論理的思考力の養成

論理的思考力の養成、という、ちょっと煩わしい仕事ができてしまった。教材をどうするか、目下悩んでいるところである。

そもそも、僕自身は理系なわけで、今迄の人生イコール論理的思考のトレーニング、みたいなものである。誰もやったことのないことである見解を示さなければならないときに、そういう論理的思考力は大事な武器になる(決定打にはならないことが多いんだけど)。だから、そういうトレーニングを、最初は教官から、やがて自分で、厭という程してきて今日に至るわけだ。

僕はどちらかというと実験系なわけだけど、それでも記号論理学位は齧っている。だけど、今回の「論理的思考力の養成」なるオシゴトは、そういうトレーニングを積んでいない人が対象なのである。さて、どうしたものか。

たとえば、「国際論理思考試験模擬試験」なんてのがある。これは P&G 社が社員の能力判定用に使用しているものらしいけれど、中学生の数学位の範囲で、論理的思考をはかるというもののようだ。しかし、今回の目的は判定でなくて養成なので、この手の問題ばかり解かせていても、退屈されておしまい、ということになりそうである。

ネット上で「判断推理問題集」なんてのを見つけたので見てみると……

次の各命題:

  • 猿が好きな人はトラが好きである。
  • 犬が好きな人は猿が好きである。
  • 猿が好きでない人は猫が好きでない。
  • キリンが好きでない人は猿が好きでない。
が成り立つとき、確実にいえるものはどれか。
  1. キリンが好きでないかまたはトラが好きでない人は犬が好きでない。
  2. トラが好きな人は犬が好きでない。
  3. 犬が好きか猫が好きな人はキリンが好きである。
  4. キリンが好きな人はトラが好きである。
  5. 猫が好きな人は猿が好きである。
……うーん、これは論理学の初歩的問題だなあ。愚直にやれば出来るけれど、論理的に高度だというわけではない。

……とか書くと「え? そんなん言ってて Thomas さん出来ないんじゃないの?」とか言われそうだから、解いてみましょうか。まず、上の各命題をよりシンプルに書くために記法を定めることにして、猿・トラ・犬・猫・キリンをそれぞれ M, T, D, C, G (老婆心ながら書いておくけれど、キリン = 麒麟は日本語で、英語では giraffe と言います)と書くことにする。「好き」を l、「好きでない」を d と書くと、上で前提として与えられた各命題は、

  • 命題 1: M l ⇒ T l
  • 命題 2: D l ⇒ M l
  • 命題 3: M d ⇒ C d
  • 命題 4: G d ⇒ M d
と書ける。同様に、これらの対偶:
  • 命題 1': T d ⇒ M d
  • 命題 2': M d ⇒ D d
  • 命題 3': C l ⇒ M l
  • 命題 4': M l ⇒ D l
も成り立つ。

先の問での各項目は:

  1. G d ⇒ D d and T d ⇒ D d
  2. T l ⇒ D d
  3. D l ⇒ G l and C l ⇒ G l
  4. G l ⇒ T l
  5. C l ⇒ M l
と書けるわけだが、
  1. 命題 4 と命題 2'、命題 1' と命題 2' から成立
  2. 命題 1' と命題 2' から不成立
  3. 命題 2 と命題 4'、命題 3' と命題 4' から成立
  4. unknown
  5. 命題 3' から成立
ということで、1.、3.、そして 5. が答、ということになる。

……しかし、だ。こんな問題が解けるからって、論理的思考力が豊かだ、というわけではないだろう。論理学の初歩で習う所定の手続きを愚直にこなすことができれば、機械的に答を選択することができるからだ。

さぁ、それではどうしたもんかな……結局、一から自分で教材を作成しなければならないのだろうか。

激安眼鏡店のからくり

この何年か使っている眼鏡のレンズはプラスチック製なのだけど、これにかなり傷が入っている。おまけにここ最近、コーティングの剥離が気になってきて、ちゃんとしたものを買うまでのつなぎに、と、今日某所の激安眼鏡店なるところに行ったのだった。

この店は、まずフレームを選び、伝票記入、視力測定を行った後、30分程で出来上がりの眼鏡を渡すのが売りの店である。僕もまずフレームを選び、一応視力の確認をしたが、レンズの度数の変更はしなくても済みそうであった。

「当店では非球面レンズのバランスの良いところを使用しております」

と、自信満々の店員に、

「そのレンズなんですけど……」
「はい」
「プラスチックですか?」
「はい、当店ではプラスチックレンズをお薦めしておりますが……」

僕は諸々の事情から、レンズに傷を生じ易いものを色々扱わなければならない。今使っているレンズのこともあるので、プラスチックレンズは避けたい、と思っていたので、

「レンズはガラスにしたいのですが……」

と言うと、「はぁ?」と聞き返された。店員、机の下の方からレンズのデータシートを引っ張り出してあれこれチェックし出して……

「……三週間程お時間を頂くことになってしまうのですが」

と言う。はぁ? と、こちらが聞き返したいのを抑えつつ、まあ今使っているのがあるんで、待てないこともないんですがね……と言うと、この店員、

「あの、お客様は今迄ガラスのレンズをお使いになられたことはおありですか」

と、剣呑な顔で聞いてくる。はいありますが? と返事をすると、

「……少々調べさせていただきたいので、そちらにかけてお待ち下さい」

と、店内の椅子を指差される。はいはい……と、数分待つと、別の店員が僕を呼び、再び「三週間程……」の件を聞かされるが、僕はもう待つことに決めていたので、その旨伝えてから、

「……別途費用とかかかるんですかね」

と聞くと、いいえそのようなことはございませんが……と、まるで珍種の生物でも見るような目で見られながら、料金を払い、店を後にしたのだった。

要するに、こういうことなのだろう。この店では、プラスチックレンズだけを店頭で扱う。そうすれば、フレームに合わせる加工等を極めて速く行うことができる。だから客数を捌くことができて、単価を下げることができる……で、そういう店の経営構造において、僕のようにガラスレンズを希望する客は、まさに珍種の生物のような存在であって、店の勝手を理解せずに面倒なことを要求してくる、そういう客だということなのだろう。

三月上旬、僕があの店に行ったときに、店員にどういう風に扱われるのかが楽しみだ。ひょっとしたら、ガラスレンズにろくな在庫がなくて、牛乳ビンの底みたいな代物を押し付けられるかもしれないが……まあ、そういうことはないですよね。僕もそう思いたいのですが。

勘違い?

前に何度か、イターい売り文句のケーキ屋の話を書いたことがある。御記憶の方もおられると思うのだが、もう一度書こう。

大阪に住んでいた頃のことなのだが、近所に新しいケーキ屋がオープンすることになった。僕は酒飲みなのに甘いものも好きなので、機会があったら買いに行こうかなあ、などと思っていたのだが、ある日そこに通りがかったら、看板にデカデカと "Taste Of Mommy" と書かれていたのだった。

よく、こういう話をすると、いやその店やってる人が込めている心ってのがあるだろう、それを踏み躙るように嘲笑するんじゃないよ……みたいなことを言われるのだけど、いやーこれはちょっとマズいんですよ。おそらく、このお店の方は「おふくろの味」みたいなフレーズを探していて、"Taste Of Honey" からの連想で "Taste Of Mommy" と書いたんだろうと思うけど、僕の知る限り、"Mom's Taste" とか "Mother's Taste" ならそういう意味になるけれど、"Taste Of Mommy" だったら、幼児プレイ好きの mother-fucker とか、マザコンの果ての人肉嗜食者みたいな奴しか連想し得ないのだ。日本人はしばしばこの手の間違いをするけれど、これはちょっといただけないパターンだ。せめて誰かネイティブに聞いてみればよかったのに……と、今でも思う。

さて。あまり人をあげつらいたくはないのだけれど、今日の新聞に入っていたミニコミ紙をペラペラとめくっていて、妙なタイトルのコラムを発見したのだ。『エシカルでいきましょ』というタイトルなのだけど、その横に『※エシカル = 「思いやり」』と書いてある。

僕が知る限り、英語の場合は ethical = 「倫理的」であって、思いやり、などという意味で用いられたのを聞いたことがない。このコラムの筆者は JICA の関連施設で外国語での絵本を読むイベントなどを主宰されているらしいのだが……うーん。どうなんですか、それって。

僕が英語以外にかじったのはドイツ語位で、他にはラテン語の宗教関係の語彙が少し……位である。僕があまり知らないフランス語ではどうだろう……と調べたけれど、たとえば "sentiment chaleureux" とか、そんな感じになる、らしい。ラテン系の言語でも、「エシカル」という発音で「思いやり」という意味になる、という話は、残念ながら聞いたことがない。

外れていたら非常に失礼なのを、あえて書かせていただくけれど、この方は英語圏で ethical consumer とか ethical jewellery とか言うのを、何か誤解されているのではないだろうか? あの ethical というのは、社会規範を尊重するとか、(倫理的行動によって)環境に配慮する……という意味であって、「思いやり」なんてニュアンスはどこにもないのだけど。何をどうしたら、ethical という単語から「思いやり」なんて日本語に至るのだろうか。僕の勘違いだったらそれでいいけれど、どうも僕にはそうとは思えないのである。

平清盛

普段は僕はドラマというものを見ることはほとんどないのだけど、U が見たいというのに付き合う格好で、NHK の大河ドラマ『平清盛』を見ている。このドラマに関しては、井戸敏三・兵庫県知事が1月10日の記者会見で:

私も日曜日観ました。画面が汚いですね。あんな鮮やかさのない薄汚れた画面じゃチャンネル回す気にならないんじゃないかというのが第一印象。家のテレビ、色がおかしくなったのかなと思うような画面だった。プロデューサーも意図があるのかも知れないが、あんな汚い画面を日曜日の憩いどきにやらなくてもいいんじゃないか。もっと華やかで、生き生きとして躍動感の溢れる清盛らしさを強調して頂くといいなと思った
と発言して物議を醸している。

この井戸知事、相当数の批判を受けたにも関わらず、その1週間後には:

先週言った通り。明るい画質を検討してもらったらと思う
そしてそのまた1週間後には:
(画面の明るさなどを変更しないとNHK側が語ったことについて)今変えたら(NHK の)全面敗北になる。世論の動きで見直さざるを得ないこともあるだろうから、期待している
瀬戸内海に船が浮かぶ場面で真っ青な海の色が出ていない。瀬戸内海の自然をきちっと映し出してほしい
と、未だにこのような発言を繰り返している。今日も兵庫県では知事の定例記者会見が行われるはずだから、ひょっとするとまた今日も何か発言するかもしれない。

これらの兵庫県知事の発言は、全く以て的外れのものと言わざるを得ない。『平清盛』の画面が鮮やかでない理由はふたつあって、ひとつは、当時の武家……力を失いつつあった貴族に賤民であるかのような扱いを受けつつ責務を負わされていたわけだけど……社会やその周辺というものを少しでもリアルに描写したら、ああならざるを得ないから、というもの。もうひとつは、少なくとも現時点での『平清盛』の画像は、カラーバランスをわざと崩して、緑の発色を強めにしてあるからだ。

これは、銀塩写真に慣れ親しんだ僕にとってはよく分かる話で、昔のリバーサルフィルムの発色、あるいは色が褪せつつあるフィルムの発色を模倣するために、このようなカラーバランスを選択しているのだろう。こんなことは、あの映像をちょっと見たらすぐに分かる話なのであって、そんなことも分からない輩が何事か物申す資格などないのだ。井戸敏三さん、これ以上何か言う度に、あなたの浅さがどんどん露呈するだけだから、あなたの名誉の為にも、もう口を閉じた方がいいと思いますがね。まあ、それができないところにその浅さがさらに垣間見えるわけだけど。

さて、では僕が『平清盛』に諸手を上げて賞賛を送るのか、というと、これは NO である。ひとつだけ、どうにも違和感を感じて仕方ないことがあるのだ。それがこれ(他に方法がないのでこのように引用をさせていただいた……ご理解を頂きたい)なのだが……

この旋律は、吉松隆氏によるオープニングの主旋律の一部で、曲中 coda や、劇中の歌謡が出てくる場面において繰り返し引用される。いや、テーマソングや劇伴として出てくるのならば、何も文句を言うことはないのだが、この旋律にこの歌詞が付けられたら、これはやはりおかしい。

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん

遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

これは後白河法皇が編んだと言われる『梁塵秘抄』の一節である。僕は『梁塵秘抄』というと、上記の歌よりもむしろ、

仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる

人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ

の方が思い浮かぶのだけど、まあそれはともかく、『梁塵秘抄』に収録された歌は、仏法に関する内容であってもなくても、当時「今様」と呼ばれた歌謡をまとめたものである。今様の一例を以下に示す:

「遊びをせんとや……」の歌は、遊女が己の身の哀しさを歌った、という解釈もあるらしい……『平清盛』ではそれを匂わせているようだった……けれど、『梁塵秘抄』全体を通じて、人のもっとプリミティブな感情、たとえば崇敬とか憧憬とかいうものが反映された色彩が濃いので、この歌は見た通りのがんぜなさを歌ったものだろうと思う。

さて、このような日本の歌謡というものが、明治以降に、西洋の音楽体系の中で扱われるようになったときに、その特徴をよく「ヨナ抜き」「ファシ抜き」と言い表した。一番基本的な音階が "C・D・E・G・A" だからだが、これ以外にも数種類の旋法(音階)が存在する。これらに共通するのは "B"、つまり、ドレミファソラシドの「シ」が出てこないことである。

さて、では『平清盛』での問題の旋律はどうか。もしこの旋律を階名唱するならば、

レミミレ ソミレド シドレミシ
となるはずで、「シ」が出てくる。しかし、こんな音階は、平清盛の時代……どころではなく、近代まで日本には存在しないものだったのだ。諸説あるけれど、旋律で「シ」を使うようになったのは、滝廉太郎が明治末に『荒城の月』を書いてからだ、といわれている。

ではなぜ、この旋律に「シ」が出てくるのか。それは、この旋律中「シ」の出てくる部分の背後にある和音が VIm9(低い方から ラ・ド・ミ・ソ・シ)であるから……だろうけれど、この和音がポピュラーなものとして聞かれるようになったのは、おそらく戦後のことだろう。僕などは、マイナーナインス、と聞くと、70年代の NY シーンとかを連想してしまうけれど、日本人がこのようなモダンな和音を耳にするようになったのは、おそらくは「三人の会」以降、とか、そういうタイミングではないかと思う。

このような旋律・和音に『梁塵秘抄』が乗せられ、しかもそれが時代劇中で引用される……というのは、非常に強い違和感を感ぜざるを得ない。不見識な人があの映像をコキおろすのとは違う話である。せめて『梁塵秘抄』を使うのならば、たとえば桃山晴衣とか、他にもいくらでもやりようがありそうなものなのだけど…… NHK さん、これは何とかしていただけないでしょうかねえ。かつて芥川也寸志とか團伊玖磨とかが活動していた頃、NHK ではこんなポカをすることはまずなかったはずなのだけどなあ……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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