「線量計つけず作業、日本人の誇り」 海江田氏が称賛
海江田万里経済産業相は23日のテレビ東京の番組で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の作業に関連し、「現場の人たちは線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人がたくさんいる」と明らかにした。「頑張ってくれた現場の人は尊いし、日本人が誇っていい」と称賛する美談として述べた。
番組終了後、記者団に対し、線量計なしで作業した日時は確かでないとしたうえで、「勇気のある人たちという話として聞いた。今はそんなことやっていない。決して勧められることではない」と語った。
労働安全衛生法では、原発で働く作業員らの健康管理に関連し、緊急作業時に作業員は被曝(ひばく)線量の測定装置を身につけて線量を計るよう義務づけられている。作業員らが被曝線量の測定装置をつけずに作業をしていたのなら、法違反にあたる。厚生労働省は、多くの作業員に線量計を持たせずに作業をさせたとして5月30日付で東電に対し、労働安全衛生法違反だとして是正勧告している。
(2011年7月24日0時15分, asani.com)
線量計を外して作業に行くのが勇気?ほー。じゃあ、あんたらはその勇気とやらのおかげでのうのうとしていられるんか?え?線量計を外して作業に行く人達の心境が、全然理解できていないだろう?え?
線量計をなぜ外して作業に赴くのか。それは、いくら線量計がピーピー鳴って、積算線量的にもうこれ以上作業が許されない状況になっても、自分達がやらなきゃ誰も代わりにやれないから、なんですよ。そして、線量上限を超えても、今すぐに何かどうこうなるというわけじゃないから、まあ仕方ないか、という「感覚の鈍麻」が起こっているからなんですよ。何故そのような「感覚の鈍麻」が起きるのか。それは過重労働の場に置かれるからだし、そこで何がどうあっても「これ以上被曝させるわけにはいかないんだ」と頑張る管理者がいない、つまり、まっとうな線量管理がなされていないからなんですよ。なぜまっとうな線量管理がなされないのか。それは、監督官庁やその上の為政者がちゃんとしていないから、でしょう?他にどんな理由があるんですか?
こういう発言を平気でするような人間は、国政に携わる資格などない。菅共々、さっさと消えてくれ。いっそ死んでくれたっていい。さっさと消えてくれ。
以前にも書いたことがあるかもしれないが、僕は人工甘味料が嫌いである。特に、最近使われていることの多い、アセスルファムカリウムとスクラロースの組み合わせが、何よりも嫌いである。甘味は一見控えめであるように見えて、食品が口から姿を消しても延々と続く。それは後味というものを、そして食後の口内の感覚を根底から破壊してしまう。僕にとっては許されざる大敵なのである。
最初のうちは、清涼飲料水等に入っている程度だった、と思う。しかし、この二つの甘味料は、どんどんその適用範囲を拡大していった。そして現在、その適用範囲には、そんなものまで?と思うようなものまで含まれている……まず、飴である。のど飴等の多くには、この甘味料が使われている。そしてアイス。果実系のジュースも例外ではない。バヤリースのジュース等にまで入っているのだ。
そして現在、この甘味料は、それが使われると我々が想像し得ないものにまで使われている。たとえば、先日発売されたウイルキンソンのジンジャーエールにも入っている。カルピス系のほとんどの商品にも入っている。現在市販されているほとんど全てのマッコリにも、この甘味料が使われている。先日 U が買ってきたノンオイルタイプのドレッシングにも入っていたし、某大手量販店で売られている梅干しの多くにも入っている。そして今日、ついにもずく酢にまで使われているのを発見してしまったのだ(後記:昨日買い物のときに改めて見てみたけれど、実は現在売られているもずく酢の中の結構な割合の商品が、この甘味料に手を出してしまっているようだ……)。もう、なんでもあり、の世界である。
では、何故、ここまで広範囲にこの甘味料が用いられるのか。おそらくその理由は、砂糖をケチるためである……え?と思われるかもしれないが、アセスルファムカリウムとスクラロースの組み合わせは、砂糖の数百倍の甘さを得ることができる。つまり、少量で強い甘味をつけることができるので、甘味料としてみた場合、砂糖を使うのよりもコストを低く抑えられるのである。しかも、「カロリーオフ」という宣伝文句をつけることもできる。
しかし、僕が一番恐怖を感じているのは、こういう状況が無批判に社会で受け入れられていることである。僕にとって、あれ程不自然に感じられるものを、どうして皆何とも思わずに飲み食いしていられるのか。舌が腐ってるんじゃないの?とか、頭にスでも入っているんじゃないの?と言いたい気分だけど、こういうことでどうのこうの言う僕は、おそらく現代社会で極めて少数派に属しているに違いない。
健康に配慮しているようでいて、実はコストカットの為に乱用されている甘味料に対して、これ程までに、羊のように唯唯諾諾と受け入れている日本の社会を思うに、これ程までにこの国の食が貧しくなってしまったのか、と、ただただ悲しい。こんな現状なのに、テレビをつけるとグルメ企画ばかり垂れ流されているのだから、もうお寒い限りである。こんな状況が続いてしまったら、日本人は正常な甘味の感覚を失ってしまう……いや、もう既に失ってしまっているのかもしれない。懐だけでなく、舌も頭も貧しいなんて、どうしてこの国はこうなってしまったんだろうか。
最近、僕の知人連中の間で、こんなものが話題になっている:
『平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)』一般競争入札に関して
……これが何かというのは、仕様書を御一読いただければお分かりかと思うのだけど、事業目的が:
ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する。
とあり、具体的な事業内容は以下の通りである。
- ツイッター、ブログなどインターネット上の原子力や放射線等に関する情報を常時モニタリングし、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報を調査・分析すること。モニタリングの対象とする情報媒体及びモニタリングの方法については、具体的な提案をすること。
- 上記 1. のモニタリングの結果、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報及び当庁から指示する情報に対して、速やかに正確な情報を伝えるためにQ&A集作成し、資源エネルギー庁ホームページやツイッター等に掲載し、当庁に報告する。
- Q&A集の作成に際して、必要に応じて、原子力関係の専門家や技術者等の専門的知見を有する者(有識者)からアドバイス等を受けること。また、原子力関係の専門家や有識者からアドバイス等を受ける場合には、それらの者について具体的な提案をすること。
- 事業開始から1ヶ月程度で30問以上、事業終了時までには100問以上のQ&A集を作成すること
「これは情報統制である!」とか、脊椎反射のような感じで言われそうだけど、ちょっと待っていただきたい。上の事業内容の骨子は、
- インターネット上の原子力や放射線等に関する情報を常時モニタリング
- 誤解を招くおそれのある情報に対し、正確な内容を伝えるための Q&A 集を作成・公開
の二つなわけだけど、これだけでは情報統制とは言い難い。「誤解を招くおそれのある情報」源への干渉がなされた段階ではじめて「情報統制」だと言えるわけで、この段階では、円滑な広報活動を支援するシステムの構築・運用、という域を逸脱するところにまで至ってはいない。
たしかに、Q&A 集の作成で「対抗」する対象として「風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報及び当庁から指示する情報」と書かれているところには、いささかうさん臭い匂いを感じないでもない。また、このシステムによって得た情報によって、得た側がどのように行動するのか、という問題……つまり運用のポリシーの逸脱という問題は考慮されなければならないだろう。
しかし、だ。そもそも「公開する」というのはどういうことなのか、皆さん、よーく考えていただきたい。公開する、ということは、その内容を衆目に晒すことである。そして、ひろく衆目に晒す以上は、それを誰に見せるか、ということに関して、その相手の選択をある程度放棄しているはずなのだ。
もちろん、HTTP というプロトコルや、コンピュータネットワークにおけるポートの仕組みを用いたフィルタリングを行うことは技術的には可能で、たとえば、不穏な内容を書いたのを ".go.jp" ドメインから見ることができないようにする、などということは、そう難しいことではない。しかし、それは同時に、.go.jp ドメイン内の誰かが、その晒している情報に触れるチャンスを失う、ということでもある。公開する以上は、それに付随するリスクを負うのは、これは当然のことなのである。これに関しては、もはや古典になっていると思うけれど、拙コンテンツ『WWW ページでの個人情報公開について考える』中、『見せるということ、見せないということ』に書いてあるので、これ以上ここに書く必要もあるまい。
たとえば、反原発の情報を記述・公開していたものが、プロバイダ等に圧力がかかって、アクセスできないようにされてしまった、とする。そうしたら、表現の自由に対する抵触であることを以て社会にその行為の不当性を訴えるか、日本の公的権力の及ばない海外のサーバで公開するか、いっそ WWW に拘らずに他のメディアで訴えるか……手は、いくらでもある。自分が世間に晒しているものが、自分の望まないような受け入れられ方をしているのならば、その不当性は自ら主張し、社会に認知してもらうしか術はないのである。そこを他者が保証してくれるべきだ、と、いかに手前勝手なことを言っても、たとえば前述した(国際法や憲法21条における)表現の自由の保障のようなものの域を越えては、何者も保障してはくれない。そして、社会においては、その公開し、主張するところの情報の正当性や文責のようなものを果たしているかが、当然問われるだろう。
たとえば「みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか? / 年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。」とか「「放射線によって傷ついた遺伝子は、 / 子孫に伝えられていきます」と、柳澤桂子さん。」とかいうことを軽々に書く、ということが最近散発しているけれど、前者を書いた『ゆいわ の きほくのわ』関係者や、後者を見出しとして掲げた『クロワッサン』が、自らの主張の内実に関して、何がどのように問題があるのか、ということを、きっちり総括しているだろうか。むしろ「反原発のためなら何を言っても許される」という、実に尊大な驕りがそこに感じられてならない。そして、これらの言葉に傷つけられる人達に、おざなりの謝罪告知など何の救いにもならないのである。
こういう問題の一番根本にあるものは一体何なのだろうか。僕はこう思うのだ……人はしばしば、身辺の何人かの他人が自分に賛意を表明していることを以て、「自らが正しい」と安易に誤解する。そして人は、自らの言論や主張というものが、自らの望むように受容されるべきものだ、という驕りを捨て切れない。かくして、この二つの「未成熟な社会性」に依り縋って生きる自分達の正当性を確認するために、身辺の知人との相互確認に励むのである。
そして、その想定範囲外から思いもしないことを指摘されると、まるで頭の上に人工衛星でも落ちてきたように、その特殊性と理不尽さ(実のところ、それは特殊でも理不尽でもないことがほとんどなのだけど)を声高に主張するのである。僕達は、何事かを主張して社会の中に存在し続けようと思うならば、このような「未成熟」というエゴを振り回すことからは、もう卒業しなければならないと思うのだが、夏目漱石以来、この国の民衆のなかにそういう成熟がみられたことは、残念ながら一度もないのかもしれない。
先の資源エネルギー庁の入札がかかっているシステムは、正直言って税金の無駄遣いだと思うし、現政権が、このようなシステムのアウトプットに対してどのような干渉を行うか、ということに対しては、我々は常に警戒を怠らないようにしなければならないとも思う。しかし、このようなシステムの構築が即、言論弾圧の行為なのか、という話に関しては、僕は NO と言わざるを得ないのである。
僕は一応、お国のお金をいただいて、世間で言われている代替エネルギーに関わる研究に従事してきた。最初の職場だった某研究所での時期を加えると、結構な年数、代替エネルギーに関わってきたことになる。
その立場として言わせていただくけれど、この日本という国は、代替エネルギーに関して何もしてこなかった、ということでは断じてない。それどころか、この国で研究・提案されてきた新エネルギーのビジョンというものは、少なくとも、最近雨後の筍のように出てきた「自然エネルギー万歳」みたいな人々のような非現実的なものでは決してない。彼等のうちの誰一人として具体的なビジョンを示さない、エネルギーの貯蔵という問題に関しても、たとえば水素エネルギーとかフライホイールとか、そういう次世代メディアに関しての研究開発を行ってきたのである。ぽっと出の素人に、彼等の知らないものがこの世に存在しないものであるかのように言われることは、専門家の端くれとして耐え難い。
だいたい、最近は皆さん「太陽光発電」と「スマートグリッド」があれば万事解決だ、みたいな、実に安易なことを平気で思ったり口にしたりしているようだけど、本当にそうなのか。そしてそこには利権は存在しないのか。
ここを読まれている方々は、日本やドイツが太陽光発電のトップを行く、と思われているかもしれない。しかし、まず頭に入れておいていただきたいのだが、日本は太陽電池の生産において、到底世界のトップには及ばないのが現状である。少なくとも、世界の企業別生産シェアにおいて、日本の企業はトップ3には入っていない。では国別ではどうか、というと、これはドイツとほぼ並んでいるのだが、日独の生産量を大きく上回っている国がある。それは、中国なのだ。
中国の太陽電池生産は、2009年の値で世界シェアの 30数 %、2010年の予想値でも30 % に達している。ちなみに同年の日本のシェアは中国、ドイツ、そして台湾に次ぐ第4位で、その量は 10 % あるかないか、というところである。日本はコスト面での太刀打ちができずに太陽電池の生産を縮小しており、それとは対照的に、中国は貪欲なエネルギーソースの開発を行っていて、国家的規模で太陽電池の生産量を拡大しているのである。
太陽光発電を積極的に導入して成功していると言われているドイツではあるが、実はその太陽電池の大部分を中国で生産している。ドイツには Q-Cells AG という世界最大の太陽電池製造メーカーがあるのだが、国別で言うともはやドイツですら中国の半分程度の製造量しかない。特に中国の Suntech 、Yingli Solar、そして JA Solar の3社は凄まじい勢いで製造量を増している。Suntech に関しては、去年の生産量が 1572 MW というのだから、凄まじいの一語に尽きる。
実は、このように中国の太陽電池の製造量が拡大した背景には、欧州、特にドイツで2001年に施行された Erneuerbare Energien Gesetz(EEG、再生可能エネルギー法)による自然エネルギー由来の電気の固定買取制度がスタートしたことがある。これによって、この10年程の間に急激に太陽電池の需要が拡大したわけだが、コスト的に国内生産では折り合わず、中国での生産に依存するようになったわけだ。
つまり、日本がこの先、急激に太陽光発電に向けて舵を切った場合も、同じように、日本は太陽電池の供給を中国に依存することになる。まあ、エコに関心がある人は、化合物系や酸化物系の太陽電池があるんだ、と言うかもしれないが、技術革新というのはそう簡単にいくものではない。おそらく、この10年、20年のタイムスパンでは、中国の太陽電池生産の優位性が揺らぐことはないだろう。
もし、政治レベルでこのような舵が切られることになれば、中国が受ける経済的利益は、これはとんでもなく大きい。当然そこには利権があるはずだ。菅直人氏や孫正義氏の周囲にそういうものがあるのかないのか、今後、我々は注意しなければならないだろう。土建屋と田中角栄どころではない話が、実は密かに進んでいるのかもしれないのである。