証左
政治家という職は、全うに務める上においては、実に大変なものだろうと思う。その理由は二つあるのだが、ひとつは、政治家の業績というものが専ら結果においてのみ評価されるものだからだ。どれだけ汗をかこうが、不眠不休で臨もうが、そんなことは国民においては何も問題にならない。国民の暮らしや、国の有り様、その未来など、国というものをある意味で決定付ける、その結果においてのみ、政治家の業績は評価される。傍目から見てどんなに不純に見えようが、あるいはハナクソでもほじって股座を掻きながら……みたいな不真面目な態度であったとしても、意義深い結果を残せる政治家は、社会において存在意義のある政治家なのである。
そしてもうひとつ、政治家は現在に対してのみならず、未来に向けて仕事をしなければならないからだ。まあこれは政治家に限定した話ではないのだけれど、先の「結果においてのみ評価される」ということを前提として考えると、これは逃げがきかない、ということになるわけだ。未来は誰にも分からない。しかし、未来に向けた布石が結果を残せるのか、ということで評価されるとなれば、これはキツい話である。
以前にも書いたことがあるけれど、僕は大学の教養部(この言葉も今や死語だなあ)時代に『西洋史学』という科目を受講していたことがある。講義していたのは堀井敏夫という人だった。この堀井氏、細身で背も低い、実に華奢な感じの方なのだけど、研究者としての心の強さをありありと感じさせる人だった。今でも鮮明に覚えているのだけど、堀井氏の講義中に、教室に中核派が2人、覆面にヘルメットというお馴染の格好で入ってきて、講義を無視してアジ演説を始めたことがある。このとき、堀井氏はゆっくりと彼らの方に顔を向けてこう言った。
「君達、覆面を取りなさい」
中核派の2人は、その言葉を無視するかのように演説を続けようとしたが、堀井氏はこう言葉を続けた。
「覆面を取りなさい」
彼らは、何を言うのか、この覆面は我々の闘争においては……と言い始めたのだが、堀井氏はこう言葉を続けた。
「レーニンや毛沢東が非合法時代覆面をしましたか? 覆面をして人々を説得できますか? 説得できる理論があって、それでも成功しないのが革命なんですよ。覆面なんかしてては革命は成功しません。」
この言葉に、彼らは返すことができなかった。彼らは教室を出、教室は喝采に湧いたのだった。
こんな堀井氏が、最初の講義のときに、受講者である僕達にこう聞いたのだった。
「皆さんは、歴史というのはどんなものだと思っていますか?」
皆が答えられずにいると、堀井氏は静かに話し始めた。
「私はね、こう思うんですよ……我々は、一台のクルマに乗って疾走している。そのクルマは窓を塗り潰されていて、我々は目前を見ることができない。目前に何が迫っているのか、確認することもできない、そんなクルマに乗って疾走しているような状況に、我々はあるわけです。しかし、このクルマは、バックミラーだけは見ることができる……歴史というものはこのバックミラーのようなものなんじゃないか、そう私は思うんです」
歴史というものの重要性を、これ程までに直感的に、端的に表現したことばを、それまで僕は聞いたことがなかった。この言葉には、革命前後のフランス史の研究者である堀井氏の魂が籠もっていたのだ、と今でも思う。
僕は一応自然科学者のはしくれなので、この堀井氏が言う歴史以外にも、我々が未知の未来に立ち向かうための術を挙げることができる……それは、科学的方法論だ。客観的なデータを集め、その中に普遍的に成立していることを見出し、それを基にして未来を予想する。もちろん、これは時として、外挿 extrapolation というものの持つ危うさを孕んでしまうわけだけど、その限界を熟知している限りにおいて、この科学的方法論は極めて有用性が高い。
そして、もうひとつ、我々が持つ術というものがある。それは、哲学だ。哲学というのは、対象を限定しない。この世に現存する、もしくは仮想される凡そ全ての事象に対して、それを理解するための試みの集成が、哲学と呼ばれるものの正体だ。それは決して空論でも知的遊戯でもない。そして、未知なる未来に人が立ち向かうときに、そのクルマをハンドルやアクセル、ブレーキでどのように動かすべきなのか、ということに対しても、それは重要な意味を持つ。誤解を恐れずに言うならば、先の科学的方法論だって、広い意味では哲学と呼ばれるものの一形態に過ぎない。哲学というのは、決して単なる空理空論ではないのだ。
たとえばフランス人は、このことをよく分かっているから、未だにバカロレア(大学入学資格試験)の初日の最初には哲学のテストが行われる。フランスでは、大学に入るため(だけではなく、高校卒業資格を得て有利な就職をするためにも、なのだが)には哲学が必須なのだ。しかもこの哲学の試験(だけでなく、バカロレアの口述以外の問題は皆そうなのだが)は論述式である。3問程度の問題に対して、各々小論文形式の回答をしなければならない。つまり、フランスにおいて「哲学がない」ということは、比喩ではなく「教養がない」ということに等しい。しかし、日本という国では、他の先進国と比較しても尚、哲学というものが信じ難い程に軽視されている。哲学について……と話し始めたら、ほとんどの人が話すことを拒否するか、笑って誤魔化すかのどちらかだろう。
しかし、先にも書いたような未来へ疾走するクルマの舵取りをする人々……つまり政治家ということになるわけだが、彼らにとって、この哲学というものは、比喩ではなく「必ず求められるべきもの」だろうと思う。もし人に「あなたの哲学は」と問われたら、まさに政治家としての資質のアピールをする絶好のチャンスに違いない。今風に言うならば「ドヤ顔」で、自らの理念を語る……そうあるべきものだろう。
さて、昨日の菅直人内閣総理大臣の会見において、そういう意味から、非常に興味深いやりとりがなされた。首相官邸のサイトで公開されている書き下し文から、該当部を以下に引用する:
(内閣広報官)
それでは、次の方。
島田さん、どうぞ。
(記者)
フリーランスの島田と申します。よろしくお願いします。3・11の後に、日本の国民性、社会性というものにいろいろな変化が起こったと、いろいろな言論が増えております。菅総理の中で3・11後、哲学が変わったこと、またそれをどう国民に、菅総理の哲学を伝え、それを指導していこうと思っていらっしゃるのか。その辺のご自身のご意志をお伺いしたいと思います。
(菅総理)
私はこの3・11、地震、津波、そして原発事故、これを体験した多くの国民、あるいは全ての国民は、このことを自分の中でいろいろな形で考え、そして自分の行動の中にその経験をある意味で活かそうとしておられるんだと思っております。やはり何といっても、こういった大変な災害が生じたときに、家族やあるいは近隣の皆さんとの関係、あるいは会社や自治体や企業や、色々な人間と人間のつながりこそが、やはり最も頼りになる、あるいは自分たちが生きていく上で重要だということを、それぞれの立場で痛感をされていると、そのように感じております。そういったことをこれからの日本の再生に向けて、是非色々な形で活かしていきたいと考えております。
先日も「新しい公共」、鳩山前首相のときから取り組んできたこの中で、NPO等に対する寄付金の控除を大幅に拡大する法案が成立を致しました。こうしたことも、今回の大きな事故、失礼、大きな災害というものから立ち上がっていく上で、国の力あるいは税金による支援と言いましょうか、そういうものももちろん重要でありますけれども、やはり一人ひとりの人たちがその気持ちを持ち寄ってお互いを支え合う、そういうことがもっともっと拡大するように、そういった税制度についても一歩前進が出来たと、このように思っております。
あまり思い出話をしても恐縮ですが、私が1年生議員の頃にアメリカに出掛けて、コモンコーズとかコンシューマーズ・ユニオンとか多くの市民団体を訪れました。ほとんどの団体は100人、200人という、給料はそう高くないけれども、給料を払って雇っているスタッフがおりました。そのお金は、ほぼ全て寄付によるものでありました。私は日本に帰って来て、そういう寄付文化について、日本でももっと広げられないのか。市川房枝先生の選挙などはカンパとボランティアと言われておりましたけれども、しかし規模において、アメリカのそうしたNPO、市民団体の財政の大きさとは、もう桁違いに違っておりました。それから既に30年が経過致しましたけれども、今回のこの大震災の中で、そうした助け合いというものが、例えば今申し上げたような寄付という形で、そうした具体的な形が広がるとすれば、私は大きな進歩ではないかと、このように考えております。
……この問答を読んで、皆さんはどのように考えられるだろうか。僕は、これこそ「菅直人はロジカルな問答ができない」ということ、そして僕が前から何度も何度も言っている「菅直人には哲学がない」ということの、これ以上はない証左だ、と思ったのだが。