終身刑?

今日、仕事から戻ってきて、TBS 系列の NEWS23X を観ていたときのこと。

今日、僕はどうしてもニュースに集中する必要があった。ローマ教皇ベネディクト16世が生前に退位する、という話を聞いていたからだったが、二番目のニュースとして、その話が始まったときのことだった。

「ローマ法王は終身刑……」

ハァ? と思ったところで「終身制」と言い直したのだが、謝罪や訂正はその後一切なかったのだった。膳場貴子さん、一言あってもいいんじゃないんですか。大体あなた、NHK 出身とはとても思えないようなアナウンスで、ミスの後もニコニコ笑ってるけれど、少しは恥じ入るということをお知りなさいな。

守られるべきは誰なのか

先日の女子柔道のナショナルチームにおける暴力問題に関して、JOC に告発した選手の氏名を公表すべきだ、という意見がある……という話を聞いて、最初、耳を疑った。新聞などを見ると、どうもこういうことらしい:

女子柔道暴力問題:告発選手、調査進まず 氏名公表巡り混乱

毎日新聞 2013年02月07日 東京朝刊

柔道全日本女子代表選手らに対する暴力問題で、被害の実態や背景に迫るカギとなる問題を告発した選手15人への聞き取り調査(ヒアリング)は6日時点で進んでいない。日本オリンピック委員会(JOC)は今週中にヒアリングを開始する方針だが、選手の氏名公表をめぐって関係者の間で見解の相違も。匿名での集団告発への対応の難しさが、浮き彫りになっている。【井沢真、中井正裕、藤野智成】

この問題でJOCは、プライバシー保護の観点から全柔連にも15人の氏名を伏せている。だが、ヒアリング担当者の一人でJOC理事を務める自民党の橋本聖子参院議員が6日開かれた党参院議員総会で「あまりにも選手のプライバシーを守ろうとする観点から、15人が表に出ていないことをどう判断するかは非常に大きな問題」と持論を展開。さらに「プライバシーを守ってもらいながらヒアリングをしてほしいというのは決していいことではない。長年の問題を訴えることは、非常に大きな責任があると選手一人一人が理解しなければならない」と強調した。

この発言が一部で「選手の氏名が公表されるべきだとの認識を示した」と報じられた後、橋本議員は「氏名を公表すべきだとする発言はいたしておりません」とコメントを発表したが、混乱を招いた感は否めない。

選手の代理人を務める岡村英祐弁護士は「現状では選手の不安が大きく、公表は難しい。ヒアリングの担当者(橋本議員)がそういう姿勢だとスムーズに進まない」と懸念を示した。

……いやはや、あきれてものが言えないとはこのことである。

そもそも、なぜ JOC が匿名のまま話を進めているのか。それはここに書くまでもないと思うのだが、もし告発した選手の名前が全日本柔道連盟に知れたとき、その選手達の今後のキャリアにおいて、全日本柔道連盟内で不利益を被らない、という保証がないからだ。

なにせ、今回の件でも、最初は告発を正面から受けずに内々に済まそうとし、事を JOC が公にするや、関係者が辞めること以外に対策らしい対策を何もしていない組織である。この時点で告発者の名前が知れたら、選手生命、あるいは今後の指導者としてのキャリアを絶たれる可能性は、決して低くないだろう。

そもそも、こういう騒ぎが起きているのだから、自分達の組織のことだけを考えていたとしても、コンプライアンスをどのように確立するか、というような話が出てこないのがおかしい。しかし、実際に何処からもそういう話が出てきていないのである。彼らのやったことと言えば、逆ギレめいた会見をして何人かの人間が辞めた……それだけではないか。

全日本柔道連盟寄りの人々(これには谷亮子参院議員も当然含まれるであろう)は、こういうときにそもそも誰が保護されるべきかがてんで分かっていない。最も立場が弱く、最も未来にまでこのことが関わる存在こそ、ここで最も保護されなければならないのである。武道を志していて、こんなことも分からないオツムだったら、それこそ文武両道という武道の均衡を欠いたデクノボウだと言わざるを得まいに。

そして、これに関して、国会議員、そしてオリンピック関連にも顔の利く立場にありながら、橋本聖子(敬称は使わない……今回の所業は到底敬意を向けるに値しないものだからね)は何をホザいているのか。女子柔道選手の芽を摘むためにアンタは議員センセイやってるのか? 本当に、いい加減にしてもらえないだろうか。

愛と鞭

世間では、大阪市立桜宮高校において、バスケ部の顧問教諭から日常的に体罰を受けていた部の主将が自殺した事件に関してあれこれ議論が盛り上がっているようである。体罰容認派、反対派、様々な意見が出ているらしい。

意外に思われるかもしれないが、僕は剣道と居合を高校までやっていたので、この手の体罰に関しては「される側」としてはそこそこの経験がある。では、僕が大学に入って以降、人を教える側に立ったとき、体罰を与えたことがあるか、というと、これはただの一度もない。もちろん、僕が主に大学生以上の人々の教育にたずさわっていたから、というのが、その最大の理由なのだろうけれど、たとえ小中学生が相手であったとしても、僕は体罰を手段として使うことはないだろう。

では、体罰を完全に否定しているのか、と言われると、そうでもないような気がする。何が何でも、相手に目前の問題を認識させ、それに対してどうあるべきか、という課題に向かわせる上で、一発頬を張る、というのは、それはそれなりの効果があるだろう、とも思うのだ。僕自身は、そういう局面では手を上げず、相手のトラウマになるかならないか、ぎりぎりのラインでかなりキツいこと(「君は頭に腐ったオガクズでも詰めてるのか」とか「君には年齢相応のプライドもないのか」とか「君は親から貰った感覚器官で目前の事物を認識することもできないのか、できないんだったら、そういう器官が欲しくても損われている人達にさっさと差し上げるべきじゃないのかね」とか)を言うわけだけど、そういうまわりくどいことを言うよりも、頬を一発張る方が説得力が高く、後々わだかまりを残さずに済むときもあるのかもしれない。

ただし、言葉であっても体罰であっても、こういうことを行う際には気をつけておかなければならないことがある。それらの行為は、それ自体は教育的効果を為さない。キツい一言もビンタも、教育上ぜひとも教わる側に認識しておかなければならないことに、否応なく彼らの耳目を向けさせるための手段に過ぎないのだ。だから、その手段を行使する際には、タイミングを見誤ることのないように、注意深く、そして過不足のないように行使しなければならない。

そして、教える側は、言葉を浴びせられる、あるいは頬を張られる相手と、その痛みを共に負わねばならない。嫌な言葉を吐けば、その日一日気分が悪くなるだろう。最初はそんな言葉を吐かせた相手への憎しみを感じるかもしれないが、早々にその感情は、そんな言葉を吐いた自分自身への嫌悪感に変わる。物理的に頬を張るときだって、掌が充血するだろうし、時には相手の前歯で手を切るかもしれない。それは、相手に問答無用で衝撃を与え、否応なく物事に耳目を向けさせる、という手段でしか相手を指導できなかった自分への責めとして、深く深く受け止めなければならないのだ。

そして、教える側は常に己に問いかけなければならない:自分は、自分のフラストレーションの捌け口としてそのようなことをしてしまっていないだろうか? と。相手が飲み込みの悪い性質だったら、言葉を荒げたり手を上げたりする前に、どうしたら飲み込めるのか、どうしたら咀嚼できるのか、を考え、手を尽すのが、教える側の本来の仕事なのだ。それができない己の至らなさに、常に心を向けられなければ、その人はもはや教育者ではない。

今更こんなことを書かねばならないのは苦痛なのだけど、学校で子供を教える、という意味で使われる英単語には education と discipline というふたつの語がある。最近は後者を使うことは滅多にないと思うけれど、たとえばイギリスのパブリックスクールなどでは、言うことをきかない子供を教師が校長室に連れて行き、校長が部屋に備えつけの鞭で尻を叩く、なんて話が実際にあったのである。こういう教え方を discipline と言うわけだ。

僕は、「教える」という意味での自らのミッションは education であって discipline ではない、と確信しているので、教える相手に手を上げるようなことはないわけだ。しかし、たとえ discipline の方を行うにしても、実は先のパブリックスクールの例などはそれなりに工夫されているのだ。児童に恐怖を与えるのは校長であり、そして尻を叩く鞭は、児童に致命的な傷を与えるようなものではない。

要するに、たとえ discipline であったとしても、相手に苦痛を与える行為の背後には、本来の目的が何なのか、ということを考慮した上での線引きがされている、ということである。愛の鞭というのは、相手を毀損するためのものでは断じてない。そして、与える痛みや恐れの程度は、その対象と効果という観点から吟味に吟味を重ねたものでなければならないのだ。

これはあくまでも僕の推測だけど、先の顧問教師は、おそらく部全体の問題に対して、部の代表的存在である主将を叱咤し、体罰を与えていたのだろう。これは、主将の責任感を喚起し、部全体の一体となったモチベーションを育てる、という狙いで行われていたのだろう……最初のうちは。しかし、やがて主将は、部の代表としての存在を否定されるレベルまで体罰が向けられるようになり、やがて単なるスケープゴートへと存在の意味が変質してしまった。そして顧問教師は、その場その場で、自分の思ったような結果が出ないときに、この主将に体罰を与えるようになった。それは教育的効果が期待できるのだろうか? その場その場で顧問教師が感じたフラストレーションを、ヤギを苛めて晴らす、という、およそ教育の彼岸にあるような行為に、それはなっていたのではないだろうか?

百歩譲って、体罰が許容されるとしても、鞭は愛の実現のために振るわれるべきなのである。相手を毀損しては、何の意味もないのだ。

汗をかく政治とは何か

今日、野田内閣は総辞職し、自民党の安倍内閣は組閣の最終段階に入っている。僕は決して自民党を諸手を挙げて礼賛する気などないのだが、この3年何か月かの間の停滞には、もうほとほと嫌気がさしているわけで、今後、これよりひどくなることはないものと信じたいと思っている。

さて。この模様を報じている記事を引用する(本当は著作権法上好ましくないのだが、新聞社のサイトの記事は消えてしまうので、元記事をリンクで明示した上でこのように引用させていただく)。

民主政権の1198日に幕…野田内閣が総辞職

野田内閣は26日午前の臨時閣議で総辞職した。

2009年9月にスタートした民主党政権は、鳩山、菅、野田の3内閣にわたって続いたが、3年3か月(1198日)で幕を閉じた。

野田首相の在職日数は482日で、民主党政権下の首相では鳩山(266日)、菅(452日)両首相を上回った。

野田首相は臨時閣議の中で、「野田内閣として、汗を一緒にかいたことを非常にありがたく思う」などと約3分にわたり、閣僚たちをねぎらった。首相はこの後、「東日本大震災からの復旧・復興、原発事故との戦いや、日本経済の再生や社会保障・税一体改革の実現などの重要課題には、引き続き政府が全力で取り組んでいく必要がある」との首相談話を発表し、安倍政権での一体改革などの継続を求めた。

(2012年12月26日11時50分 読売新聞)(下線は Thomas)

この記事を読んで僕が思ったのは「ああ、結局彼らは何も分かっていないんだな」ということである。

「汗をかく」という term を民主党議員は多用する。しかし、少し冷静に考えてもらいたい。「汗をかく」というのは「(その主体が)労を尽す」ということである。政治家は労を尽すことがミッションなのだろうか?

「何を当たり前のことを言っているんだ、そうに決まっているじゃないか」

と思われるかもしれない。しかし、これは断じて「否」である。政治家は、その結果のみでその業績が評価される職なのである。どれだけ汗をかいても、民草の票に報いる結果を出せなければ、それはただの無能な多汗症の政治屋であるに過ぎない。

もっとはっきり書こうか。汗など一滴もかかなくてかまわないのである。鼻クソほじりながら鼻歌交じりで、汚いケツをボリボリ掻きながら、であっても一向に構わないのだ。民草のために何を為すべきか、を理解していて、そのための仕事をし、しかるべき結果を出して、民草の票に報いれば、それで構わない。「汗をかく」という言葉は、無能な政治家の精神的マスターベーションに過ぎないのだ

閣僚のうち8人が議席を失い、現役総理にして比例代表名簿に名前を載せるという前代未聞の恥ずべき所業を為して、それでも尚、彼らは何も分かっていない。それが、この「汗をかく」という言葉を考えもせすに吐き、ねぎらいという名の自己・相互憐憫に閣議という国政のための時間を空費して恥じもしないということに、実によく現われているではないか。いやはや、本当に、彼らは未だに、何も分かっていないのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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