寝込む

風邪をひいたらしい。昨夜は耐え難い倦怠感に、大量の寝汗をかきつつ気を失ってしまった。

で、今日は一日寝ていたのだが……今日中に送らねばならない書類があったので、少し息をつきつつ書き、メールで送る。こんなときにも休むこともできないとは。節々が痛み、口中では舌炎のせいで舌が口を埋めるほどに腫れ上がっている。午後はまた意識を失ってしまい、気が付くともう夜だった。

口さがない人々

ちょっと前のことになるが、用事があって実家の母に電話をした。用件を話し終えたときに、母がふと、

「そういえば、あんた blog やってるんだって?」

と、こう言う。今更何を言っているのだろう、こちとら 1996 年から blog を……そもそも書き始めた当時は blog という言葉すらなかった頃だ……書いているし、そのことは両親共に知っていたはずだ。

「何か問題でも?」
「いや、お父さんの知り合いか誰かが見てるらしくて」
「はぁ。で?」
「何か、ギター弾いてる写真とか出してるって?」

はいはい。大体想像はつきましたよ。あれは三軒茶屋のライブハウスで「ベースを」弾きながら歌っているところを写真に撮られたのを貰って、それ以来アイコンとして使っているのだけど、それを見て何か下種の勘繰りをして、父か母に何事か言ってきた輩でもいるのだろう。

「で、何かそれが問題でも?」
「いやね、アンタ、そんなことで恥の上塗りを……」
「???楽器を弾くことが何か恥ずべきことだとでもいうわけ?僕はお天道様に顔向けできないような生き方はしていませんけど」
「……」

実の親にこれ程信用されていないのか、と、ただただ嘆息。そして、うちの両親に何を口さがないことを言ったのか知らないが、自分の目に入ったもので見えない部分を勝手に想像して何やかにや言う悪しき存在に、反吐が出る思いだ。何か言いたいことがあるのならば、どうして僕宛にメールのひとつも送らないのか。送れないんでしょ?下種な想像は想像のまま増殖させて、手近なうちの両親にちらちらその想像を披瀝して……あーやだやだ。つくづく下種な奴だな。死ねばいいのに。

水戸出身者が語る「あまり知られていない水戸黄門の話」

TBS の長寿番組『水戸黄門』。現在放映中のものは第40部で、由美かおる氏は今日放映の回でなんと出演700回になるのだそうな。いやはや、凄いことである。

水戸駅の出口には、助さん・格さんを伴った水戸黄門のブロンズ像が設置されている。しかし、水戸の人間が昔から愛してきた実際の徳川光圀は、この物語の主人公とはちょっと違っている。

そもそも水戸の気風を決定付けているのが、水戸徳川家にまつわる数々のエピソードである。それは、光圀の父であり、水戸徳川家初代藩主である徳川頼房の幼少時の話までさかのぼる。

駿府城の天守閣で、五郎太丸(後の初代尾張藩主 義直)、長福丸(後の初代紀州藩主 頼宣)と鶴千代丸(後の頼房)を伴った家康が、子達に戯れにこう言ったという:「ここから飛び降りることが出来たら何でも願いをかなえてやろう」と。五郎太丸と長福丸が家康の思い通りにたじろぐのを後目に、鶴千代丸は「私が飛び降りましょう」と言った。家康が「何が望みだ」と訊くと「天下を私に下さい」と言う。驚いた家康が「天下を取っても、飛び降りたら死んでしまうのだぞ」とたしなめると、鶴千代丸はきっと家康に目をやり、こう返したという:「ほんのひと時でも天下を取れるならば、それが私の本望です」。『論語』の「子曰 朝聞道 夕死可矣」(子曰く、朝……あした……に道を聞かば夕……ゆうべ……に死すとも可なり)を彷彿とさせるこのエピソードは、水戸徳川家の気風を実によく表している。

徳川光圀は、テレビの黄門様のように全国を行脚したわけではない。しなかった、というより、それは不可能だった、というのが正しい。御三家の一角を成し、江戸の上屋敷に常駐していた光圀は、実際には熱海の辺りまでしか行かなかった、と、記録に残っている。しかし、たとえ全国行脚せずとも、光圀が型破りな人物であったことはよく知られている。幼少の頃、頼房に度胸を示すように言われて、深夜の刑場にひとり赴いて生首を引きずって帰ってきた、とか、やはり頼房に度胸を示すように言われ、嵐で増水した隅田川を泳ぎ渡った、とか……光圀の豪胆さを伝える話は枚挙に暇がない。

しかもただの荒くれものではなく、学問を重んじ、藩の財政の 1/3 を投じて、歴史書『大日本史』の編纂に着手した(この事業は明治まで続いて、この日本で他に類を見ない紀伝体の歴史書は全397巻226冊の大部として完成した)。明朝の亡命者である朱舜水らから教えを受け、大陸伝来の文化……この中には、後に「ラーメン」や「チーズ」と呼ばれるものまで……に積極的に触れた。もちろんただの好事家ではない。民の糧食、戦の際の兵糧などの観点から、光圀は食物に多大なる関心を寄せていたのである(偕楽園などで有名な水戸の梅も、九代藩主斉昭が「他の花に先駆けて咲き、馥郁たる香りを放ち、実は戦の際に兵糧となる」と梅を好んだことによる)。

そして、徳川綱吉があの有名な「生類憐みの令」を出し、過剰な犬の庇護が行われた際、光圀は将軍に「上質の犬の毛皮五十枚」を献上した。御三家で一番石高が低く、城に石垣を造ることも許されなかった水戸家だったが、光圀は、誰も何も反論できない将軍に対してこのように物申すことができるほぼ唯一の存在だったのだ。このスピリットこそが、民衆に「黄門様」の名で愛された、阿ることなく決然として己の信ずるところを貫く存在としての光圀をよく表すものであり、その生き様は、水戸の人間にとって大きな精神的支柱になっている。だから……きっと僕は、どこで暮らしていても、一生「水戸っぽ」のままなんだろう。そう思うのである。

ありふれた jargon

いわゆる業界用語……これを jargon と言うわけだけど……というのは、しばしばそれを知らない普通の人が聞いたら非常に奇妙なものだと思う。僕が初めて jargon の存在を意識したのは、子供の頃、耳鼻咽喉科に通院していたときのことで、鼻炎が悪化したときに鼻から口に強制的にぬるま湯を流して洗浄するのだが、そのときに医師が看護師に、

「ノーボン」

と指示するのだった。子供の癖に難しく考え過ぎてしまって、これは英語の nose と関係があるのかな、などと思っていたら、ある日、医療器具に「膿盆」というものがあることを知って、あーなるほど、しかしそうとは思わなかったなぁ、などと感心したのを、今でも鮮明に記憶している。

僕の関わっている分野でも、当然この jargon は存在する。しかし我々の仲間連中はイチビリだから、しばしば、それを知った上であえて誤解を招くような使い方をして、周囲の反応を見て面白がったりするから始末が悪い。

僕がかつて共同研究をしていた某大学の教授、という人がいる。この方、かつて僕が学部時代に使っていた教科書の共著者の一人だったりする、その業界のビッグネームなのだけど、この方は時々すました顔をしてこれで面白がっていたっけ。この某教授は、軽金属の phase transformation に関する研究を専門としていたのだが、人に、

「先生、御専門は?」

と聞かれると、決まってこう答えるのだった。

「おう、ワシ、ヘンタイや」

実はこれ、聞いた相手への試金石として機能しているから怖いのだ。ニヤリと笑う人はよし、「はぁ?」と素頓狂な顔で聞き返す人は、少なくとも思考の柔軟性がない……そんな感じだろうか。

タネを明かせば何のことはない。phase transformation は日本語では「相変態」と言うのだが、金属が熱処理などである状態から別の状態に遷移するような現象をこう称する。某教授はこの現象、特にある種の軽金属におけるこの現象を専門分野としていたので、簡潔に答えるとこうなる訳だ。しかし、京大出身で、助教授まで京大にいて某大学にやってきた某教授にいきなりこう言われると、さすがに僕でもどきっとする。一瞬後に、ああ、と腑に落ちて、若干のタイムラグをおいて口角が上がるわけで、某教授はこれを見て「ま、そこそこやな」……と思っていたかどうかは分からぬが、とりあえずほんの少しだけ笑みを返してくれるのだった。

そんなわけで、この業界ではこういうジョークを耳にすることが時々ある。例えば、他の研究室の学生と一緒に昼食を摂ろうとして誘いに行くと、

「すんません!もうすぐ時効終わるんですけどねえ……」

何か犯罪でも?とか言われそうだけど、これも、物質をある状態に保持しておくと、時間経過と共に何かが析出してくるような現象を「時効析出」と言うことに由来する。例えば、ジュラルミンを硬くするための処理はこれを利用しているのだけど(軽金属がこのような処理で硬くなることを「時効硬化」と称する)、その挙動を確かめるための研究などをしている学生は、設定した温度に試料を一定時間保持した後に試料を急冷して、この時効析出の挙動を確認するような実験をしていたりする。で、その急冷の時間が昼飯刻に重なると、こういうことになるわけだ。

また、こういう実験をしている学生の中間発表につきあっていると、熱処理に伴って表面が酸化することが影響を及ぼしているような結果を見るときがある。そういうときは、

「これ、雰囲気はどうなってるの?」

と質問することがある。我々が日常会話で使う「雰囲気」というのは英語で言うと atmosphere だけど、この単語はもともと「取り巻いているもの」という意味である。だから、そのままの原意でこの質問に答えればいいわけで、聞かれた学生は「水素雰囲気です」とか「大気から * 回窒素置換した後に、** ポンプで ** Pa まで脱気した状態です」とか答えるわけだ。

まぁこの辺までならいいんだけど、やはり僕等みたいなタチの悪い研究者だと、やはり jargon でもタチの悪い組合せを好むわけで、

「なぁ○○君、君ヘンタイやったなぁ?」
「え?……はいはい、そうです、僕、ヘンタイです」
「この間の××君の学会発表、聞いたか?」
「あーあれですか、なんか時効がうまくいかなかったみたいでしたけど、あれ何かヘンでしたよね」
「そうだろ。あれ、何だと思う?」
「うーん、やっぱり雰囲気ですかねえ……うん、雰囲気が悪いと、ああいう風になっちゃうこと、あるかもしれません」
「そうそう。やっぱり、雰囲気は大事だよなぁ」
「ええ、そうですねぇ」

……分野が違う人は、傍で聞いていても、何が何だか分からない、とかいうのを、面白がってみるわけだ。

この jargon、分野が違うとまた違ってくるもののようで、かつて通っていた大学の歯学部付属病院に通院していたときにも色々聞いた。例えば、歯の上下の噛み合わせを記録するのに、炎で軽く焙ったパラフィンの板を噛まされるのだが、この工程が近付いてくると、歯科医師は助手に、

「インショウお願いします」

と、こう指示する。インショウって何だろうと思いつつ、ある日自分のカルテ(この病院では患者が自分で事務までカルテを持ち帰るシステムだった)に目を落としたら、診療記録に、"take an impression" と書いてあるのに気付いた。impression って……ああ、「印象」か!漢字になると初めて、判を捺したその姿、というイメージから全てが繋がったのだった。

こんなこともあった。ある歯を差し歯にしなければならなかったときに、研修医にこう言われたのである。

「シンビテキにやっていいですか?」

ん?と考え込んだのだが、そう言えば院内に学会か何かのポスターが貼ってあって、そこに「審美歯科」という単語があったのを覚えていて、

「それは『審美歯科的に』という意味ですか?」

と聞き返したら、びっくりしたように、

「はい、そうです。でもよく分かりましたね」

と返され、いや分からんようなムンテラ(これも Mund Therapie の jargon である……今は Informed Consent を略して「アイシー」とか称することが多いらしいけど)するなよ、俺じゃなかったら理解不能だぞきっと、と憮然とさせられたのだった。

かくも jargon は面倒である。しかし、僕達の忘れかけていた言葉の一面をふっと提示されて、後で思い返すと面白いことも多いものだった……って、僕の語彙が貧弱だったら、きっと今でもぼーっとしているんだけれど……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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