この blog は簡単な PHP で構築されているのだけど、これを昔の HTML ベタ書きに戻そうか思案中なのである。というのも、この blog が良からぬ輩に目をつけられているので……
おそらく、このエントリーを書いて程なく、中国辺りの偽物ブランド通販サイトの URL がコメントに記入される。おそらく連中の監視リストに fugenji.org が入ってしまっているのだろう。このアクセスは世界中の、セキュリティがザルなサーバを経由して行われる。書き込みがある度にこちらはアクセス記録を解析し、該当する範囲のアドレスからのアクセスを禁止する……という繰り返しになってしまっている。
今のスクリプトに captcha を導入するのも面倒だし、そもそもコメントを活発に求める必要は実のところあまりない。用事のある人はメールを送ってくることが多いので……となると、究極のセキュリティ対策はローテク化なのかぁ?という話になるわけだ。うーん。まあしかし、どうしたものかなあ。
公私共に、この数年間実に色々なことがあって、それまで足繁く行っていたバーから足が遠退いていた。それを心配していて下さったのが、バーリーのI氏だった。毎年年賀状に、どうしているんだ、大丈夫か、と書いているのを目にして、ああ無沙汰をしてしまっている、と思いつつも、敷居が高い、という感じで行けずにいたのだった。
しかし、いつまでもこんな無沙汰をしているわけにはいかない。そう思って、昨年の暮れ、ついにバーリーに赴いた。つもる話に、気がついてみたら明け方手前の時間で、I氏にクルマに乗せてもらい(誤解なきよう強調しておくが、I氏は仕事中は飲まない……彼は手持ちの酒だったらおそらく 100 % ノージングだけでチェックできるので)帰路についたのだった。
ちなみに、僕が無沙汰をしている(&していた)リスト、とでもいうものを下に挙げておこう。
他にも
Bar Neatとかホテルバー(
エストマーレとか
FONTANA DI TREVIとか)まあ色々あるんだが、とりあえず僕は
ark BARに関してはあまり積極的にはお薦めしない。
銀座テンダーばりのハードシェイク、フレーク盛り盛りのカクテルは、見栄として以上の意味をあまり感じないからだ。そうそう、いつだったか、ここで一杯目に
ジンリッキーを頼んだら、横にいる客に聞こえよがしに「へー、ここで一杯目にジンリッキーだってぇ」とか言われて笑われたことがあったなあ。一杯目にジンリッキーを頼む、ということの意味も分からぬ馬鹿な自称スノッブが居着いている店が、少しは変わっていてくれれば良いんだが……そうそう、そして上に挙げていない
Stand Bar、ご存知の方もおありかもしれないが、こここそスノッブを気取りたい連中(そして彼らは良きスノッブですらないのだが)が屯しているので、未来永劫行く気もないし、他人に薦めることもしない。僕の主観で言うならば、ここはクソだ。僕がバーに関して悪いことを書くことは今迄もまず滅多になかったので、その僕がそう書くということでご理解いただきたい。
まあ、そんなことはどうでも良い。僕が特に無沙汰の為に敷居を高くしてしまっていたのが、名古屋で飲むようになって間もなくからずっと世話になっていたBar Barns、そしてYoshino Barで修行したT氏が満を持して独立したBar Kreisなのだ。聞くと、Barns は最近それはそれは繁盛していて、予約を取らないと飲みに行けないとのこと。では……ということで、T氏の Kreis に行ったわけだ。
一目でお互い分かったわけだけど、積もる話をするにはちと時間が遅過ぎた。店は繁盛しているのだ……僕は SMWS のボトルの中身をニートで数十分かけて飲み、上海を作ってもらい(このオールドスタイルのカクテルを作るのに必要なアニゼットを置いている店は最近どんどん少なくなっている……)、店を出た。彼はバリバリ最前線で働いている。うん。彼ならば当然だ。彼が芳野バーを任されたときから、彼がきっちり仕事をする人だということはよく分かっている。そう言えば、あのビルの電源が落ちて、一緒に懐中電灯持って原因探しをしたりしたこともあったっけ。その彼がオーナーバーテンダーになったのは、むしろ遅過ぎる位のことだったのだ。
そして、刈谷時代からの酒飲みとしての知り合いであったF氏の finch に行く。ここでも色々積もる話をしたのだった。今度は Barns に、予約をして行かなければ。H氏だけでない。O氏にもI氏にも、あまりに無沙汰をし過ぎているのだから。
カトリックのミサでは、司式を担う神父の説教がある。プロテスタントの牧師の説教みたいにパワフルな口調で行われることはほぼないわけだけど、いやいやどうして、なかなか聞いた甲斐のある話を聞けるものなのである。
僕の所属教会にF神父という司祭がいる。彼はフィリピン人なのだけど、カトリックの司祭だから、その地の言葉でちゃんと説教をする。訥々とした口調であるが故に、どきりとさせられることがあるのだ。先日の説教で、こんな話を聞いたのである。
ある人が亡くなって、その人は生前の行いが清いものだったので天に上げられた。その人が天の入口に着くと、天使が彼を案内して、門にあたる建物の中に通された。すると、そこの壁には一面に箱のようなものがしつらえてある。
「これは何ですか?」
彼が天使に聞くと、天使はその箱の一つを開けた。中には耳が入っている。
「全部、ここにある箱には耳が入っています」
と、天使は言う。彼が理由を尋ねると、天使は溜息をつきながらこう言った。
「この耳の持ち主達は、有り難い教えを、たくさんたくさん聞いてきたのです。だけど、その教えは耳から先には入らなかった。だから、耳だけが天に上げられたのです」
ああ、確かに、僕の所属教会にも、こいつは耳しか天国に入れないんだろうなあ、という輩がたくさんいるよなあ……いや、他人のことはさておき、自分自身はそうならないようにしたいものだ。
以前にもここに書いたことがあるかもしれないが、僕は朝日新聞の取材を受けたことが一度だけある。ネット上での個人情報の取り扱いに関する話で、僕がもう20年近く前からこの問題に関するコンテンツを公開しているので、これに関する問い合わせだったのだけど、それに関して僕がメールでコメントする際に使った「web ページ」という言葉が全て「ホームページ」に置換されて記事に掲載されてしまった。そのために僕はある人に昂然と非難されてしまい、その人に「いや僕はホームページなんて書いてないんだけど」と説明したところ「ああ、朝日ですからねえ」と言われ、何だかなあ、と思いつつ朝日新聞社の記者にメールを送ったのだった。「あなた、二塁ベースを指してホームベースとは言わんでしょう、ホームページってのは home position にあるページってことで、web ページを全部ホームページと称するのはおかしいんですよ」……で、その記者からは一切返事は返ってこなかった。完全に黙殺されたのである。
この一件で、僕は、朝日新聞という新聞が、一見リベラルな風に見えて、その実えらく硬直して、権威主義的で、しかも傲慢な集団なのだということがよく分かった。その後も数える程だがいくつかの新聞社の取材を受けたことがあるけれど、記者の人々は極めて丁寧にメールの返事をくれたから、僕があんなめに遭ったのは朝日新聞のときだけなのだ。まあ、あくまで個人的な経験から得た印象なので、客観的にこうだと言う程のことではないのだろうけれど、ただ客観的に確認し得るイベントを考えても、韓国におけるいわゆる従軍慰安婦問題に関する経緯などを見たら、まあ僕のこの不信感が増すことがあっても、払拭されることはそりゃないだろう、という話である。
そんな新聞社としての朝日新聞と、そのグループ企業であるテレビ朝日を同一視してはいけないのかもしれないが、しかし今回流れたこの報道には、僕は同じ臭いを感ぜずにはいられないのだ:
「Mステ」で曲目や歌詞変更、人質事件に配慮?
テレビ朝日系で23日夜に放送された音楽番組「ミュージックステーション」で、2組のアーティストが曲目や歌詞の一部を変えて演奏していたことが分かった。
「イスラム国」の関与が疑われる日本人人質事件に配慮したとみられる。
男性グループ「KAT―TUN」が、新曲「Dead or Alive」を「WHITE LOVERS」に変更。ロックバンド「凛として時雨」は、「Who What Who What」の歌詞「血だらけの自由」を「幻の自由」に、「諸刃のナイフ」を「諸刃のフェイク」に変えた。テレビ朝日広報部は「アーティスト側と昨今の状況を鑑み、協議した結果」としている。
(2015年01月24日 23時50分 読売新聞)
何が「アーティスト側と昨今の状況を鑑み」だよ。そういうのを言葉狩りって言うんじゃないのかね。かつて、ドキュメンタリー作家の森達也が作った『放送禁止歌』という番組があった。森氏に限らず、この手のドキュメンタリーには、登場人物に挑発的な質問をして本音を吐かせる手法が用いられるわけだけど、森氏は高田渡氏に「言葉を言い換えて歌う気は?」という質問をぶつけている。これに高田氏が何と答えたか:
「ない。ない……うん……そういうのは一切ないですね。そういう風にして表現したいんだから」
しかし、後に森氏が出した本には、この辺りの流されなかったやりとりが書かれている。それは高田氏の『生活の柄』という曲に関しての話でのことだった。この曲は山之口貘の同名詩に曲を付けたものである。山之口氏は没後50年を過ぎているので、ここに元の詩を引用しておく:
歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてもねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏向きなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねむれない
高田氏の歌では、この氏の「浮浪人」を「浮浪者」として歌っているのだが、NHK に高田氏が出演した際、この曲を歌おうとしたら「浮浪者」という単語が放送できないとのことで歌えなかった、という話をしていた件である。
「……じゃ、浮浪者をホームレスに言い替えて歌えばいいんですね」
この質問はあえて口にした。そして狙いどおり、それまではほとんど俯いたまま小声でインタビューに応じていた高田渡は、僕のこの質問に一瞬の間を置いてから、顔を上げ少しだけ目を剥いて、別人のように激しい口調でこう言いきった。
「絶対にそれはない。歌とはそんなものじゃない。もし言葉を言い替えたならその瞬間に、この歌は意味をすべて失う。だったら僕はもう歌わない」
(『放送禁止歌』より引用)
僕も音楽を趣味とする者の端くれではあるわけだけど、自分の書いた詞を状況に応じて変更する、という感覚は、残念ながら理解できないのだ。そういう意味で、それを要求したテレビ朝日は、文化というものに対してあまりに傲慢だと思うし、それに対して気安く歌詞を変更した凛として時雨は正直言って理解できない。だって、「血だらけの自由」って件を変更したんでしょう? それじゃあ、「血だらけの自由」より「血を見ない不自由」の方を選択した、ってことだよね。なるほど。そういうスピリットなのねえ……って言われてもしようがないよねえ。ダメダメでしょう、それは。僕はロック = 反体制、だなんて思っていないけれど、そんなバンドの何がロックなんだろう。