書きゃあいいってものじゃない

イスラム国の日本人人質に関する話でメディアは大騒ぎしているわけだが、僕は正直言って、特に今日になってからのネット上での情報公開の経緯に関してかなり腹を立てている。それは人質のひとりである後藤健二氏に関する話である。

後藤氏が日本基督教団の信者であることは、クリスチャントゥデイの記事などで目にしていたのだが、僕はその内容や、後藤氏がクリスチャンであることが流布されることに警戒をしていた。このことが相手に分かったら、彼にとって著しく不利な材料になってしまうからだ。

誤解されないように強調しておくが、一般的なムスリムはクリスチャンに対して攻撃的ではない。なにせイエスはイスラム教においても預言者の一人という位置付けだし、そもそも根っこでは同じ起源を持っているものだ。十字軍に関する血塗られた歴史はあるけれど、大多数のムスリムは平和を愛する。こちらが攻撃しない限りは、彼らだって至って平和的なのである。

しかし、今回ばかりは話が異なる。相手はあのイスラム国である。彼らはアルカイダすら排除した程の急進的な実践的イスラム原理主義者であって、しかも彼らの現在の戦いを十字軍との戦いに準えている。だから、相手がキリスト教徒であるか否か、ということは、おそらくかなり大きな要素として作用するはずなのだ。

だから僕は、クリスチャントゥデイに「後藤氏に関する記事を一時的にアクセスできない状態にはできないものか」とメールを送っていたのだ。それを、英語版の Christian Today では、彼はキリスト教徒のジャーナリストで……などとわざわざ紹介する記事を出し、Wikipedia にも何者かがそこを強調するような記述を加えている。Wikipedia に関しては、'SZK58" という ID の人物が2015年1月20日 (火) 07:22‎ にその書き込みを行ったことまではトレースしたのだが、この記述はそのまま英語版の Wikipedia にも転載されている。もう世界に向けて、彼がクリスチャンだということが公になってしまったのだ。

彼らはどうしたいんだ? 後藤氏を殉教者にでも仕立て上げたいのか? 真実を晒すことが人命より優先されるというのか? 冗談じゃない。書きゃあいいってものじゃないんだ。彼が殺されたら、その何十 % かの責めは、Christian Today や SZK58 に向けられるべきだ。アンタラ想像力がなさすぎだろう。えぇ?

disinfection

通常は自転車通勤をしている僕なのだけど、あまりに颪が強かったり、雨が降りそうな空模様だったときには、バスで通勤することになるわけだ。しかし、このバスが曲者なのである。

職場に行くまでに、2本のバスを乗り継ぐ必要があるのだが、ひとつは極端に利用者が多い。利用者は僕同様通勤、あるいは通学に使用している人々、そして何より多いのがお年寄りである。

名古屋市は、福祉政策の一環として敬老パスなるものを交付している。これは、65歳以上のお年寄りを対象にしているもので、年間多くても五千円の負担で、市バスと地下鉄が乗り放題、というものである。まあ、運転の怪しい自家用車が減る上でも、この政策の恩恵を僕も間接的に享受していると思うのだけど、このパスのおかげで、名古屋市内の公的交通機関はお年寄りで溢れ返っているわけだ。

お年寄りに元来変な恨みなど持ち合わせてはいないつもりなのだけど、名古屋市のこの敬老パスでの利用者のマナーは概してよろしくない。群れる、騒ぐ、道を譲らない、並ばない……という、僕を苛立たせることの他にもう一つ問題があって、お年寄りの一定割合の人々は、マスクもせずに平気で車中でゲホゲホやらかしているのである。これが僕は怖くてたまらないのだ。

そして、もうひとつの路線は、大きな医療機関が沿線にあるので、いつも病気の方がバスに乗り合わせている。これはある意味仕方のないことだと思うのだが、やはりこれが僕は怖いのだ。

だから、いつからか、僕が職場に来たときに最初にやることは、洗面所のタオルを交換してから手を念入りに洗い、その後にうがいをすること、と決まってしまった。どんな風なのか、今日の場合を例に書いてみようと思う。

職場に着き、コートを脱いでから、まずタオルを交換する。これ用に自腹で買い溜めたタオルを置いているので、そのストックから1本取り出して、昨日のタオルと入れ替える。前日の帰り際にこれをしないのは、手を洗う直前にやりたいから、そして帰りのバスで僕自身が他人の感染源になってしまうことを防ぐためでもある。

それから、腕時計を外して、洗面所でぬるま湯を出して手と束子(このためだけに元祖亀の子束子1号を1個買って置いてあるのだ)を湿らせてから、泡タイプの手洗いフォームを出して、まず束子の毛が届く範囲内を念入りに擦る。束子はやり過ぎだ、と言われそうだけど、近所に手洗い用のナイロンブラシを売っていなかったのと、医師が手術前に手を洗う際にも昔は束子を使っていたというのを聞いたので、目下これを愛用している。

それから、指の谷間や親指の付け根の周囲、手首等、束子で洗い切れているか微妙なところを念入りに擦り合わせてから、ぬるま湯で完全に洗い流して、さっき交換したばかりのタオルで拭く。それから自分のマグカップにぬるま湯を満たしてうがいをする。マグカップなみなみ1杯分のぬるま湯でうがいを終えて、さあ、準備完了、仕事にとりかかる……というわけだ。

強調しておきたいのだが、僕は潔癖症ではない。むしろズボラな方なのである。しかし、職場の人間をそれに巻き込むようなことはしたくない。だから、これが習慣になっている、というだけのことなのだ。これだけやっても 100 % だと言えるかどうか分からないわけだけど、とりあえずこれでどうしようもなければ、それは他の誰がどうしたとしてもどうしようもないのだろう……と、納得することだけはできるのだろう。まあ、そういう程度のことに過ぎない。でも、これで手を抜いて、車中で病気を拾ったり、それを他の誰かに伝染させたら、と考えると、それは寝覚めの悪い話だろうと思う。だから今日も、「痛ぇな」と独り言ちながら、僕は手を洗っているのであった。

幸せな人

日々、生活していると、実に横暴な人に会うことがある。そういう横暴な人に限って、自分のしていることを棚に上げて、こちらが物申すと、まるで頭の上に人工衛星でも落ちてきたような顔をして、己に向けられたもので如何に自分が傷付けられたか、そしてそれが如何に理不尽なのかを一方的、かつ声高に主張する。

そういう手合いのことを、僕はこう表現することにしている:「世界は己のために存在しているのだと確信する人々」僕はそういうことを確信することなぞ到底できないものだから、時々そういう手合いに出会うと、ほんの少しだけだけど羨ましく思ったりもする。どうしたら、あんな風に、世界が自分の見えているものだけで存在していると確信できるのだろう。

先日、僕はこんなことをここに書いた:

しかし、この年末年始に、色々なことが僕の耳に入ってくる。なんでも某所で僕のことを面倒臭い人だ、とか言っている人がいて、ところが僕はその人に会ったことがただ一度しかないわけだ。アンタ俺の何を知っているんだっての。ユダの罪が神の意志によるものなんじゃないか、みたいなことを書いていたので「グノーシスもご存知ないのか」と指摘したら、何も反応が返ってこないと思ったら、そんなかたちで憂さを晴らしているわけね。いやー。アンタの方が余程面倒臭いし、それに有害だっての。いや本当、馬鹿だということも分からぬ馬鹿の有害なことよ。
そうしたら、当の本人がどうやらそれを読まれたらしい。「ひどいことが書かれている」と、わざわざ U にメールで連絡してきたそうな。

まず確認しておこう。ここに書かれていることは事実なんですよね。僕は当然だけど、ここに書かれたことの経緯が事実であることを確認した上でこれを書いているわけだ。僕が何か嘘を書いているとでも言うんだったら笑止千万というものだ。ここに書かれている「ひどいこと」は実際に言われたことで、それは僕があなたに言ったことではない。あなたが僕に対して言ったことなんだよね。それも僕の知らないところで。僕のことなど何も知らないのに。

そしてもう一つ確認しておかなければならない。被害者は誰なんですかね。それはあなたじゃない。僕なんだよ。陰口を、あなたが誰にどこで言っていたのか、その範囲は分からないけれど、まずはあなたが己の口さがない陰口を恥じるべきじゃないんですかね。繰り返すけれど、「恥を知れ」。

いやはや、それにしても、あなたは幸せな人だ。この世界があなたのためにだけ存在しているとでも思っているんだろう。それはあなたの勝手なのかもしれないけれど、それに他人を巻き込むのは勘弁してもらえませんかね。そして、これだけ言っても尚、自分が被害者だ、などと吹聴できるんですかね。あなたが加害者なんだよ。勘違いしないでいただきたい。

私のところでは……

某 Q&A の場所にて、ある PDF を画面で表示させると文字がかすれる、という質問があった。ああ画面の解像度との兼ね合いでそうなっているんですよ、だからね……と回答してから寝たのだったが、起きてみると、その筋で有名なお方お二人が「私のところではかすれません」と書き込まれている。

そりゃそうだろうねえ。片方のO氏はたしか Mac ユーザだったはずだし、もう片方のH氏は印刷会社で論文を含む各種文書の版組みを仕事として行われている方だったはずだから、どちらの方も、解像度の低い環境とは縁遠い日々をお過ごしなんだろうと思う。そんな環境でその PDF をご覧になったって、そりゃあかすれないでしょうね。

でも、ここは、安い Windows のノートパソコンを使ってるユーザのことを、少し位は慮らなきゃいけないところなんじゃないだろうか。その筋で名の通っている人が「私のところではかすれない」と発言する、ってことは、「この問題に関しては『かすれない』ことが政治的に正しい」「かすれてるあなたの方がおかしい」というニュアンスを相手に与えかねないんじゃないんでしょうかね。

この手の質問に対して「私のところでは」と答えたくなる気持ちは分からないでもないけれど、少なくとも相手は、相手の環境下において困っているのが明白なんだから、そこは最初に配慮すべきところだと思う。僕は「貧乏人は麦を食え」という言葉を思い出しましたよ。後付けでその発言を正当化することはなんぼでもできるんですよ。「いや、米より小麦の方がビタミンB1 を含んでいて脚気になりにくいので」とかさ。でも、最初の発言に込められていた言霊が、傲慢な色を感じさせるものだからこそ、その発言は責められるわけでしょう。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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