サンデー毎日と私

もうそろそろ、大学入試の発表やら何やらで騒がしいシーズンである。この季節になると、自分の受験のときのゴタゴタを思い出す。その話と切っても切れないのが、実は『サンデー毎日』である。

一浪して、僕は志望校を阪大に変更した。前期は工学部の応用精密化学科(かつての石油化学科)を受験したのだが、このときは絶え難い腹痛で、脂汗を流しながらの受験で、なんと落ちてしまったのだった。後期は材料系に出願していたのだが、倍率はなんと5倍以上。いやー、なかなかに冷や汗ものの状況だったのだ。

受験科目は数学と英語だけ。しかも、なかなかにトリッキーな問題が出題された。数列と整数論を絡めた問題が出て、ちゃんと解けないと、初項1、公比1の、いわゆる trivial な解しか出てこない。試験後にもう一泊する予定のホテルに戻る阪急千里線の車中で、「あれ初項1、公比1やなあ」という会話を聞いて、バーカ、とか思っていたのを今でも鮮明に覚えている。

まあ、手応えは十分にあったのだ。しかし、なにせ倍率は5倍である。前期に合格して受験しない人が少なからずいるとはいえ、なかなかにエグい入試であることには変わりがない。学生部からの封筒を手にしたとき、僕の手は震えていた。

この時代には、当然だけどネットで発表なんてのはないわけで、各受験者のところに学生部から電子郵便なるものが送られてくる。封筒の中には受験番号を列記した紙が入っていて、その中から自分の受験番号を探すわけである。封筒には識別のためなのか、必ず受験番号が印字されている。そのことを前期のときに見て知っていたので、僕は封筒の番号を頼りに、列記された番号を見始めた。

自分の番号のひとつ前まで番号を辿る。その横に目をやると……数人分番号が飛んでいる。落ちたのか? ……冷や汗が流れた。二浪なんてできるとは思えない。全身が戦慄くのを抑えながら、職場の母に電話をし、新聞を見始めた。たしか、二次募集を行う大学の一覧が掲載されていたはずだ。東京理科大から、直に電話で、理学部の応物に入りませんか、と言われていたのだが、私立の理系に進学するだけの資力を親に求めることは到底できない。

……と、そのとき。電話が鳴ったのだった。

「もしもし、こちらはサンデー毎日編集部です。Thomas さんは御在宅ですか」
「……私ですが」
「Thomas さん、この度は、大阪大学に合格おめでとうございます。私共では、合格者氏名の掲載を行っているのですが……」

おそらく、もう何十人にも同じ電話をしているのだろう。淀みなく話してくるのをさえぎって、

「落ちました」
「は?」
「……落ちました」
「はい?いえ、そんなことはないはずなんですが、あの……」

と話しているのも構わずに、電話を切った。

しかし、不合格者の連絡先なんて、わざわざ入手するとも思えないし……うーん、何かおかしい。うーん……僕は手元の封筒をもう一度見た。そもそも、何故封筒の番号なんか見ていたのか、というと、当時僕が知人の家の一室を勉強部屋として借りていて、そこに受験票を置いたまま、実家で電子郵便を受け取っていたからなのだが……待てよ……いや、でもそんなことは……でも……

僕は家を飛び出して、勉強部屋まで走った。部屋の片隅に置いた受験票を手にして、走って実家に帰り、まずは封筒の番号と受験票の番号を見比べてみる……前期には受験番号がそのまま書かれていたのに、後期の封筒には、受験番号のひとつ後の番号が書かれているではないか。ということは……震える上に汗で濡れた手で、合格者の番号一覧を引っ張り出して確認すると……あ、あった! なんてことだ。こんなことがあるのか。でも、今度は受験票の番号なんだから、もう間違いはない。受かっていたのか……

脱力して数分が経ち、まずはのろのろと母のところに電話を入れた。いや、怒られましたよ。まあでも、これで母に心配をかけるのも、ひとまずはここまでで済んだ。はあ……と再び脱力しているところに、また電話が鳴った。

「あのー、Thomas さんのお宅でしょうか」
「はい」
「こちら、サンデー毎日編集部と申しますが、あのー、Thomas さん、やはり合格されているんじゃあ……」

僕は平謝りして、ちゃんと合格していたことを話した。先方は笑って、いやー私もびっくりしました、でもおめでとうございます……掲載して良いかどうかの確認の電話だったわけだが、この状況で OK しない筈がない。快く承諾して、電話を切ったのだった。

実家の居間の絨毯に仰向けになって、しばし脱力しながら考えた……ということは、俺と逆のめに遭っている奴がいるのかもしれない。なにせそいつにしたら、封筒に書かれた番号が中の紙にも書かれているのに、実は受験票の番号は書かれていないわけだから、これは堪らないだろう。いやいや、他人の心配するゆとりを出す前に、俺ももう少しちゃんとしなければな。お騒がせ野郎ってのは、この俺のことを言うんだろうに。

清原逮捕の報に触れ

西部・巨人・オリックスで活躍した元野球選手の清原氏が覚せい剤所持の疑いで逮捕された。現在尿検査などが行われており。検出され次第、使用の方でも再逮捕されることだろう。

僕は、ここで捕まったことは彼にとって本当に良かったのだと思う。これまでも何度かここで書いている通り、覚せい剤はいわゆる recreational drug としては最も厄介なもののひとつだからだ。詳細は『『なぜ覚せい剤を使ってはいけないのか』再掲』を御一読いただきたい。

こういうことを書くと、必ずと言っていい程に、粘着的に書き込んでくる輩がいるのだけど、上記リンクに書いたことを主観を排して論拠を示して反論できる人がいるのなら、お目にかかりたいものである。あの中島らもをして、覚せい剤は認め難いと言わしめた、そういう代物なのだ。とにかく、清原氏は、ここで生き方を変えなければならない。それはひとつのチャンスでもある。罪を犯してチャンスが与えられるなんて、幸運だと思わなければならぬ。

再び、哀しい聖体拝領

前から書いているように、僕は日曜の朝のミサに行っていない。それは、僕の所属教会が司教座教会であるために、周辺のあちらこちらから人が集まってくるためなのか、嫌な思いをさせられることが多いからなのだけど、一応主日のミサというのは土曜の夜から始まるものなので、土曜の夜のミサに代わりに行っているわけだ。

で、昨日のミサ、聖体拝領のときのこと。僕は大抵前の方に居るので早めにいただくことになるわけだが、自分の席に戻って、短い祈りをした後に、拝領する信者の列に目をやっていた。前にも書いた通り、洗礼を受けていないのに聖体拝領に与ろうという不心得者がいるからである。

この手の話を書くと、こういうことを言われることがある:

どうせ洗礼を受けていない人にとってはただのウェハースなんでしょう?食べるにまかせておけばいいんじゃないんですか?
それは傲慢というものである。洗礼を受けていない人にとってそうであっても、信徒にとっては、聖化されたホスチアはキリストのからだなのだ。それをないがしろにするのは、たとえば仏教だったら、寺の仏舎利塔をあばいて、「どうせただの灰なんでしょう?」と中身をないがしろにする、とか、神道だったら、神社の神体を取り出してきて「たかが磨いた金属板でしょ?」とないがしろにするのと同じことなのだ。これは断じて許し難い蛮行なのだ。

さて、その聖体拝領の列を見ていると、大学生位と思しき女性が、司祭の前できょときょとしている。ん……と見ていると、横に居た年配の女性信者が確認を取り、その女性は司祭に祝福を受けていた。ほっとしたところに、その後ろにいた家族連れらしい4人連れが司祭の前にやってきた。父親、母親、息子が二人。息子はいずれも小学校低学年位だろうか。見ていると、先頭にいた少年が、司祭からホスチアを貰ったのである。

これは明らかにおかしなことである。カトリックでは、幼児洗礼を受けた信者の場合、だいたい10歳位になると、要理教育を受けてから初聖体を受ける。つまり、この少年の歳の頃では、まだ初聖体前である可能性が高いのだ。おかしいなあ……と思って見ていると、もう一人の少年の番になった。この少年は、明らかにどうして良いか分からない風だ。何となく、司祭の方に両手を伸ばしてはいるのだが、聖体拝領の所作を明らかに知らないようである。

そこで、驚くべきことが起きたのだった。後ろにいた少年の父親が、後ろから手を伸ばして、少年の手を広げさせたのである。司祭は親に確認しているようだったが、親が受洗していると答えたのだろう、その少年にも聖体を渡した。その後に母親、最後に父親が聖体を受け取ったのだが、父親は両手に聖体を包んだまま、それを持ち帰ろうとした。これは聖体拝領の本質を理解している者が決して行わないことだ。僕は眩暈のするような思いだった。こいつら、一家揃ってやらかしたのか!

僕が立ち上がり、その父親のところに歩み寄ろうとすると、この父親は雰囲気に気付いたのだろう、掌の間に包んだホスチアを口に放り込んだ。この場での確証が消えてしまったので、仕方なく僕は再び席に座ったのだが、僕は未だ自分の目前で起こったことが信じられなかった。親が渋る子供に聖体拝領させていた、ということか?信じ難い話だが……

その後、閉祭の歌の最中に、一人の年配の信者がすっくと立ち上がり、前に歩いていった。一枚のホスチアが落ちているのを見つけたのだ。彼はもう引っ込んでしまった司祭のところに、それを渡しに行った。あーこれは酷い、酷過ぎだ。僕は後ろの方に目をやった。先の一家はまだ後ろに揃っている。僕は閉祭の歌が終わったところで、聖堂の後ろに歩いていった。

一家は揃って、自分達のやったことなど忘れてしまったかのように、祭壇の正面まで歩み寄り、その左右の石像などを眺めている。僕は、父親の方に歩み寄った。

「失礼ですが……洗礼、受けられていますか?」

父親はん、はぁ、何だコイツ、みたいな顔をしてこちらを向き、

「え?……いえ、受けていませんが」

やっぱりだ。僕は多少声を荒げて、聖体拝領は受洗者しか受けられないことを説明して、

「それだけじゃない。あなたのお子さんは、よりによってホスチアを床に捨てましたね? 」

と言うと、この父親、何を思ったのか、にやにやしながら「はあ、そうですか」と言うと、踵を返して、子供と妻と一緒に、聖堂の中を周るように歩きながら出ていったのだった。

僕がそのとき何を思っていたかって?いやあ、あの二人の子供が可哀想で可哀想でならなかった。子供は親を選べない。あんな親に育てられたら、きっとあんな大人に育ってしまうことだろう。何と哀しいことではないか。本当に、哀しくてやりきれない思いだった。

「SEALDs とキリスト教」という切り口を考える

僕は普段から、自分がカトリックの信徒であることを公言している。それが原因で不利益を被ったこと、というのを考えてみると……まあ、ない。利益を受けることもない……いや、ないこともないか。クリスマス・イブに仕事を早上がりする理由を聞かれて、
「教会に行くからです」
と答えると、素直に納得してもらえる。またまたぁ、誰か女の人とどうのこうの、じゃないのぉ? などと下衆な言葉で勘繰られて、ああ面倒くせぇなぁ、とイラッとすることは避けられているわけだ。しかしまあ、これ位のものである。

最近、SEALDs の主要メンバーがキリスト教系の学校、特にキリスト教愛真高等学校の出身である、という話が流れたわけだけど、この手の話が流れる度に、キリスト教徒のひとりとして、なんだかなあ、という思いをするわけだ。その前には……えーと、神社仏閣に油を撒いた、と評判の、アメリカ在住の医師52歳が運営しているのがIMMというキリスト教系(と自称する)団体だ、という話があって、僕も何人かの人に「キリスト教ってお清めに油を撒くの?」と聞かれたんだった。

ちなみに、キリスト教で、日本人が連想するお清めに近いニュアンスで撒くのは「聖水」、つまり水だ。油を額に注ぐ「塗油」というのはあるけれど、油を撒くなんて、少なくともカトリックでは聞いたことも見たこともない。どうも、「キリスト教」と付くと途端に「お前もあの手合いか」みたいな目を向けられるのがもう嫌で嫌で仕方がない。

日本人にとってより身近であろう仏教の場合を考えてみてほしい。仏教と呼ばれるものの中にだってとんでもないのがあるじゃないですか。古くは密教の立川流とか、現在は……まあ、ちょっと考えてみてもらったら分かると思うけれど。もちろん大多数の仏教徒や聖職者はちゃんとしている。この fugenji.org だって、名前で分かる通りお寺の所有するサーバなのだ。fugenji.org のオーナーであるOは、お盆の辺りになると、関西エリア中をクルマであちこち回って、古くからの檀家さんの法事を行っている。軽自動車をほんの何年かで乗り潰す位の過酷な日々である。そうやって、魂の平安のために身を削るようにして人生を献げている人は、キリスト教にも仏教にも、そして他の宗教でもちゃんと存在しているのだ。

まあ、人の話はどうでもよろしい。じゃあ Thomas、お前はどうなんだ、という話である。僕の場合はどうなのか……おそらく、僕の宗教観、そしてそれを人生に反映させる上での考え方というのは、他の信徒よりかなり厳しいと思う。いや、それを他人に誇ろうとしてそう言っているのではない。それはあくまでも僕の信条であって、他人がそれをどう見るか、ということに影響されるようなものではない。核が炸裂したり、疫病が流行ったりして、この地上に僕以外の人間が存在しない状況になったとしても、これは何も変わらない。何故って、それは僕と主の個人的関係が反映されるものだからだ。

もし、SEALDs のメンバーの言行に、キリスト教が影響を与えているのだとすれば、それはおそらく、

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ 7:7-8, 新共同訳聖書から引用)
この辺りだろうか。俗に「求めよ、さらばあたへられん」と引用される箇所だ。いやそんなに単純じゃないでしょう、とか言われそうだけど、まあおそらく根っこはこんなものですよ、きっと。

まず、キリスト教の信者でない人はこう思うんじゃないだろうか:
「求めて与えられるなんて、そんな簡単なものじゃないだろう」
それに僕はこう答えたい:
「はい、私もそう思います」

そもそも、マタイ福音書のその後の部分を読めば、この文言の意味するところは明白なのだ。

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタイ 7:9-11, 新共同訳聖書から引用)
つまり、求める相手は天の父、つまり主なのだ。国会議事堂前でがなるんだったら、その前に祈れ、という話なのだ。このように、聖書の文言というのは、その周辺を読んでおかないと誤解しがちなものである。特にプロテスタントの場合、 "sola scriptura"、つまり「聖書のみ(に依る)」、という姿勢をとっているから、尚更その危険があるわけなのだが……

ちなみに、上の最初の引用部は "「" で始まっていたけれど、これが閉じられる部分を見てみると、

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ 7:12, 新共同訳聖書から引用)
まあ、聖書に限ったことではないけれど、宗教書ってのは大抵、「人にこうしてもらえ」って話ではなく「お前がこうすべきだ」って話をしているわけですよ。どうか、キリスト教の信者でない方には、この辺りをご理解いただいて、その上で「SEALDs とキリスト教」という切り口を眺めていただきたいのである。

ちなみに、このマタイ福音書7章ってのが、どういう風に書き始まっているかも引用しておこう。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイ 7:1-6, 新共同訳聖書から引用)
どうです?彼らがキリスト者だとしたら、ここをどのように読んでいるのか、あるいは読んでいないのか、興味深いところだと思うんだけどなあ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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