今から15年前。大学院の修士課程の学生だった僕は、大阪府箕面市に住んでいた。家は萱野三平邸の近くで、京都から大阪北部を経由して神戸へ抜ける国道171号線、通称イナイチに沿ったところにある農家の倉庫の二階だった。
1995年1月17日の朝。僕は偶然、午前五時を少し過ぎた辺りで目が覚めた。前夜眠りについたのが遅かったこともあって、うつらうつらしながら、つけっ放しだったテレビに目をやっていたのを覚えている。大阪では、この時間帯は東京から衛星回線で送られてくるニュースを流していて、そのニュース番組のコーナーの「一言スペイン語会話」とかなんとかいうコーナーで、白人女性がワンフレーズを口にする、その真っ赤な唇が大映しになるのを、また眠り込みそうになりながら見ていた、そのときだった。ごーっ……という音が遠くから聞こえてきて、ダダダダダッという削岩機のような激しい振動に包まれたのだった。
僕は茨城の水戸の出身だけど、水戸は鹿島灘を震源とする地震が毎週のように来るので、地震には慣れているつもりでいた。その僕が、あの振動の中では、両手両足の先をベッドの端に引っかけて、頭上から降ってくる食器や本を布団越しに感じつつ、ただただ何もできずにいるしかなかったのだ。後で分かったことだけど、僕の部屋は、国道171号線と平行する活断層との間にあったので、そんな振動に襲われても当然のことだったのだ。
無精な僕は、振動が収まってから眠りに落ちてしまい、再び目覚めたときには、先のテレビに倒れた阪神高速の高架と炎に包まれた長田が映っていたのだが……とりあえず大学に行き、地震で荒れた研究室の復旧をしてから、NetNews での震災関連の情報交換の助けなどをして……そして帰宅しようと国道171号線に自転車で出たときに、僕は初めて物理的に、神戸の惨状の片鱗に触れたのだった。あの国道が、神戸方向にはクルマで埋め尽くされて、そして京都方向にはクルマの影さえなかった。そして道沿いのコンビニでは、食べ物という食べ物は全て買い尽くされていた。あの光景は、きっと一生忘れることはないだろう。
ここには書き難いような話も数々聞いた。僕は未だに、阪神大震災の話を聞くと胸が痛む。僕の中での震災復興には、どうやらもう少し時間がかかるようだ。
先日の、なべスパイラルと煮〆スパイラルの後も、出汁にからんだ食事の問題は散発している。
今日は、たまたま冷蔵庫の中に糸こんにゃくがあったので、それを一度下茹でしてから何か代用麺として作ってみようか、と思い立った。鶏肉と葱があったので、かつおだしとかえしで掛け蕎麦の汁みたいなものを作って、そこにざくに切った葱と鶏肉を入れてちょっと煮て、それをどんぶりに張って糸こんにゃくを入れてみた。掛け蕎麦の蕎麦の代わりにゆがいた糸こんにゃくが入っているわけだ。
すすってみると、これが中々いける。がつがつと食べてしまい、結局糸こんにゃく一袋(200グラム)を食べてしまったのだが、その後……どうも……腸の活動が……活発になり過ぎているような気が……ううむ。やはり食べ過ぎだったかな。
旨かったので、ダイエットにもいいですよ、と、ここに紹介しようと思っていたのだが……やはり一袋は食べ過ぎのようだ。皆さん、ご注意下さい……
あの松本光司の『彼岸島』が映画化された。家族や恋人、あるいは友人という、僕達に社会的安寧を保証するものとしての人間関係が、快楽を伴う異形のものへの変容、というかたちで蹂躙されるその世界像は、深い戦慄を以て僕たちに衝撃を与えるもので、この10年の間に書かれた漫画の中でもベスト10に入る秀作だと思う。
しかし、この『彼岸島』を知る人のうち、あの藤子不二雄がこれに極めて類似した漫画を書いている、ということを知っている人がどれ程いることだろう。そして、その漫画の基になっていると思われる SF 小説があることを知る人が、どれ位いることだろう。
アメリカの小説家でリチャード・マシスンという人がいる。1950年代から60年代にかけて活躍した SF 作家で、彼の作品はいわゆるスペース・オペラ全盛期に数多く映画化されている。その中のひとつに、1969年に公開された『地球最後の男』というのがあるのだが、これは原題を "I am Legend" と言う。映画としては2007年にウィル・スミス主演でリメイクされたので、ご存知の方もおられるかもしれない。ウイルスで感染する吸血鬼に席巻される地球と、孤独に生き残っている主人公、という構図は、おそらくはこの小説が初出だと思われる。
そして、この『地球最後の男』へのオマージュとして書かれたのが、藤子不二雄(当時、後の藤子・F・不二雄)の作品で、1978年(昭和53年)「週刊少年サンデー」に掲載された『流血鬼』(りゅうけつき)である。なぜこの作品が『地球……』へのオマージュだと断言できるかというと、作品中に登場する吸血鬼ウイルスの名が「マシスン・ウイルス」という設定になっているからなのだけど、この作品では、主人公の少年がガールフレンド(既に吸血鬼になってしまっている)から、この吸血鬼が新しい環境への適応形態であり、もはや旧来の人間のままでいる主人公こそがマイノリティであり、変革を受容せずにただ変革者をいたずらに殺戮する「流血鬼」である、と指摘され、苦悩の後に吸血鬼への変容を受容する……というストーリーになっている。
僕はへそまがりなので、未だにこのストーリーを受け入れ難く感じてしまう。藤子・F・不二雄こと、故・藤本弘氏は創価学会員だったという噂があって、この『流血鬼』は実は折伏のメタファーなのではないか、という説もあるというのだが、これはなかなかに説得力のある話である(念の為強調しておくが、僕はこの話の真偽の程に関しては未だ調査中なので、これが事実だとは名言できない)。それらもこのストーリーを受け入れ難い一因なのかもしれぬ。
しかし、僕が半ば本能的に、このようなストーリーを受容し難いと思う理由は、やはりそれが人の人としてのありようを根本から揺らがせるものだからだろう。そして、そのような嫌悪感を感じるからこそ、このようなストーリーは深く僕の記憶に残り、ストーリーとしての秀逸さを感じさせるのだろう。『彼岸島』を読まれた方には、ぜひこの『流血鬼』(中央公論社の「愛蔵版「SF 全短篇」」や、小学館の「SF 短編 PERFECT 版」に収録されている)、あるいは『地球最後の男』(ハヤカワ文庫 NV 151 モダンホラー・セレクション に収録)を是非読んでいただきたい、と思う。やはりオリジナルを知ってもらいたいから。
自分でも普段の生活で意識することがあまりないので忘れがちなのだが、どうも僕の学歴は世間の人にとっては少なからず興味を刺激されるものらしい。僕にしてみれば、同業者は皆似たような学歴なわけだし、職能ということで考えたら、中卒で職人さんに弟子入りして十年修行……とかいう人の方にシンパシーを感じるので、自分を含めた人間を学歴でどうこう言うという発想がそもそもない。
で、僕は国絡みの金で仕事していたりしたので、こういうところで学歴(何度も書くが、「学」んだ経「歴」として以上の意味はそこにはないのだが)などはオープンにしている。すると(ご丁寧にも)「大阪大学出身の癖に」などと書き込まれることがあるわけだ。
そういうものを目にして、僕がどういう行動をとるか……まず、目にしたときには「ふふふ」と声を漏らして笑ってしまう。いや、だって、そんなことをわざわざあげつらっている時点で、その人が学歴に多大なる興味を持っていて、それが何事かを保証してくれるのだと(たとえ当事者が否定しても、その当事者の心中のどこかしらかで、かたく)信じているんだ、って露呈しているわけでしょう?いやはや、ただただ滑稽である。
まぁ、僕が公開している僕の個人情報……たとえば僕の学歴だとか、僕の読み難い名前だとか、僕がカトリックで洗礼名がトマスだとか……というのは、実のところ、一種の踏み絵として機能している。それを前にしたときの何者かの反応で、その人が内奥に隠しているものが露呈されてしまうわけだ。それは偏見とか、無教養とか、コンプレックスとか、あるいはその人の歪んだ信仰だったりするわけだけど、どうしてこうもまぁ人は愚かなのだろうか、と思う。僕の三十年以上の人生の中で、それはもう膨大な数の人々が、その踏み絵の前で、あげなくともいい声をあげ、晒さなくてもいい恥をさらしてくれるのだ。僕はそんなこと、頼んでもいないのに。
昔は、そういう人達には、わざわざ教えてあげていたものだけど、今はもうそんな暇もないし、musterbation まがいのことに費やすエネルギーがもったいない。まぁ、勝手にやってもらえばよろしい。どんどん恥を上塗りしていくだけのことなのだから。