僕にとって生命科学は専門外だし、今回のあの件に関してあまりどうこう言う立場でもない。ただ、行き掛かり上、僕に対してゲスな質問を投げかけてくる輩も居るわけで、ひとつだけここに書いておこうと思う。
この業界、まあ色々な方がおられるわけだけど、ひとつだけ言えるのは、四知というものを魂に刻み込んでいない人は、この稼業に関わってはいけないのだと思う。僕の場合は、まだ年端も行かない子供の頃に、小澤武先生という方にこの言葉を教えていただく機会があった。噛んで含めるようにこの言葉を一緒に繰り返してもらっていたおかげで、あんなことをせずに済んだのだろうと思う。彼女は残念なことに、そういう機会も、そういう師もおられなかったのだろうと思う。しかし、その結果であるあの愚行は残念ながら彼女の罪だし、彼女はもうこの稼業には一切関わる資格はない。野依氏が「教育し直す」という言葉を出したとき、彼の仏心みたいなものを垣間見た思いがしたのだけど、それは彼女に対してではなく、彼女のユニットに関わるポスドクや学生達に向けられるべきものだと思う。この罪はそれ程に深いものなのだ。これだけは、書いておこうと思う。
思えば、人を教えるということで金を貰うようになってもうどれだけの年月が経過したことだろう。大学生のときの家庭教師からだから……長いものである。
学部生のときは専ら男子生徒を教えていたわけだが、院生からは大学でも教えるようになって、いきなり妙齢の女性を教える機会が増えた。学生に慕われて……みたいなことを考えたことがない、とは言わない。しかし、この頃から戯れ半分、本気半分でよく口にしていたのが、
「この稼業、商売物に手を出したらオシマイなんですよ」
というセリフである。僕はこの実例をひとつ、よーく知っているのだ。
当時の知り合いに Q という男がいた。彼は、大学に入って程なく知りあったという女性と交際していて、就職したら結婚するものと思っていた。しかし、突然二人は別れ、Q はその年に大学に入ったばかりの女性を連れて歩くようになった。一体何が起きたのか。周囲の口は重かったけれど、あるとき僕はついにそれを耳にした。何のことはない、その女性は Q が家庭教師で教えていた子で、Q はその子に手を出し、妊娠させた上に堕胎させたのだという。事実を知った Q の恋人は彼から離れ、そして、それでも Q と共に居たいという教え子を、Q は次の女として連れ歩いていたわけだ。まあ、嫌な話だが、大学に居るとしばしば耳にする類の話である。
Q とはその後交流が絶たれているので、彼と彼女がその後どうなったかは知らない。ありふれた話に何を書いているのか、とお思いの方もおられるだろう。しかし僕はこのとき、ああ、やっぱり教え子に手を出しちゃ駄目だよなあ、と思ったのだ。その思いは、今に至るまで変わらない。
教える立場の自分の周辺を俯瞰すると誰でも気付きそうなことなのだけど、教える立場の人間は、教わる立場の人間をある程度コントロールすることができる。まあ、メンターと言っちゃ大袈裟かもしれないが、教えるというのはそういう類のものである。違う小路に導こうとすれば、全ての学生に対して可能ではないかもしれないが、ある種の学生をそこに追い込むことは不可能ではないのだ。
しかし、それが可能であっても、そんな行為を愛や恋とは言わないだろう。それはあくまでも、他人を自分の都合の良いようにコントロールしているだけだ。そもそも、そこまで可能な程に相手がこちらに心を委ねているからこそ、それをしないということを以てその信頼に応えることが、教えるという立場の持つ一種の聖性なのだ。それを意識できない者には、人を教える資格はない。そう僕は思っている。
そして、人を教える立場にある者は、学問の求心力を自らへの求心力と誤解させてしまうような振舞いを可能な限り回避しなければならない。プライベートのやりとりはしない。プライベートの披瀝もしない。二人きりにならない。どうしても他者の介在しない空間に居なければならない場合は、ドアを開ける。必要なら部屋を出てロビーを使う。それを当たり前の行動としてできなければならない。
教える側同様、教わる側もしばしば「勘違い」をする。いや、実際はもっと狡猾で、勘違いをしている風を装って、教える立場の覚え目出度き立場にあやかろう、なんて学生は、残念ながら一定割合で出現するものだ。その秋波は受け流さなければならない。それが、異性を含む学生を教える者としての才覚なのだ。
いや、何でこんなことを書くか、というと、僕以外の誰かさんに関して、そういうキナ臭い臭いがするのを僕が感じ取ってしまったからなのだが、頼むから馬鹿なことをしないでもらいたいものだ。いい歳なんだから、本当にやめなさいって。そんなコントロールではなくて、対等な大人の異性との関係を求めないならば、それはアンタがそういうことなしに女に振り向いてもらえない輩だ、って、自分で自分をあかししているようなものじゃないのかね。
昨夜(というか今日未明と言うべきか)のスノーボードでは、皆さんも盛り上がったのではないかと思う。僕としては、ショーン・ホワイトがミスをしたことの方が意外だったのだが、このスノボ関連の報道でも「天才」「天才」という言葉が乱れ飛んでいる。
僕は本来、人から天才と称されるようなタレントは持ちあわせていない。少なくとも自分ではそう思っている。そんな僕でも、十人並を超えた領域で何かをしたい、と思うことがあって、ではそういうときにどうするか、というと、努力するわけだ。まあ、本当に努力できるときに限って、それは労苦というよりもむしろ(そりゃあ苦痛は伴うけれど)楽しみをもたらしてくれるものなのだけど、だから僕が努力しているところを他人が見ても、それはあまりそういう風には見えないのかもしれない。
で、ある程度のレベルで何事かができるようになって、ああよかったなあ、嬉しいなあ、と思っている、そんな僕の心をぶち壊してくれるのが、
「彼は天才だからさあ」
はぁ? 冗談じゃない。俺はアンタらにはそう見えなかったかもしれないけれど、アンタらが暇ぶっこいてのたくってる時間に色々やってたんだよ。今これができるのはその結果なんだ。天に与えられた才能だ、なんて、そんな簡単に片付けないでくれよ。そう言うと、ニヤニヤしながら、
「いやあ、天才にそんな風に言われるなんて、手厳しいねえ」
……そういうことを体験して、僕は遅れ馳せながら知ったのである。天才、という言葉が、その才能を賛美するためではなく、その才能や努力に後ろめたさを感じる人達が、自らを安心させるために、その存在を「天才」という社会的 segment に隔離してしまうために使われる単語である、ということを。それ以来、僕は才能を感じる人に向けて「天才」という言葉を使うのをやめた。
今回のスノボにしたって、あの二人の若者を、おそらくはその若さの故に心の底からリスペクトできないでいる薄汚れた連中が、この「天才」という言葉がメディアから供給されることによって安寧を得るというわけだ。しかし、彼等は、たとえ15歳と18歳であったって、幼い頃からスキー、スノボ(とおそらくスケートボード)に遮二無二打ち込んだ、その努力の成果としてメダルを手にしたのだ。そんな努力は2、3分のビデオではい、おしまい、へーそうなの大変だったんだねー、はい、ここから先は天才、天才……
それが大人だというのなら、僕は一生大人になるのなんて御免被る。もういい歳して何を書いているのか、と思われるかもしれないが、だから僕は「天才」という言葉が嫌いなのである。
世間では、佐村河内守氏の一件で喧しい。まあ音楽に限定した話ではないけれど、アートというのはしばしば扇動されるものであって、それを享受して謳歌しているつもりでいる大衆は、扇動する側にしてみたら単なるカモに過ぎない。音楽以外だったら、たとえば Chim↑Pom とそれを評価するキュレーター達の存在、なんてのはその典型である。
しかし、それと同じ位僕が違和感を感じるのは、この佐村河内氏が折々に触れ「被爆2世だから」という言葉を吐いていたことである。僕の身近には、U という被爆2世がいるわけだが、U が「私は被爆2世だから」という言葉を口にすることは、通常まずないと言っていい。なぜなら、U はそれを以て自らのアイデンティティを主張することがないからだ。
U の中学時代の同級生に、福山雅治という人がいる。彼は、自らのラジオ番組で被爆2世であることを語っているけれど、彼はそれを以てアイデンティティを主張しているわけではない。あくまで彼はミュージシャンであり、役者であり、時々は写真を撮ったりもしているようだけど、そういうことで彼はアイデンティティを確立しているわけだ。
二人に共通していることは、乏しい自らのアイデンティティを水増ししたり、それを他人がある程度の質・量のあるものとして受容せざるを得ないようにしむけたりする道具として、自らの被爆2世としての出自をふりかざすようなことがない、ということだ。彼等は郷里で、被爆者や被爆2世がどのような辛いめに遭ってきたかをよく知っている。その上で、それを自分の一部として負って生きている。だから、たとえば8月9日に彼等の口から語られる「いや、まあ、実は私は被爆2世ということになるんだけど」という言葉は重いのだ。
佐村河内氏のインタビューなどを見返してみると、彼の言葉にはそのような重さが微塵も感じられない。いや、彼が嘘をついているとか言うつもりはない。しかし、その重さの違いはどこから生じるのか、と考えると、ああなるほど、そういうことなんだな、と得心がいくわけなのだ。