眠れぬ夜が続く

この何日か、どうにも眠れずに弱っている。暑いから、というより、湿気があるからなのだが、どうしたらここから逃れられるのだろうか。

思い返してみるに、生まれ育った水戸ではこんなことはなかったと思う。家を出るまで、僕の実家にはクーラーがなかったのだけど、真夏でも朝夕はそこそこ涼しくて、暑さで寝不足になるようなことはなかった。大阪では……いや、大阪でも、結局はクーラーを買うことは一度もなかったのだ。それで何とかやっていけた。

しかし、愛知に住むようになってから、クーラーなしでは生きていけないんじゃないか、と思うようになった。なにせこの辺りは、下手をすると沖縄より気温が高いのだ。沖縄に詳しい人に聞くと、彼の地では風が吹いて、しかもこんなに湿っぽいことはないのだというから、要するに愛知の夏というのは日本最悪だ、と言ってしまって良いのだろう。京都の夏は凄まじい、とよく言うけれど、大阪時代に何度も真夏に京都に遊んだ経験から言うと、やはり愛知の方が過ごし難い。

今日はたまたま家にいるのだが、ついさっき、湿気に耐えかねてとうとうドライを入れてしまった。そんなブツブツ言わずに入れりゃいいじゃん、とか言われそうだけど、部屋を冷やすということは戸外に熱を放出するということである。結局、この地をますます暑くするのに貢献しているに過ぎぬ。いやはや、本当に、どうしてこうも過ごしにくいんだろう。

他人のせいにしてはいけない

TeX Live pretest も、正式リリースに向けて freeze されてからもう1週間位は経ったのだろうか。しかし、僕はついさっきまで、ひとつの問題に悩んでいた。LuaTeX がうまく動作しなかったのである。

症状は、LuaTeX のフォントデータベースが正常に作成されない、というもので、LuaTeX / LuaLaTeX からの呼び出しも、mkluatexfontdb コマンドも、どうも途中でエラーを吐いて止まってしまう。最初のうちは、また何か不具合でも……と思っていたのだが、そのうち pretest が freeze されても、何もそういう話は出てこない。ネット中を探し回っても、そういう話は他では聞かれないのである。

うーん、これはやはり、俺がポカをやっているのかなあ、時間のあるときにちゃんと検証しておこう、と思っていたのだが、今日はたまたま時間があって、shannon-x61 のシステムのフォントディレクトリを見ながらひとしきり考えた。ひょっとしたら、フォントの重複か何かが関係しているのではなかろうか……と。

僕の管理している Linux の端末は、/usr/share/fonts/truetype に TrueType フォント、/usr/share/fonts/opentype に OpenType フォントが入っている。これが TeX のシステムから見えるように、/usr/share/fonts/truetype の中身は /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/truetype/public/ 内に、/usr/share/fonts/opentype の中身は /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/opentype/public/ 内にシンボリックリンクを作成してある。

うーん……まず、重複している可能性が高いものというと、OpenType フォントなのに拡張子が .ttf である IPA フォント辺りかなあ、と調べてみたが、以前に重複は解消してあった。となると、アヤしいのは Microsoft 関連か……と、ふと Microsoft-splitted というディレクトリに目が停まった。これって……と中身を見ると、日本語関連のフォントがいくつか入っている。そう言えば、JIS の字体の絡みか何かで、古い Windows から抜き出したフォントをここに入れていたんだった……むむむ、これぁアヤしい! ということで、このディレクトリのシンボリックリンクを消去した。あと、最近日本語関連のフォントで Debian から入れているもののアップデートがあったので、fc-cache もかけ直しておくことにして、最後に texhash をかけておくことにする。

さあ、ではどうなるかな……おお! ちゃんとデータベースが作成される! 原因はやはりあれだったか! ということで、ここしばらくの問題がひとつ解消された。やはり、何事もまずは己を疑うべきなのであって、他人のせいにしてはいけないのである。

いい加減に教えるな

この歳になると、知人の家庭などでも小中学生に出喰わすことも多くなるし、時には勉強のことで質問されることも珍しくない。で、先日も、そういう質問を受けていたわけなのだけど、何でも中学校では今週辺りが中間試験のシーズンらしく、そういう関係の質問をされていたわけだ。

で、中2の某少年が僕のところに一枚の紙片を持ってきた。今度の英語の中間試験の「出題のポイント」なのだ、という。見てみると、1年の教科書のある単元が示してあり、そこに出てくる「付加疑問文」を出題する、と書かれている。早速、1年の教科書を持ってきてもらって一緒に見てみるが、どこにも付加疑問文は出てこない。先の紙に戻ると、「What 〜 や How 〜 の付加疑問文」と書いてあるのだが(後記: そもそもこの時点で意味不明なのは言うまでもない)……

そこに書かれている、what や how を使った文章を探すと、あるのは「感嘆文」だけである。まさか、この感嘆文のことを付加疑問文なんて書いているのか?

中3の某少女のときは、これにも増してひどい話を耳にしてしまった。比較級とか最大級とかの説明をしてほしい、というので説明していて、-er や -est ではなく、more や the most を使う場合があるんだよ、と、一例として moving を挙げて説明しようとしたら、

「あの、それは mover とか movest とかになるんじゃないんですか?」
「は?」
「あの、6文字までの単語では -er とか -est になる、って習ったんですけど」

僕は怒りで震えた。何処のどいつだ、こんないい加減なことを教えたのは。

どうせそういうことを書いているサイトでもあるんだろう、と思って検索してみると、比較級・最上級を文字数で判別させるような記述の多いことったら……先の子は、これに加えて「6文字以下」と「6文字以上」を勘違いしていたようだけど、いや、そんな問題じゃないんだ。文字数で分けられる? ……もう、呆れましたよ。じゃあ訊くけどさ、以下の単語の比較級・最上級はどうなるんだよ?

  • bored
  • like
  • quiet
  • pleasant
  • unhappy
bored は more / most しかとり得ない。like は一部の例外(詩とか)以外では more / most しかとり得ない。quiet は両方とり得る。pleasant も両方。そして unhappy は7文字、かつ3音節だけど -er / -est しかとり得ませんよ? 猿知恵で子供にいい加減なことを教えようなんて、実にひどい話だとしか思えない。

知人の塾関係者に聞いてみたところ、

「あー、それねえ。おそらくそこら中の中学校でそれ式で教えてますよ」

という恐るべき答が返ってきた。ひょっとすると、ここを読んで「数少ない例外をあげつらって私達を誹謗中傷するのか」と怒りに震えている教育関係者がいるのかもしれない。しかし僕は声を大にして言おう。そもそもここに「字数」などという概念を持ち込んで単純化をはかっている時点で、アンタラには人を教える資格なんてないんだよ。自分が受け持ってる間だけ正しい答を出せばそれでいいわけ? 高校に入って、あるいは社会に出て、今まで磐石だと教えられてきたルールが実は何も根拠がないものだった、となったときの教え子のことを、アンタラは何も考えていないわけ? それで教育関係者だなんて、恥を知れ、恥を。

今にしてつくづく思うのだけど、僕は師には恵まれていたのだった。そういういい加減なことを教わらずに今日まで来られたのは、実は幸運なことだったのだ、と、こういうことを目の当たりにする度に思い知らされるのだ。残念だけど、こんないい加減なことを教わって育つ子達がいる。こういう不幸な子達がいる限り、この国の教育なんて、知れたものだと言わざるを得まい。

the worst one

愛知県警察が web で公開している『交通事故発生状況』というページがある。これを見るまでもないのかもしれないが、愛知県の交通事故死者数は全国でも断トツである。お疑いの方のために、警察庁交通局が毎月公開している交通事故統計の4月末版をリンクしておくけれど、事故発生件数、死者数の双方において、愛知はワースト1になっている。

ここで非常に興味深いのは、愛知から近いエリア、たとえばホンダの生産拠点のある三重とか、スズキ自動車の本拠地である静岡などとの比較である。三重の事故発生件数は愛知に遥か遠く及ばないし、静岡も全体の中では多い方だが、面積的により狭い愛知の 3/4 程の事故発生件数になっている。中部地区の他県と比較しても、愛知県「だけ」が抜きん出て交通事故の件数が多い。つまりは、愛知県というのはそういうところなのだ。

僕は普段自転車で移動することが多いのだけど、たとえば目前に左に曲がる角があるときに、背後から自動車が追い抜いたときには、細心の注意をはらわなければならない。愛知県では、こういうシチュエーションで、ウインカーも出さずに、ろくに減速もせずいきなり左折するクルマが後を絶たないのだ。こういうクルマを称して、この辺りでは「ナゴヤ乗り」と言うし、三河の方に行くと「三河乗り」と言う。しかし、僕に言わせれば尾張だろうが三河だろうが、こういうクルマが愛知県に少なからず存在することには何も変わりはないのだ。

では、自転車や歩行者が常に虐げられるだけの存在なのか、というと、そんなことはない。彼らも虐げる気マンマンなのである。自転車はケータイを耳に当てたり、スマホを覗き込みながらだったり……しかもこの手の輩は、必ずと言っていい程、耳をカナル型のイヤースピーカーで塞いでいる。こちらがベルを鳴らそうが怒号を発しようがお構いなし。まるで「世界は自分だけの為に存在している」と確信しているかのようである。

これは歩行者も同様である。目や耳を塞ぐだけでなく、複数連れになると平気で横に並ぶ。これはカップルだけの話ではない。男5人連れが横一列になって歩いている、なんてのは、そこらを歩いていたらそう珍しくもなく出喰わすものなのだ。お前ら G メンか? などと毒突きたくもなるというものだ。

しかし、今日、僕は自分のこのことへの認識がまだまだ甘かったことを思い知らされたのだ。教会から帰る道でのこと……横断歩道を渡るとき、僕は自転車に乗っていたので、自転車用のレーンを走っていたのだが、目前に、なんと、車椅子を押した女性がいるではないか。僕は自転車を停めて、その女性にこう言ったのだ。

「ここは自転車の通行帯だから、(歩行者の渡るエリアを指差して)そっちに行って」

すると、この女性、僕を睨んでこう言い放ったのだ。

「これは車だもんで」

は? 車輪が付いているから、ということか? 冗談じゃない。電動車椅子やシニアカーですら、道交法上は歩行者扱いなのだ。手押しの車椅子が軽車両だとでも言うのか? 僕は、

「頭の悪いオバハンやなあ」

とだけ呟いてそこを後にしたのだが、本当に厭な思いをさせられた。そもそも、この「ダモンデ」が厭ですよ。この辺の連中に何か注意すると、かなりの高確率で逆ギレした奴が「〜だもんで」と言葉を返してくるんだけど、これを聞くたびに思い出すんですよ。夏目漱石の『坊っちゃん』のこのくだりを。

 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のままうでまくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先まっさきの一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎あいにく掃き出してしまって一ぴきも居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜はきだめててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いでけ出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかりせて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿ばかだ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれをめた。「篦棒べらぼうめ、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生をつらまえてなもした何だ。菜飯なめし田楽でんがくの時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
つくづく厭になる。自分のためにだけ世界が存在しているかのような傲慢さを平気で振り回す、卑しい卑しい田舎者めが。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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