無原罪の御宿り

例の原稿の校正をやっているのだけど、ケン・スミスの本の記述に間違いを何箇所か発見してしまったので、その箇所のリストアップとチェックも並行して行っている。原著が手元に来るのを待っているのだけど、イギリスの古本屋からまだ送られてこない。あと一週間近くかかる可能性があるのだけど、ケン・スミスのミスなのか、山形浩生氏の間違い(って、あの山形氏がそうそう間違うとも思えないんだよな)なのか、未だ見極めができない状態だ。

そんな間違いのひとつっぽいんだけど、このケン・スミスの本には、いわゆる「無原罪の宿り」(神の子キリストの母であるマリアは、生まれながらに原罪から解放された存在であるとする見方で、カトリック特有のもの)はクレアヴォーの聖ベルナールがでっちあげたものだ、と書いてある……うーん。僕の知る限り、この考え方は後期スコラ派のヨハネス・ドゥンス・スコトゥスがはじめて大々的に主張し始めたもの(公式には、1854年12月8日の教皇ピウス9世の回勅において、はじめて信仰箇条(キリスト者が信じるべき教え)として宣言された)のはずなんだが……と、調べてみると、やはりどの文献にもそう書いてある。しかもベルナールって反スコラ派なんだよな。

あーちなみに書き添えておきますけれど、こういうことはあくまで余技であって、信仰の本質的な部分とはあまり関係ありません。僕も、自分で書きもので必要になったから色々文献を漁っているだけでね。

a man with no principle

標記の語は、意訳するならば「哲学のない人」ということになるだろうか。先日読んでいたある本に、何故日本が海外でバッシングされるのか、という話が載っていて、その中にこんな言葉が出てきたのだった。曰く、日本の企業は上に行けば行く程、a man with no principle ばかりになってしまって、時流に阿ることばかりに終始して、一貫した主張というものがない。そういう企業や企業人と、哲学を持つ者同士の契約というかたちでの信頼関係を結ぶ欧米人が、信頼関係を結べるはずがないのだ、だからバッシングされるのだ、と。


僕はいつでも「じゃあお前はどうなんだ」と問いを向けられるところにしか身を置いたことがないし、仕事以外においても、自分にしかできないことをしたくて、音楽を作ったりものを書いたりしてきたので、「哲学のない人」というのが、どうにもピンとこない。ただ一つだけ言えるのは、確かに周囲にそんな人はいて、自分の信条や思想を以てものを言うということがない人々であって、そういう人々の言うことはうつろうばかりで信用できない、ということだ。なるほど、ということは、僕は日本人的じゃない、ということなのか?


でも、昔の日本人、たとえば明治維新以降に国のために欧米に出ていった人々なんてのは、皆何かしら信条というか、志というか、そういうものを持っていたんだと思うから、そうなると、今の the men with no principle というのは、決して日本に普遍的な存在だというわけではないのだろう。


まあ、その分布に関しては別にしても、「哲学のない人」というのは、互いの責任を担保してロジカルに意見を交わしたり、その結果を共有したり、ということは、とてもじゃないができそうにない。つまり、コミュニケーションや相互理解というものが持てないということで、これは(非常に差別的な書き方だけど)愚者を相手に法を説くようなものなわけだ。ああそうだ、お釈迦様がこう仰ったって話があったよな:「人を見て法を説け」なるほど。大昔から人は全く進歩していないものらしいや。

『捏造された聖書』読了

この邦題は、ちょっといかがなものか、と思うのだけど、この本の原題は "Misquoting Jesus --- The Story Behind Who Changed the Bible and Why---"(『イエスの誤引用――聖書を改変した人とその理由の背後にある物語――』というところか)である。新約聖書本文批評学の世界的権威であるバート・D・アーマン ノース・キャロライナ大学宗教学部長の書いたこの本は、彼の専門である新約聖書の「本文批評学」(多数の写本や引用をもとに、そのオリジナルの記述を求める文献学の分野)的分析に関して、実に明解に解説している本だった。

なにより興味深いのが、このアーマン氏が、子供の頃からの、いわば筋金入りのボーン・アゲインのプロテスタント(宗教的生まれ変わり、つまり「回心」を経験して、聖書の無謬性をバックボーンとした信仰をもつプロテスタント)だということである。聖書の無謬性を信じてこの道に入ったアーマン氏は、やがて自らの「第二の回心」とでもいうような境地に至った……聖書は数え切れない程の改変を経ている文書であって、オリジナルの文書が書き下ろされたそのときを含めて、記者の宗教的な思いが投影された文書として存在しているのだ、と。このことからも明らかなように、この本はいわゆる聖書根本主義者などにあるような聖書の都合良い解釈と対局にあるような、実践的な聖書の文献学的考察を示している。

やがてこのアーマン氏は、自分が不可知論者であり、世間で信仰されているような神を信じえない……との境地に至る。その心境を書いた『破綻した神キリスト』(これも邦題がなあ……原題は "God's Problem --- How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question - Why We Suffer---"(『神の問題――いかにして聖書は私たちの一番重要な問い「何故我々は苦しむか」に答えそこねるのか――』というところか)も手元に来たので、これも読み進める予定。え、お前はどうだって?まあ僕はトマスですからねえ。この問いは子供の頃から僕の中にはあったし、僕は不可知論者という程ではないけれど、「神様はそう簡単には助けてくれない」し、「神様は助け方を僕らの恣意に沿ってデザインしてくれるわけではない」と思っているのでね。まあ、それを自らに向けているからこそ、カトリックでい続けられるんでしょうね。

そう言えば、『誰も教えて……』とか、今回の『捏造された……』とかに言及すると、決まって然り顔で、

「その本は信仰の躓きを生みます」

とか言う輩がいたりするんだけど、そんなもの位で躓いてしまう位なら棄教してしまえ!と思うのをぐっと堪えて、

「お聞きしますが、あなたは読まれましたか?」

と聞き返すと、

「読みましたが、読むに足る本ではありませんでした」

とか、しれーっと言ったりするんだよなあ。ズバリ、アンタ読んでないだろうゴルァと聞いてみると、行頭だけ読み齧っているだけか、ひどいのになるとタイトル知ってるだけだったりするわけだ。本当に、そういう下らない奴等と一緒にはされたくない。

『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳引用集、完成

『誰も教えてくれない聖書の読み方』(ケン・スミス 著、 山形浩生 訳、 晶文社、 2001年)という本がある。聖書の中に実は存在している、我々の日常感覚からしたらあまりにトンデモな記述を辛辣、かつ痛快に指摘している本だけど、この本の訳で山形氏が使った聖書が、現行の新共同訳ではなく、日本聖書協会の口語訳・文語訳聖書なので、前々から、なんとかこの引用をすべて新共同訳聖書でできないものか、と考えていた。しかし、膨大なドキュメントを手で入力するのはあんまりだなぁ、と二の足を踏んでいたのだ。

そんなところに、「eBible Japan」「DT Works クラウド型聖書検索」という2種類の電子化聖書検索サイトを発見した。日本聖書協会は財団法人なので、新共同訳の文書も public domain なのではないか、と思っていたら、どうもやはりそうだったらしい。で、ようやく重い腰をあげて、ケン・スミスの本の引用元をすべて新共同訳でフォローした XML document を書き始めた。誰かが既にやっているに違いない、と思いつつ、聖書でいちいち確認しながらのコピペにうんざりしながらも、ちょこちょこ暇をみつけては作業を継続した結果、今日、ようやく最後まで引用元をフォローしおおせた。

この労苦を簡単に public domain で公開するほど僕は犠牲的精神にあふれてはいないので、このアーカイブをどうするかは目下考え中である。もちろん、不用意に公開などしていないので念のため。まあ、何かのかたちで皆さんに公開することもあるかもしれない。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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