僕は何度かここで、愚かな質問者に関して毒を吐いてきた。まあでも、彼らの中には innocent な人もいないわけではないのだ。問題なのは、ある種確信犯的に愚かであろうとしている人の存在である。
2、3日前のことだが、某省庁からの調査書みたいなのが僕の手元に来た。書かなければならないことの数はそう多くないし、上司にいくつか確認を取ればそれだけでこちらで話を済ませられそうだ。上司の暇がありそうな時間に電話をかけ、必要な事項だけを確認すると、ああそれは記入事項あまり多くないんでそちらでお願いします、と、上司の方からも言われて、了解です、と電話を切って、その書類を書いていたのだった。
そこに、違う部署に常駐している同僚から電話があって、これこれこんな書類……と言う。はいはい、あの書類は書かなきゃならない事項も多くないんで、こっちはこっちでもう書いてしまいましたよ、と言うと、
「そちらで書いたのをファクスで送ってくれない?」
「え? いや、書き方の凡例も付いていましたよね」
「でもよく分からないんで、送って下さい。」
こっちもそう暇じゃないんだけどなあ……と思っていると、 「ああそうそう、一回コピー取ってからファクスで送ってもらえると鮮明に読めると思うんで、それでお願いします」
こっちもそんな暇じゃないんだが……とイラッとなったわけだが、まあコピーを取って、ファクスで送信したわけだ。
で、その後に、その日の業務の準備をしているところに、また電話がかかってきたのだった。
「ああ、さっきはどうも。ところで、今何かメールが飛んできたようなんだけど」
アンタは人間 biff か(などと言っても彼にはその意味が分かるまいが)、などと思いながらも、電話の横の端末でチェックすると、確かに上司からメールが来ている。内容を見ると、今度某方面に配布するものに添付することになっている表だった。上司もバタバタしていたのだろう、手元の紙のフォームをスキャンしたらしき TIFF ファイルで送られている。
職場で使っている複合機は、当然スキャナとしても使えるわけだけど、スキャンしたときのフォーマットはこの TIFF か PDF かのどちらかが選べるようになっている。PDF は PDF でまた面倒だったりもするし、体裁を整えてファイルの形で配布する必要のあるものではないので、内輪で送るのにはこれで過不足なし、と、少なくとも僕にはそう思えたわけだ。しかし、電話の主はそうではなかったらしい。
「これって、表示できないよねえ?」
と、いきなりこれだ。いや、こちらでは何の問題もなく表示できていますけれど、と言うと
「いや、その、チャック付いてるやつ(彼は zip でアーカイブされたファイルをいつもこう呼ぶ)を開いたら、中のファイルが開かないんだけど」
ということは、TIFF が表示できない、ということか。うーん。しかし、それはないんじゃないのかね。
「Windows フォトビューアとかありませんでしたっけ」
「そんなのないよ」
調べると、Windows 7 には確かにフォトビューアがインストールされていないとのこと。じゃあ Windows Live のフォトビューアはありますか、と訊くと、入っている、という。起動して下さい、と言うと、
「じゃあ、このチャック付いてるやつを閉じて」
「え? いや、そこからビューアにドラッグアンドドロップすることになると思うので、それは閉じないで下さい」
「いや、閉じないと先に進めないじゃない」
どうやらこの方は、Windows がマルチタスク OS であることをご存知ないらしい。イラっと来ながら操作方法を説明していると、
「お、開いた開いた……え、パスワード要求してくるんだけど。これって危険じゃないの?」
そりゃ Windows Live のソフトなんだから、Live の ID とパスワードを確認してくるに決まってるだろう。無視して下さいと言うと、ここでまた一悶着。そんなことをしている間にも、こちらのアポイントメントの時間が迫ってくる。さすがに僕も堪りかね、
「時間がないんでここまでです」
と言って電話を切った。もうアポイントメントの時間まで1分しかない。準備もろくに出来ないままに、冷や汗をかきながら対応するハメになったのだった。
そして業務が終わった頃、上司から電話がかかってきたので、この2件の質問で往生した、という話を上司にすると、
「それは迷惑かけましたねえ。でも TIFF って、そんなに特殊なフォーマットなの? 僕はあの複合機でそのままスキャンしただけなんだけど」
「いや、TIFF は高精細度のグラフィックフォーマットとしては最も一般的に用いられるもののひとつですから、フォトレタッチとかするユーティリティがあれば開く筈なんですがねえ」
「そうだよねえ。こちらでも何も問題なく使えてるんだけど、あの画像」
と上司も首を捻っている。
で、残務整理をしている最中に、またその同僚から電話がかかってきたのだった。
「さっきの件ですが」
「はぁ」
「○○さんに頼んだら、何か Windows の何とかってソフトを入れてくれて、これで見られるようになった」
なるほど、おそらく Windows Essential でも入れたんだろう。要するに、Windows Live フォト ギャラリーではメニュー形式が複雑でこの人には理解できなかったということか。しかし、その○○さんもお気の毒に。
「で」
「はい」
「そういうことなんだけど」
そういうことなんだけど、で、何か?
「いや、見られて、印刷もできたんでしょう」
「いや、印刷は、画面から摘み出さないとダメなんだわ」
摘み出す? もはや意味不明だ。
「で」
「はい」
「そういうことなんだけど」
だから、この人は何を僕に求めているのだろうか……と、ここではっと気付いた。このオッサン、俺に非を認めさせたいのか?
僕が過去に出会った手合いの中で、おそらく最も悪質な手合いである。要するに、分からないから他人に聞いて何とかしよう、というのではないのだ。分からないのを他人に聞いた上で、うまくいかないのをその人のせいにしよう、というのだろう。事態解決のために質問するのではなく、責任回避のために質問する。そして、己の無能は棚に上げて、アンタがちゃんと教えないからこういうことになったんだ、と、彼は要するにそう言っているのだろう。
さっきの書類の件にしたってそうだ。書き方が分からないんじゃなくて、自分の書き方で何か不具合が発生したときの責めを負いたくないんだろう。だから、僕にファクスを送らせておいて、「Thomas さんの書いた通りに書いたんだ」→「俺は悪くない、悪いのは Thomas だ」……なるほどねえ。
こちらのバスの時間が迫っている。僕はいつも、ここから帰るのに終バスを使っている。これを逃したらタクシー代を何千円も払うはめになる。まだ何か言いたげ、もとい、言わせたげなこの同僚に、はいはいじゃあもう問題ないですね、切りますよ、と電話を切りにかかるが、なかなか向こうは切ろうとしない。面倒なのでこちらではいはい言ってブッチリ電話を切った。
横を見ると、部下が気の毒そうな顔をして僕を見ていた。彼は左腕を折った僕のために、戸締りをいつも手伝ってくれているのだが、彼の帰るのまで遅らせることになってしまった。あの同僚、自分はクルマ乗ってるから関係ないんだろうけどさ。
慌ててバス停に向かい、着いてからの僅かな時間にコンビニで買い物をした。携帯に着信があったのに気付いて見てみると、その同僚からである。どこまで電話してくるんだ。応答する気にはとてもじゃないけれどなれなかった。