茨城県と栃木県の境にある栃木県茂木町、茨城県常陸大宮市(旧御前山村)、つくば市、筑西市(旧下館市)、そして埼玉県桶川市……あと、あの震災で本当にひどいめに遭わされた福島県相馬市。母が10人兄弟という実家の出なので、まああちらこちらに親戚がいるわけだが、茨城も、福島や栃木も、もともと自然が豊かで食いものも旨く、気候もいい場所で、自然災害でどうのこうの、ということはあまりなかったのだ……去年までは。

先の東日本大震災では、本当に精神的に参った。そもそも僕自身、幼少の頃に、ビルの7階に居たときに宮城県沖地震に遭い、大学院時代には大阪北部を東西に走る巨大な活断層のすぐ横で阪神淡路大震災に遭った経験があるわけで、地震だけでも、まあ酷いものを何度も目前に見てきたわけだ。隣の学科の教授は圧死し、後輩は家が全壊でしばらく研究室に住み込んでいたり……僕の家は、ガスと水道が止まった位で済んだけれど、家の前は京都・大阪・兵庫をつなぐ国道171号線である。まあ、あの光景は一生忘れられそうにない。

そんなわけで、先の東日本大震災では、本当に参ったのだった。なにせ今度は、親戚が住んでいる相馬市が手ひどい打撃を受けている。僕の父も、当時水戸の駅前のビルに居て、停電した室内に閉じ込められたりしていたし、親戚まで範囲を広げれば、僕も決して今回の震災には無縁ではないということになる。

その震災から1年と少しが経過して、まさか今度は竜巻が来るとは思っていなかった。しかも今回発生した竜巻は3つあって、それらは栃木県茂木町、茨城県常陸大宮市、つくば市、筑西市を直撃しているのだ。仕事柄、つくば在住の知人はたくさんいるわけだけど、今回被害を被った地域は、そことは少しずれているので、彼らの心配は(停電の問題はあったけれど)あまりしていなかった。むしろ問題なのは、僕の親戚が住んでいる辺りに、今回の地域が近かったこと。それに加えて、ご丁寧(?)にも、桶川では落雷、水戸には直径3センチの雹、である。

水戸でも激しい雷があって、母の携帯電話がこれのためか不調だったとのことで、母にもなかなか連絡がつかなかった。母は定期的につくば市に行く生活をしているので、やられている可能性は決して皆無ではない。幸い母は無事で、僕の方から連絡がつかなかった間に、あちこちの親戚に連絡をとって、皆幸いにも被害がなかったことを確認してくれていたが、母との連絡がつかない何時間かの間、僕は正直、気が気ではなかった。

まあ、そんなわけで、つくばの竜巻に関して、僕は決して傍観者でも何でもないし、親戚のすぐ近くでは、畑が蹂躙された人、窓や屋根を持っていかれた人、そして当然怪我をした人もいて、それは他人事ではないのである。危機はすぐ近くにあって、うちの親戚が無傷だったのは、たまたまそうだった、というだけの話なのだから。彼の地は、そしてそこに暮らす人々は、確実に傷付いたのである。そして、家をモルタルの土台ごと引っくり返された中学生が一人、命を落とした。これだって、すぐそこにあった話なのである。

最近、自分達はあの地震を「体験」したんだ、という深い実感に浸ってのことなのか、僕の言い、書くことに対して妙な噛み付き方をされることがあるのだけど、はっきり言わせていただこう。阪神のとき、活断層のすぐ横で感じた揺れは、とてもじゃないがそんなもんじゃなかった(当時は今と震度基準も、判定法も、地震計の設置間隔も違うから、数字として今見たら大したことがないと思われるのかもしれないが)。農家のボロい納屋の二階の一室で寝起きしていた僕は、あのとき住処が倒壊する危険が十分にあったわけで(実際、泥と漆喰で塗られた壁には大きな亀裂が入っていたなあ……)、今こうしていられるのも、すぐそこにあった危機が、たまたま僕をかすめる程度の位置を通っていった、というだけのことである。

しかもあのとき、信じられない程の振動の中、辛うじてベッドにしがみついていた僕の目に入っていたのは、東京から衛星回線で配信される朝のニュース番組で、そこに映されていたのは、揺れも何もない、いつも通りの映像だったのだ。「ああ、他人事ってこういうことなんだなあ」と、ベッドに両手両足でしがみついていた僕は、そのとき自分が遭っている現実から乖離したかのような、妙なおかしさを感じたものだった。あの頃から20年近くが経過し、当時からは想像も付かない程に耐震・免震が考慮された建物の多いエリアで「安全に」感じたことを以て、他人の言動に何事か物申そうなぞ、僕にしたらちゃんちゃらおかしいのである。

俯瞰し、理解したつもりでいるあなたの知らないことは、あの下に山のように存在している。そして、あの震災のときも、今回の竜巻でも、僕の血縁者多数を含む近しい人達が、そこに晒されているのだ(震災に関しては現在もなお続いている……本当に、ひどい話だとしか言い様がないけれど)。そして彼らの感じた恐怖も、苦しみも、被った痛みも、僕が共に負うているものなのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

New Entries

Comment

Categories

Archives(902)

Link

Search

Free

e-mail address:
e-mail address