落語で感じる日本語のギャップ
昨日、NHK 新人演芸大賞 落語部門、というのをテレビで観ていた。この結果自体は先月末に既に報道されていたわけだけど、最近は落語を鑑賞する機会も減っているので、これ幸いと観ていたわけである。
しかし、観ているうちに、どうも気になって仕方のないことがいくつかあった。観客は皆笑っているけれど、これ、ちゃんと分かって笑っているのだろうか? と首を捻るようなところがいくつか目についたのである。
立川談志が亡くなったとき、彼が地方講演で演じていたときの映像を NHK が流しているのを観たのだけど、この映像の中でも、描写の内容に関係なくへらへら笑う客に「ここ、面白いところですかね?」と鋭い言葉を投げかける(しかし客は、その言葉の意味も理解できないのであった)場面が出てくる。落語は古典になりかかっている芸能であるが故に、どうしても、事前にある程度知らないと本当の意味が分からない部分が出てくることがある。それを鬼の首でもとったかのように指摘してスノッブを気取る気など毛頭ないのだが、やはりその内容によっては、たとえばまくらで説明しておくとか、そういうケアが必要だと思うこともないではない。今回気になった、というのは、つまりはそういうことなのである。
たとえば、『癪の合薬』という噺がある。持病の癪が起きたとき、やかんを舐めるとそれが治まる、という奇癖(?)を持つ若い女性が出先で癪を起こし、たまたま通りがかった禿頭の武士に女性の妹が懇願し、その頭を女性に舐めさせて癪を治める、という噺である。当たり前のようにこの噺を演じていて、ネットでもそれを評論している連中(「連中」でたくさんだよ、単なる消費者風情が何を評論家を気取っているのかね)がいるわけだけど、最大前提として求められる「禿頭を『やかん頭』と称すること」は、果たして何も説明しなくとも万人に通ずることなのだろうか? 僕にはどうにもそうとは思えないのだが。
庶民のカタルシスの爆発、とでも言うような『かぎや』でもそうだ。殿様(と言ってもこれはおそらく旗本クラスなのだろうけれど)の家来が手入れの行き届いていない刀を抜く場面で出てくる「抜けば錆散る赤鰯」という文句が、昔の剣劇映画などでよく弁士が用いた「抜けば玉散る氷の刃」を知っていることが前提だということを、どれだけの人が知っているのだろうか? 加えて言うと、何故錆びた刀が「赤鰯」なのだろうか?(おそらくは、鰯の銀の皮が剥け、赤い身が露出するところから、「抜き身が赤い」のと「剥き身が赤い」のとを引っかけてこう言っているのだろうが)皆分かっているとは到底思い難い。
今回『癪の合薬』を演った桂二乗も、『かぎや』を演った春風亭昇吉(昇太の弟子が古典かあ、そういうものなのですかねえ)も、そして彼等の噺に関してあれこれネット上で書いている連中も、こういった噺の下敷になっている大衆芸能や古典に関して、果たしてどれ位「自分のもの」として持ち合わせているのだろうか。「自分のもの」になっているならば、それと社会の現状との齟齬は感じる筈だし、そこは折り合いをつけなければならない。知らない奴ぁ分かるまい、とスノッブを気取っているようでは、噺家も客もロクなものではないと思うのだけど。