北米プレート仮説

先ほど、静岡東部を震源とする強い地震があった。このところ、岐阜の高山辺り、富山、そして今回の静岡、と、東日本大震災の震源以外の震源による地震が頻発していて、皆さんも不安な日々をお過ごしのことと思う。

地震の専門家の方々は、やはり憶測でものを言うことができないので明言を避けられているようだが、この一連の地震を地図で見ると、あーなるほど、と思わされる。どういうことかというと、一連の地震(東日本大震災を含む)の震源は、ことごとく北米プレートの辺縁部を震源としているのである。

あいにく僕は地質学に関しては素人同然で、ここで言っていることは現象論的な推論の域を出るものではない。しかしながら、北米プレート辺縁部とその近くにお住まいの方々は、この辺縁部で地震が起こる可能性に関して常に頭に入れておかれることをお薦めする。

福島第一原発で何が起きているのか (2)

昨日の blog を書いた後になって、水位低下による燃料棒の露出と、炉心の一部が融解する、という事態が発生した。これに関しては、朝9時の段階では残念ながら予測し難かった。

その後の様子に関して説明しておく。現在までに分かっている情報では、まず炉心が最大で 90 cm 程度露出し、その後 Cs が検出された。正門前での線量は 1 m Sv / h を少し超える位まで上昇し、建屋内では水素爆発と思われる爆発で屋根が飛んだ。この際、たまたま戸外に集合していた近所の病院の関係者などが被爆、東電は海水とホウ酸を投入することを決定。その後、3号機の方で水位低下による燃料棒の露出と、被爆者の増加が深刻な問題になっている。

まず、僕の立場をはっきりさせておくけれど、僕は原発推進派ではない。原発がエコだというのは全くのウソで、ウラン採掘・精製・輸送のコストはバカ高いし、プルトニウムの管理問題は莫大な経費を発生させる。しかも高レベル廃棄物の長期保管は、ついこの間にフィンランドで始まったばかりで、何十万年という時間の途上に何が起きるか分かったものではない。まあそんなことから、僕は原発に関してはかなり懐疑的な立場である。

ただし、中性子線源としての原子炉がなければ困ることも多い。僕はかつて KUR(京大原子炉実験所の原子炉、今年上半期から再起動の予定)で実験を行っていたことがあって、分析・解析、あるいは医学目的における中性子線源としての研究用原子炉は、どこかにないと非常に困る、ということが身に染みている。そういう意味で、問答無用の反原発という立場は、とる気にはなれない。

というわけで、現在おこっていること、行われていることの問題を書いておこうと思う。まず、1号炉に関してであるが、炉外で Cs が検出されて、炉心溶融だということで大騒ぎになったわけだ。これなんだが……うーん。まず、皆さん、この Cs のような元素の検出って、どうやってるかご存知ですか?

これは、質量分析器(Mass Spectrometer, 通称マス)と呼ばれるものを使っている。具体的には、チェックしたいところの気体を袋などに集めたものを、この質量分析器に入れると、ひとつひとつの気体分子、あるいは浮遊物質の構成分子・原子がイオン化されて、電磁石で挟んだ領域に打ち込まれる。打ち込まれた分子・原子は荷電粒子だから、ローレンツ力を受けて円弧を描くわけだが、この円弧の大きさはその粒子の重さ……つまり原子量・分子量……によって変わってくる。ある円弧を描いた粒子が何個あるかをカウントして、粒子の構成を決定するわけだ。

何が言いたいのか、というと、この質量分析器というのは、極めて高い感度で物質の存在を知ることができる、ということだ。なにせ、個数をカウントしているんだから、こんな高感度な測定法はそうはない。これで、ある物質の存在が検出された、ということと、その物質が意味を持つ濃度で分布している状態、との間には、実はかなり大きな開きがあるのだ。

もちろん、燃料棒やペレットが破壊されたことを検出する、という上では、このような高感度での測定は非常に重要である。しかし、マスで Cs が検出されたからと言って、すぐに健康被害がどうのこうの、というのは、ちょっと主張に隔りが大き過ぎると思う。もちろん、予防的な意味を込めて、安全マージンは最大限確保されるべきである、という前提があるならば、この結果はその文脈上で重く受け止められるべきだろうけれど、Cs 検出→メルトダウンだぁ〜、というのは、逆にあまりに無責任に過ぎると思う。

実は、炉心溶融に関しては、今炉心露出が問題になっている3号炉の方がはるかに深刻である。3号炉は、いわゆるプルサーマル炉で、MOx(ウラン・プルトニウム混合酸化物)を燃料として入れている。MOx はウラン酸化物のみの燃料と比較して、こういうときの正の反応性が強い、という話があるので、炉心溶融が起こった場合にどう波及するのか、という意味での危険性は、3号炉の方が圧倒的に高いのである。

次に、被爆に関してだけど、これはおそらく、建屋内に存在していた放射性物質の微粒子が水素爆発で飛散して、それが被爆者に付着したものだと思われる。携帯用のカウンターでひっかかる程度の線量が検出されているならば、速やかな除染が必要である……ところで皆さん、除染ってどうするか、知ってますか?

除染というのは、付着した放射性物質を除去するわけだけど、それは僕等がものの汚れを除去するときにすることと全く同じである……つまり、洗う、拭く、である。今回の場合は、被爆者の衣服は全て廃棄、排水を捕集できる設備でシャワーを浴び、全身をがっつり洗う→カウンターでチェック→まだ検出されるならまた洗う……の繰り返し、ということになる。もちろん、ここで言う廃棄、というのは、低レベル核廃棄物として処理する、ということである。

こういう措置をして、あとはヨードを飲ませ、経過観察をする。ヨードは飲み過ぎると深刻な健康被害につながるので、医師の監督下で飲ませることが重要である。

ちょっと引っかかっているのが、昨夜寝る前に聞いた、被爆者からの検出カウント数が結構高かったことである。爆発で飛び出した粒子を、おそらくかなりがっつりと浴びてしまったのだと思うけれど、あれは緊急措置として病院のシャワーで除染をすべきだったと思う。排水は厳密な意味では低レベル核廃棄物の扱いになるが、濃度の問題を考えた場合、緊急措置の方を優先しても問題ないレベルだったと思われるので。

さて……で、だ。メディアがどういうわけかどこも書かない、言わないことが、ひとつあるのだ。それは、1号炉の炉内に海水を注入していることに関して、である。

僕は KUR を、超高感度の分析に使用していた。これは「放射化分析」と呼ばれるもので、試料を炉内に保持して中性子線に暴露し、放射化(核変換によって放射性同位元素にする)した後に取り出して、発生するγ線のスペクトルから、目的の元素の濃度を決定する、というものである。この分析の際に、試料(本当にハナクソ位小さな試料でいい)はポリエチレンの袋に入れて、圧搾ガスで炉の内外でカプセルをやりとりできる仕組みを利用して炉に出し入れする。出してしばらくの間は、短い寿命の核種がかなりキツいγ線を出すので、ちょっと「冷まして」から測定を行うのだけど、もう大丈夫かなあ、と、鉛レンガの中に置いておいた試料にカウンターを向けたら、針が「カツン」(本当にこういう音がした)と振り切れて腰が抜けそうになったことがあった。

何故こんなことが起きたか、というと、何処ぞの学生クンが、たまたまその辺(といっても秤量用の精密天秤の横なのだけど)にあった試料収納用のポリエチレンの袋に、素手で触れてしまっていたらしい。それを知らずに、僕は試料を入れて炉内に投入したわけだが、このときに、袋に僅かに付いていたその何処ぞの学生クンの手の脂も放射化したわけだ。手の脂には塩分、つまり塩化ナトリウムが含まれているわけだが、このナトリウムが問題だったのだ。

ナトリウムの原子量は通常23であるが、このナトリウムに中性子をひとつ与えると、24Na という核種に核変換する。この 24Na は、十数時間の半減期で崩壊するのだが、その際にエゲツない程のγ線を出してくれる。それが、僕が腰を抜かさんばかりにびっくりさせられた線量の理由だったのだ。

まあ、僕の話が信用できない、という方は、JCO の臨界事故の被害者のことを思い出していただければいい。被爆線量の決定は、血中の24Na 量を測定することで行われたし、被爆後に輸血や皮膚移植をしても定着しなかった原因のひとつに、体内の Na が24Na に核変換されていた結果、後から導入した細胞の DNA が損傷を受けたからだろう、とも言われているのだ。

こんなことを書くと「高速増殖炉でもナトリウムを使っているじゃないか!」とか見当外れのことを言って絡んでくる馬鹿がいそうだから書いておくけれど、高速増殖炉でナトリウムを冷却材に使うのは、高速中性子を減速させないためであって、放射線をあてても安全だから、ではない。

さて。海水には3パーセントの塩化ナトリウムが含まれているわけだが、今あの原発では、その海水を炉内に注入しているのだ。反応容器に十分ホウ酸水などが入れられたその上でのことならば問題は小さいと思うけれど、僕にしてみたら、原子炉にナトリウム入りの水を入れるなんて、これはもう気違い沙汰だと思う。水はどの道何年も抜けないんだから、程なく冷める24Naの問題より、今現在の冷却の方が何より優先されるのだ……という考えなら、それはそれで構わないけれど、でも冷めないうちに海水が漏洩したら、これはちょっと考えるだけでも恐ろしい。

まあ、マスコミが言わない恐ろしい話、ってのがあるんだ、と信じて疑わない人に限って、どうでもいいことに拘泥しているのが滑稽なのだけれど、どうしてこういう話は誰もしないんだろうなあ。なんだかねえ。

福島第一原発で何が起きているのか

流言蜚語とはよくも言ったもので、特に Twitter を中心として、無責任な話が飛び交っている。情報社会だ、と言うならば、一番そこで求められるべきはその情報を吟味する能力のはずなのだけど、どうもその辺は、テクノロジー程には進歩していないようだ。

特に目につくのが、福島第一原子力発電所に関するものだ。ECCS が壊れているからメルトダウンするかもしれない、放射能漏れが深刻だ……等々。まあ僕は原子力工学が専門ではないんだけど、自然科学の関係者ということで、現状に関してここに書いておきたいと思う。

まず、福島第一原子力発電所について、だが、PC 等で web を見られる方はWikipedia のエントリ「福島第一原子力発電所」を御一読いただきたい。ここを見るとはっきり書いてあるのだが、この発電所で稼動している原子炉は全て「沸騰水型軽水炉」と書かれている。

ご存知ない方のために解説をしておくけれど、日本の営業運転している原子炉の形式は、沸騰水型軽水炉 (Boiling Water Reactor, BWR) と加圧水型原子炉 (Pressured Water Reactor, PWR) に分けられる。BWR は、誤解を恐れずに単純に説明するなら、1次冷却水の中に原子炉を漬けて、直接1次冷却水を沸かして蒸気を発生させ、この蒸気でタービンを回して発電する。タービンを通った1次冷却水の蒸気は、2次冷却水で冷やされて水に戻り、循環する。これに対して、PWR では、1次冷却水は加圧されており、1気圧では水蒸気になってしまうような温度でも液体のまま、原子炉で熱せられる。熱された1次冷却水は蒸気発生器で2次冷却水と配管壁越しに接触し、ここで2次冷却水が蒸気となり、タービンに送られる。緊急時には、どちらの形式の炉の場合も制御棒を押し込んで中性子を捕捉し、ECCS(Emergency Core Cooling System, 緊急炉心冷却装置)が作動、炉心を水浸しにすることで冷却し、原子炉を止める仕組みになっている。

さて。では今、福島第一原発で何が起きているのか、というと、この ECCS が作動しない、という状態になっているわけだ。ECCS を駆動するための電力を供給する非常用のディーゼル発電機が動かず、原子炉を停止したために他の冷却ポンプも十分に動かすことができない。まあそういう状態なわけだ。で……これを聞いて、スリーマイル島の原発事故を思い出された方々が、メルトダウンメルトダウンと騒いでいるようなのである。しかし、ちょっと待っていただきたい。スリーマイル島の原発は PWR で、今回の福島第一原発は BWR である。

スリーマイル島で何が起きたかを簡単に説明すると、あの事故のときはまず2次冷却水が止まってしまった。そのために1次冷却水の圧力が上がって、圧力逃がし弁が開いて1次冷却水が失われた。あのときタチが悪かったのは、圧力が低下してもこの逃がし弁が開きっぱなしになってしまったことである。この状態になると、PWR の場合、1次冷却水の圧力が下がった結果、沸騰しないはずの1次冷却水が沸騰してしまう。沸騰すると、冷却水中は泡だらけになるので、1次冷却水の水位が分からなくなってしまう。スリーマイル島の場合は、このために作業員が1次冷却水が過剰になっていると判断し、頼みの綱の ECCS を止めてしまったのである。この結果、炉心の 2/3 が露出する、という、まずありえない(と言うより、あってはならない)事態になってしまい、その結果ああいう事故に至ったのである。

今回の福島第一原発の場合は BWR で、もともと1次冷却水の圧力はそう無茶苦茶に高いわけではない(とは言っても数気圧はあるのだが)。今回も、炉内の水位は正確に把握されているし、もちろんまだ炉心が露出するような事態には至っていない。蒸気圧が上がってきた場合、その蒸気圧を利用して炉心水位を保つ仕組みもあるらしく、まだ炉心上端から3メートル程度のところに水位は維持されているらしい(正常稼動時には6メートル近く)。

今回、放射線レベルが上昇しているのは、1次冷却水の圧力が上がったので、圧力逃がし弁を開けたためであるが、PWR の場合と違い、そう無茶苦茶な圧力がかかっているわけではない(というより、構造的にかけられない……だから逃がし弁を開いたのだ)し、減圧時に激しい沸騰に至るわけでもない。あと数日、何の対策も講じられないならかなり危機的な状況だろうとは思うが、少なくとも、スリーマイル島のときの状況とは比較にならない程、現状での安全レベルは高い。

とにかく、外部電源を何とか接続して、ECCS 以外の系統の冷却水循環ポンプを作動させて、炉心水位を上昇させ、1次冷却水の温度を下げることが、現在の急務である。今日の午後には、東電は電力供給をし切れなくなるとの予想が既に出ているので、今日の午前中に、この電源供給がなされることを、今は祈るしかない。

反・唯脳主義宣言

昨日、久しぶりに『メトロポリス』を観ていたのだけど、その冒頭にこんな格言が引用されている(ドイツ語は得意ではないので英語で書くが):

The intermediary between the hand and the brain is the heart.
「手と頭脳を媒介するものは心である」もっとも、映画での引用にはこう続けられているのだが…… "That's a fairy tale ― definitely."(それはおとぎ話である……間違いなく)

映画では否定的に述べられるこの引用句だけど、これは最近流行りの脳科学などと無縁な話ではない。哲学や倫理学の世界では、この引用句に相当する問題は以前から論じられていたのである。

これはごくごくシンプルな話である。たとえば、今ここに剥き出しの脳があったとする。その脳は己の支配する身体を持たないけれど、その生命は維持されていて、活動もしているとする。スペース・オペラに登場するようなシチュエーションを考えると、脳漿に相当するような液体の中に脳が浮かんでいて、神経に相当するような電極やワイヤーが接続されていて、外部との情報のやりとりができるような状態、というところだろうか。

この脳に、普通の人間が感じるような情報を流し込めたとして、果たしてこの脳は、自分が身体を持って普通に生活していた状態と、今のこの状態とを同一のものとして認識し、身体を持っていたときのように活動し得るのだろうか、ということを考えてみる。ほとんどの人が、それは脳がちゃんと機能しているんだったら、脳は脳として活動し得るんじゃないの?と思われるだろう。

では、この脳の持ち主が、たとえばかつては算盤の名手だったとしよう。この脳に、何事か計算をするように働きかけたとき、この脳はどう活動するか。おそらく、この脳が本来の身体に収納されているならば、この脳は無意識のうちに手で算盤を弾こうとするに違いない。しかし、今この脳は己の身体を持たない……だから、計算をしようとした時点で、この脳は己が身体を失っていることに気付いてしまうのではないだろうか。

いやあ、算盤の名手ってのは見えない算盤を頭に持っていて……という話になるかもしれないが、ここで僕が指摘しているのはそういうことではない。脳の活動というものの中には、身体活動と深くリンクしたものが少なからずあって、そのような活動を行う際には、脳と身体は不可分なものとして協調動作するものなのではないか、ということが言いたいのである。

別にこれは算盤の名手に限定した話ではない。人は、おおむね二桁以上の四則演算、もしくは更に高度な数学的処理を行う際には、何らかの身体操作を(あたかもコンピュータが拡張メモリ領域を使用するが如く)行うものである。筆算しかり、方程式を解くのに式展開をするときしかり、である。

そんなものは神経経由にバーチャルに提供できて……なんて話になるのかもしれない。しかし、脳がそのような協調動作をする、その「原体験」というものが、バーチャルな場として与えられるのだろうか?与えられるのならば、それは肉体が脳に与えているインターフェースの模倣物、もしくは代替物であって、そのようなものを提供できることが、脳が脳だけでそれに相当する動作(つまり精神活動)を一から習得し得ると保証するものではない。

つまり、人は高度な思考活動を行う際には、自らの活動領域を半ば無意識のうちに拡張しているのである。人が高度な思考活動を行う領域を心とするならば、心ということばの意味する領域は脳の外にまで及んでいるのではないか、いや、そもそも脳という器官を以て、こころというものの存在を器質的に規定する行為自体が無意味なんじゃないのか……というのが、脳科学の哲学的理解の試みの中で言われていることである。

このような見方が単一的に正しいか正しくないか、ということを、僕はここで論ずる気はさらさらない。ただ、『唯脳論』という本を著しているあの養老氏ですら、実は先に示したような『唯脳的精神世界論』には否定的なのである。この後何日か、僕は前回の blog で言及した本の話を書き、アルコーに代表されるような脳の冷凍保存に関する話を書くかもしれないけれど、その最大前提として、僕自身もこのような思考を経て、いわゆる「唯脳主義」に対して否定的な立場にある、ということを明示しておきたいのである。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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