証左

政治家という職は、全うに務める上においては、実に大変なものだろうと思う。その理由は二つあるのだが、ひとつは、政治家の業績というものが専ら結果においてのみ評価されるものだからだ。どれだけ汗をかこうが、不眠不休で臨もうが、そんなことは国民においては何も問題にならない。国民の暮らしや、国の有り様、その未来など、国というものをある意味で決定付ける、その結果においてのみ、政治家の業績は評価される。傍目から見てどんなに不純に見えようが、あるいはハナクソでもほじって股座を掻きながら……みたいな不真面目な態度であったとしても、意義深い結果を残せる政治家は、社会において存在意義のある政治家なのである。

そしてもうひとつ、政治家は現在に対してのみならず、未来に向けて仕事をしなければならないからだ。まあこれは政治家に限定した話ではないのだけれど、先の「結果においてのみ評価される」ということを前提として考えると、これは逃げがきかない、ということになるわけだ。未来は誰にも分からない。しかし、未来に向けた布石が結果を残せるのか、ということで評価されるとなれば、これはキツい話である。

以前にも書いたことがあるけれど、僕は大学の教養部(この言葉も今や死語だなあ)時代に『西洋史学』という科目を受講していたことがある。講義していたのは堀井敏夫という人だった。この堀井氏、細身で背も低い、実に華奢な感じの方なのだけど、研究者としての心の強さをありありと感じさせる人だった。今でも鮮明に覚えているのだけど、堀井氏の講義中に、教室に中核派が2人、覆面にヘルメットというお馴染の格好で入ってきて、講義を無視してアジ演説を始めたことがある。このとき、堀井氏はゆっくりと彼らの方に顔を向けてこう言った。

「君達、覆面を取りなさい」

中核派の2人は、その言葉を無視するかのように演説を続けようとしたが、堀井氏はこう言葉を続けた。

「覆面を取りなさい」

彼らは、何を言うのか、この覆面は我々の闘争においては……と言い始めたのだが、堀井氏はこう言葉を続けた。

「レーニンや毛沢東が非合法時代覆面をしましたか? 覆面をして人々を説得できますか? 説得できる理論があって、それでも成功しないのが革命なんですよ。覆面なんかしてては革命は成功しません。」

この言葉に、彼らは返すことができなかった。彼らは教室を出、教室は喝采に湧いたのだった。

こんな堀井氏が、最初の講義のときに、受講者である僕達にこう聞いたのだった。

「皆さんは、歴史というのはどんなものだと思っていますか?」

皆が答えられずにいると、堀井氏は静かに話し始めた。

「私はね、こう思うんですよ……我々は、一台のクルマに乗って疾走している。そのクルマは窓を塗り潰されていて、我々は目前を見ることができない。目前に何が迫っているのか、確認することもできない、そんなクルマに乗って疾走しているような状況に、我々はあるわけです。しかし、このクルマは、バックミラーだけは見ることができる……歴史というものはこのバックミラーのようなものなんじゃないか、そう私は思うんです」

歴史というものの重要性を、これ程までに直感的に、端的に表現したことばを、それまで僕は聞いたことがなかった。この言葉には、革命前後のフランス史の研究者である堀井氏の魂が籠もっていたのだ、と今でも思う。

僕は一応自然科学者のはしくれなので、この堀井氏が言う歴史以外にも、我々が未知の未来に立ち向かうための術を挙げることができる……それは、科学的方法論だ。客観的なデータを集め、その中に普遍的に成立していることを見出し、それを基にして未来を予想する。もちろん、これは時として、外挿 extrapolation というものの持つ危うさを孕んでしまうわけだけど、その限界を熟知している限りにおいて、この科学的方法論は極めて有用性が高い。

そして、もうひとつ、我々が持つ術というものがある。それは、哲学だ。哲学というのは、対象を限定しない。この世に現存する、もしくは仮想される凡そ全ての事象に対して、それを理解するための試みの集成が、哲学と呼ばれるものの正体だ。それは決して空論でも知的遊戯でもない。そして、未知なる未来に人が立ち向かうときに、そのクルマをハンドルやアクセル、ブレーキでどのように動かすべきなのか、ということに対しても、それは重要な意味を持つ。誤解を恐れずに言うならば、先の科学的方法論だって、広い意味では哲学と呼ばれるものの一形態に過ぎない。哲学というのは、決して単なる空理空論ではないのだ。

たとえばフランス人は、このことをよく分かっているから、未だにバカロレア(大学入学資格試験)の初日の最初には哲学のテストが行われる。フランスでは、大学に入るため(だけではなく、高校卒業資格を得て有利な就職をするためにも、なのだが)には哲学が必須なのだ。しかもこの哲学の試験(だけでなく、バカロレアの口述以外の問題は皆そうなのだが)は論述式である。3問程度の問題に対して、各々小論文形式の回答をしなければならない。つまり、フランスにおいて「哲学がない」ということは、比喩ではなく「教養がない」ということに等しい。しかし、日本という国では、他の先進国と比較しても尚、哲学というものが信じ難い程に軽視されている。哲学について……と話し始めたら、ほとんどの人が話すことを拒否するか、笑って誤魔化すかのどちらかだろう。

しかし、先にも書いたような未来へ疾走するクルマの舵取りをする人々……つまり政治家ということになるわけだが、彼らにとって、この哲学というものは、比喩ではなく「必ず求められるべきもの」だろうと思う。もし人に「あなたの哲学は」と問われたら、まさに政治家としての資質のアピールをする絶好のチャンスに違いない。今風に言うならば「ドヤ顔」で、自らの理念を語る……そうあるべきものだろう。

さて、昨日の菅直人内閣総理大臣の会見において、そういう意味から、非常に興味深いやりとりがなされた。首相官邸のサイトで公開されている書き下し文から、該当部を以下に引用する:

(内閣広報官)

それでは、次の方。

島田さん、どうぞ。

(記者)

フリーランスの島田と申します。よろしくお願いします。3・11の後に、日本の国民性、社会性というものにいろいろな変化が起こったと、いろいろな言論が増えております。菅総理の中で3・11後、哲学が変わったこと、またそれをどう国民に、菅総理の哲学を伝え、それを指導していこうと思っていらっしゃるのか。その辺のご自身のご意志をお伺いしたいと思います。

(菅総理)

私はこの3・11、地震、津波、そして原発事故、これを体験した多くの国民、あるいは全ての国民は、このことを自分の中でいろいろな形で考え、そして自分の行動の中にその経験をある意味で活かそうとしておられるんだと思っております。やはり何といっても、こういった大変な災害が生じたときに、家族やあるいは近隣の皆さんとの関係、あるいは会社や自治体や企業や、色々な人間と人間のつながりこそが、やはり最も頼りになる、あるいは自分たちが生きていく上で重要だということを、それぞれの立場で痛感をされていると、そのように感じております。そういったことをこれからの日本の再生に向けて、是非色々な形で活かしていきたいと考えております。

先日も「新しい公共」、鳩山前首相のときから取り組んできたこの中で、NPO等に対する寄付金の控除を大幅に拡大する法案が成立を致しました。こうしたことも、今回の大きな事故、失礼、大きな災害というものから立ち上がっていく上で、国の力あるいは税金による支援と言いましょうか、そういうものももちろん重要でありますけれども、やはり一人ひとりの人たちがその気持ちを持ち寄ってお互いを支え合う、そういうことがもっともっと拡大するように、そういった税制度についても一歩前進が出来たと、このように思っております。

あまり思い出話をしても恐縮ですが、私が1年生議員の頃にアメリカに出掛けて、コモンコーズとかコンシューマーズ・ユニオンとか多くの市民団体を訪れました。ほとんどの団体は100人、200人という、給料はそう高くないけれども、給料を払って雇っているスタッフがおりました。そのお金は、ほぼ全て寄付によるものでありました。私は日本に帰って来て、そういう寄付文化について、日本でももっと広げられないのか。市川房枝先生の選挙などはカンパとボランティアと言われておりましたけれども、しかし規模において、アメリカのそうしたNPO、市民団体の財政の大きさとは、もう桁違いに違っておりました。それから既に30年が経過致しましたけれども、今回のこの大震災の中で、そうした助け合いというものが、例えば今申し上げたような寄付という形で、そうした具体的な形が広がるとすれば、私は大きな進歩ではないかと、このように考えております。

……この問答を読んで、皆さんはどのように考えられるだろうか。僕は、これこそ「菅直人はロジカルな問答ができない」ということ、そして僕が前から何度も何度も言っている「菅直人には哲学がない」ということの、これ以上はない証左だ、と思ったのだが。

お前が言うなや

世の中では、しばしば「お前が言うなや」と言いたくなることがある。たとえば、何処ぞの国の総理大臣が、原発事故前は自然負荷の少ないエネルギーとして原発推進の立場を表明していたものが、何時の間にか、自分は前から原発反対派なんだ、その筋のオーソリティなんだ、などという顔をしていて、そればかりでなく、脱原発に賛成か反対か、賛成ならば自分の政党に投票するはずだ、などという話まで出ているわけだが、まさに「お前が言うなや」という話である。

さて。今回の話はそういうことではない。まずは僕の使っている shannon というコンピュータの話で……この shannon は、Windows Vista Home Basic 64 bit と、Debian GNU/Linux sid という二つの OS で使えるようにしてある。普段はほとんど Linux で動作させているわけなのだけど、この何日か、ちょっと WIndows 上のユーティリティを使う必要があって、特に昨夜は一晩ずっと Windows を立ち上げていた。こういうときは、実は僕にとっては堪らなく憂鬱になる。

丁度、U が似たような憂鬱を口にすることがある。U は仕事で使うスキャナがあって、これが Mac OS 9 でしか動作しない。U は何台か仕事用の Mac を持っていて、その中の1台の G4 が OS 9 と OS X のデュアルブートになっている。これを OS 9 でブートするのだけど、そうすると、ファンがそれはそれは喧しいのである。これには理由があって、G4 の筐体ファンは多段で回転速度が調節できるような仕様なのだけど、OS 9 ではこの調節が出来ず、回転速度が高回転側で固定されるのである。だから、OS X では静かなのに、 OS 9 だと、かなり凄い音がずーっと鳴っていることになる。

shannon の場合も、実は Windows で起動すると、CPU の冷却ファンが「グァー」っと回っている。しかし、shannon の場合、CPU ファンの調速は Linux よりむしろ Windows の方がうまくいっている、筈なのだ。つまり、この現象は、Windows の方が CPU の発熱が大きい、ということを示しているのだが、何か仕事をするときの動作は、Linux と Windows とで Linux の方が圧倒的に軽い。つまり、Windows の方が無駄にCPU の計算能力を消費している、ということなのだ。

Windows で普段回っているファンの速度位に、Linux での動作時にファンが回るときは……と考えると、深夜に git と GNU Emacs、そして Emacs 周辺ユーティリティのソースツリー更新と build を自動的に行うようにしているのだが、このときにそれ位回るだろうか。あとは……そうそう、kernel の build をしているとき位だろうか。まあ、意図的に CPU に負担をかけているとき(僕は make するときに、可能であれば -j オプション等でマルチスレッドで行うようにしているので)にはそうなるけれど、Linux を立ち上げているだけのときに、ファンの音が気になるような状態になったことはない。やはり、Windows は無駄に CPU リソースを食い潰しているのである。

さて。ここまで書いたところで、以下のリンク先をご覧いただきたい:

さぁ、皆さん、せーの、でいきますね。せーの、お前が言うなや、Microsoft !

暑い……

最近、起きると(朦朧としながら)ハーブに水をやるのが日課になっている。ローズマリー、スペアミント、スイートバジル、セージ、タイム、ミニトマト、そしてゼラニウムとペパーミント……という順番(別に偏執狂なのではなくて、水道のホースから近い順に水をやるとこうなるだけなのだが)を守って、水やりをした後に成長をチェックするのが、意外といい気晴らしになる。まさかこの歳で盆栽めいたことが気晴らしになるなど思いもしなかったのだが、実際にやってみると、確かにこれは悪くない。

この中でハーブに入らないミニトマトだが、もう 2 m 程の高さにまで成長している。放射性物質の影響か?(ってそんなことないの分かっているくせに書いてみる)と思って調べてみると、気候が合えばトマトはそれ位成長するものなのだという。しかも温暖な気候であれば多年生育するらしい。最初のうちに脇芽をちゃんと摘まなかったので茎が二又に成長してしまったが、先日思い切って、実のない茎をばさっと刈り取った。

トマトは、茎も葉も、そして未熟の果実も、あのトマトが嫌いな人にとっては耐え難いであろう匂いがプンプンしている。これはトマチンと呼ばれる成分で、若干の毒性があるらしい(トマトの自己防衛の手段なのだそうな)。少しでも葉や茎に触れると、指にこの匂いがはっきりと付くのだけど、この旺盛な生命力で、これからどんどん果実を齎してくれることだろう。

このミニトマトと対照的に、今年初めて種から育成しているバジルの方は、伸びが今一つよろしくない。保険の意味で苗から育てているのが一株あって、こちらは葉を取るのが間に合わない位に繁茂しているのだけど、ジェノベーゼのソースを山程作って冷凍保存する計画を立てているので、このバジルの伸び悩みが目下の悩みのタネである。

タイムもバジルと共に伸び悩んでいる。一度施肥したときにひょろひょろ伸びたのが倒れてしまい、そこから再度芽が出て今伸び始めているので、思い切ってハイポネックスと遅効性の肥料をやってみた(一般論としてハーブは施肥し過ぎると香りが落ちると言われている)。魚料理や鶏料理のためにも、早いところ育ってほしい。

タイムと同じプランターに育っているセージは、某修道会のコモンセージの芽をひとつ摘ませてもらって、それを挿穂して育成しているのだが、ここに来て成長が進んでいる。脇芽も出てきたので、このまま樹に育ってくれるだろう。タイム共々育ってくれれば、既に樹になっているローズマリーと合わせて、3大普段使いハーブに困ることはなくなるはずだ。

……うーむ。ここまで書いて読み返してみると、本当に盆栽オヤジみたいだな。しかし、こう暑いと、こういうこと位しか楽しみがなくってねえ……どうも、ね。

豆腐のイタリアン

こういう暑い日は、このサラダがお薦め。

豆腐のイタリアンサラダ

……まあ簡単な話、イタリアでモツァレラを使うところを豆腐で作るだけの話である。用意するのは、

  • 豆腐(男山豆腐店などの豆乳を濃い目に感ずるものが向いているが、普通の綿漉しでもいける)
  • トマト(長崎の西海トマトとか、茨城などで栽培されているイタリア種のものが向いている。個人的には、日本で最も多い「桃太郎」は好きではないので)
  • スイートバジル(贅沢に使える方がいい。僕は植木鉢とプランターで栽培している)
  • 塩(岩塩があるといいけれど、海塩でも何も問題なし)
  • 胡椒(黒をミルで挽いて贅沢に使いたい)
  • エキストラヴァージンのオリーブオイル(個人的にはスペイン産のものがお薦めだがイタリアのでも何も問題ない)

作り方は簡単で、

  • トマトをスライスして皿に盛る
  • その上にスプーンで掬った豆腐を盛る
  • 塩・胡椒をかける
  • 指で千切ったバジルを上からかける
  • 最後に上からエキストラヴァージンのオリーブオイルをかける
これだけ。要するに、モツァレラチーズとトマト・バジルのサラダを豆腐で作るだけのことである。

オリーブオイルを胡麻油にしたり、バジルの代わりにルッコラを使ってもいいだろう。夏には欠かせないメニューである。

tofu-tomato-mozallera.jpg

人口比1パーセント

統合失調症、というと、皆さんあまりいい顔をされることはないだろう。そういうものを、自らの耳目から遠ざけておきたい、というのが、ほとんどの方の態度だろうと思う。

しかし、統合失調症は決して珍しい病気ではない。統合失調症の罹患率は、人口比で1パーセントを少し切る位である。たとえば肺がんの場合、2006年の死亡者数が 63255人、罹患者数がこの 1.2〜1.3 倍だというから、多めに見積っても、罹患率の人口比は 0.06 % 程度だ。これを考えても、統合失調症というものが「ありふれた」病気であるということがお分かりいただけるのではないかと思う。

さて。実は U が、先月から早朝のミサに行くようになった。僕等の所属教会は朝の7時から早朝のミサを行っていて、聖職者(仏教における「朝の勤行」と同じだと思っていただければいいと思う)や会社に出かける前の人が与っている。この早朝ミサは、毎日のものなので淡々と(粛々と、と言うべきかもしれないが)行われるし、日曜の午前中のミサのときのような、教会の共同体内で自分の権益を示すような輩は来ないので、朝起きることさえ苦にならなければ、これはなかなか良いものである。

しかし、ひとつだけ困ったことがあって、この朝のミサに行くと、いわゆる「コわれた人々」との遭遇率が非常に高くなる。教会というところには、元々そういう人が集まりやすいところがあって、この地区の司教座教会で規模も大きなこの教会では、尚更そういう人々が来易いわけだ。勿論、そういう人々がただ来てミサに与る、それだけならば何も問題はない。こういう病気を患う人にしばしばみられる、不意に大声を出してしまったりするようなことがあっても、それ位で誰も迷惑がったりはしない。

しかし、そういう「コわれた人々」が問題なのは、信仰を持っていて教会に通っているとは限らない、ということである。教会が、彼らの独特な信念による奇妙な儀式の場としておあつらえむきだから、この教会に毎日姿を見せている……そういう人々が、残念ながら複数実在するのである。

これは僕も話に聞いたことがあるのだけど、信者の間で問題視されている、ある女性がいる。この女性は、毎朝、早朝のミサに与った後、しばらく聖堂に籠って独自の「儀式」を行っているらしいのだが、ローソクを持ち込んで、祭壇に勝手に置いて火を点けていたりするので、度々注意を受けているらしい。挙句の果てには、神父様が外出すると、それをクルマで追跡して、出先の教会や修道会でミサに与れないか、と出没するのだという。この女性は明らかに統合失調症で、教会の神父様がこの女性の親族に連絡を取ったらしいのだが、親族は「よろしくお願いします」と言うだけ、なのだそうだ。

で、U も御他聞に漏れず、この女性にからまれることがあるらしい。なんでも今日、U は祭壇の掃除当番で、早朝ミサの後に祭壇を電気掃除機で掃除しようとしたら、その女性が大声で、

「待て!」

「まだだ!」

と怒鳴るのだ、という。あーなんか怖いなー、と思いつつも、U は掃除を続けていたらしい。まああまり確率が高いわけではないにせよ、何せ相手はローソクと火種を持ち込んでいる。この上刃物でも持っていたら、とか、火で何かされたりしたら……と考えると、簡単に大丈夫だよとは言えない。

U はまた、告解室の前で頭を抱えて呻吟している人に出喰わしたりもしたらしい。告解室はおそらく普段は鍵を締めてあるとは思うのだが、もし開いていて、中に引きずり込まれたりしたら、と考えると、これも簡単に大丈夫だなどとは言えない話である。

僕はこの話を聞いて、もう一つ心配していることがある。このような「コわれた人々」、果たしてちゃんと、精神科で治療を受けているのであろうか? 統合失調症の本当に怖いのは、寛解の状態を維持するように努めずに放置された場合、患者の精神世界の荒廃が昂進し、その後治療しても回復し難いところである。もし、上述の「コわれた人々」の親族が、

「朝に教会で儀式をやってくれば家ではおとなしくしていてくれる」

などと納得し、そのまま彼らを放置しているのだとしたら、こんな無責任なことはない。彼・彼女の精神世界を壊しているのは、間違いなくこの親族達だということになるのだから。まあそんなわけで、色々心配な今日この頃なのである。

日和った民主党執行部

会期末前夜の迷走劇  四面楚歌の首相“軟化”

(東京新聞 2011年6月22日 朝刊)

菅直人首相の退陣時期と今国会の会期延長幅をめぐる二十一日の調整は迷走に迷走を重ねた。退陣時期の明示を嫌がる首相に対し、民主党執行部の説得工作は難航。同日夜になって、首相もやや柔軟姿勢を示し、八月中の退陣につながる可能性がある七十日間延長を容認したが、野党側が受け入れるかどうか。前代未聞の迷走劇の結末は結局、国会閉幕日の二十二日に持ち越した。 (政局取材班)

「世の中はままならぬものだ」。民主党の岡田克也幹事長は二十一日午後、首相が説得に耳を貸さないことに周辺にこう漏らした。

同日、岡田氏がまとめた案では延長は五十日間程度とし、成立させるのは公債発行特例法案と二〇一一年度第二次補正予算案に限定。わざわざ、第三次補正予算は新首相が編成することも加え、首相が八月には退陣することを事実上約束した形になっていた。

どちらかといえば、首相よりも早期退陣を求める野党側に配慮したといえる。岡田氏としては首相の意向よりも、国民生活に影響を及ぼしかねない公債発行特例法案の成立を確実にしたかった。

野党側は岡田氏の狙い通り、賛成する考えを示したが、首相は納得しなかった。首相の退陣時期を事実上明示するのは首相にしてみれば、岡田氏らによる「クーデター」に映る。

首相がこだわっている再生エネルギー特措法案の扱いを成立ではなく、「審議を促進する」にとどめたことも許せなかった。

首相は岡田氏に対し、公債発行特例法案の成立について「本当に成立の担保がとれるのか」とかみついたという。

首相の態度に党幹部は「もう、やるべきことはやった」と一時、あきらめ顔になった。

同党の平田健二参院幹事長は記者会見で「何が再生エネルギーだ。公債発行特例法案を早く通さないと予算執行もできないではないか」と首相を強く批判した。

党内が首相批判に傾く中、首相も同日夜になって変化した。岡田氏との同日夜の会談で首相は延長規模を七十日とした上で、再生エネルギー特措法案の扱いを「審議促進」ではなく、「早期の審議・採決に協力」と修正し、「新首相」の表現を「新体制」に弱めることで岡田氏の提案を受け入れた。

今後を考えれば、首相としても与野党合意による円満な形で延長したい。「四面楚歌(しめんそか)」の中、首相としては再生エネルギー特措法案成立の可能性をかろうじて残すことで折り合わざるを得なかった。

三次補正の表現を「新体制」に弱めさせたのは、可能性は薄いが、なおも自分が続投して関与できる細い糸をつなぐための首相の計算ともみられる。

問題は自民党など野党だ。自民党の石原伸晃幹事長は検討する考えを岡田氏に伝えたが、党内で協議した結果、少しでも首相の延命につながる道が残るのであれば、延長を拒否する可能性もある。

上引用記事で「新たな首相」という文言を「新たな体制」に改めた、とある。これはどうも菅直人が「新たな首相」という文言に対して抵抗したためだ、と言われているらしいのだが、これでは菅直人の粘り勝ちである。

こういうものは、決めるプロセスでゴチャゴチャした話になっても、後まで効力を発揮するのは、結局は決められた文言それ自身のみである。「新たな体制」とあるのをそのまま解釈するならば、それは「新たな首相」を意味するものではない。新たな内閣、つまり内閣改造を行いさえすれば、この文言に合致することになるのだ。これでは菅直人を辞めさせる上での効力を持ち得ない。

岡田幹事長は、最悪の場合は自らの辞任と引きかえに菅直人に辞任を迫るだろう、と言われているのだが、鳩山由紀夫のときに彼が小沢氏を道連れにしたのとは話が違う。おそらく岡田が辞めれば、菅直人はもっけの幸いとばかりに骨抜きになった新たな幹事長を据えて、自らの思うままに振る舞うだけのことである。

民主党執行部が本当に菅直人の辞任を実現したいのならば、上引用記事にあるような文言変更は「日和った」以外の何ものでもない。菅直人を本当に辞めさせたいならば、期日を切って承諾させ、それを国民に対して会見で、菅直人自らの声を以て表明させなければならない。密室でどれだけ口約束を交わしても、菅直人は平気で反故にするだろう。いい加減、皆、この菅直人という男を信用しないように努めなければならないのだ。

ゴルゴ待望論

昨日の『たかじんのそこまで言って委員会』を観ていて、原口前総務相にツッコミを入れたのは僕だけではあるまい。彼は、あの民主党代議士会で涙を浮かべて「若い人に道を譲る」発言をした菅直人が、あのとき辞任を口にしたものだと信じていた、と(どうやら原口氏は本気でそう思っているらしいから始末が悪いのだが)彼が口にしたとき「あれで信じたんかい!」と、思わず呟いてしまった。

拙 blog『混迷』で、僕はこう書いたのだった:

まあ、可能性として一番ありそうなのが、恥知らずの必殺技「馬鹿になる」だろうか。自分は馬鹿だから分からない……と言ってしまえば、全ての追及に知らんぷりすることができるというわけだ。いやはや、これから日本はそういう首相に翻弄されることになるのだ。もうこの国の未来は暗い。日本は既に沈みつつあるのだろう。
どうです?僕の書いた通りになったでしょう?

まあ、恥知らずというのは最強だ。民主党執行部は、菅直人が辞意を明示しない場合は自分達が辞任して菅直人に引導を渡す、と言っているらしいけれど、おあいにくさま。アンタら辞めたら、ウルサいのいなくなったじゃーん、と喜んで、執行部に寺田学みたいな若手の子飼いを並べて、自分はがっつり居座って、ますます政治は混迷の一途になるだけのことだ。菅直人に矜持とか美学とかを暗に求めても、そんなこたぁ無駄なんだよ。

ではどうしたらいいのか。はなはだ不謹慎な話ではあるが、僕の周りでは、ゴルゴ13がいたらなあ……という話をする人が非常に多い。僕の周囲だけかと思っていたら、何週か前の『そこまで……』で勝谷氏が同じことを言い出したので、思わず笑ってしまったけれど。いや、国会議員で議員在任中に殺されたのって、たしか戦後になってからは、山村新治郎と浅沼稲次郎……あと石井紘基か。だから、もしそういうことになったら4人目ということになるんだろうけれど、いやはや、それ位しか手がない、というのが現状なのだ。

なんでも、菅直人周辺では、郵政選挙に倣って、「自然エネルギー選挙」を仕掛けるために解散したらいいんじゃないか、という話が出ているらしい。この東日本大震災後の、選挙など無理に決まっているような自治体が複数あるような状況で、そんな話をしていられる連中に、我々は政権を託してしまっているのだ。この現状は、一刻も早く、どうにかして打開されなければならぬ。

暗黙のマナー

愛知県というところに住むようになって、未だに慣れず、いらいらさせられることがある。僕は仕事で全国の大概の地方都市には行ったことがあるのだけど、暗黙のマナーというものがこれ程守られない土地を、僕は愛知県以外には知らないのだ。

これに関しては前にも何度も書いているけれど、たとえばエスカレータを自分の身体と荷物で塞いでいる人がいたり、なんてのは序の口で、歩道を歩いていると、自転車で横並びで平気な顔をして走っている高校生がいるかと思うと、これまた横一列になってヘラヘラ笑っているサラリーマンの一団がいたり、公的交通機関に乗ると、ベンチシートの自分の隣に平気で荷物を座らせて、どれだけ混んでもどけようとしない奴がいたり……まあ、ひどいものである。

僕の知る限り、都市というものには暗黙のマナーというものがあって、それを守れない人は都市の群集に排除される。東京だったら「ち」とか舌打ちでもされて、実に冷たくあしらわれるし、大阪だったら「アンタ邪魔や」とかはっきりと言われるだろう。混んでいてもスムースにやる術を考えない輩は、都会においては有害なだけの存在なのだ。しかし、たとえば名古屋ではこの定石があてはまらない。まあ早い話が、愛知県は都市部ではない、名古屋はドンくさいイナカモノの集まる市なんだ、というだけのことなのだけど、そういう暗黙のマナーに比較的厳しかった水戸という街で生まれ育った者として、こんなに暮しにくい場所は他にない。

で、この様相は、教会に行っても変わらない。他で出来なくても、せめて教会で位はちゃんとするように努めるものなんじゃないのか、と思うのだが、残念なことに、この辺の連中はそうは思わないらしい。

僕の所属教会も、もちろんその例外ではない。たとえば、この教会にはボーイスカウトとガールスカウトがあるのだけど、そのガールスカウトの方の女の子が二人、いつも指導者(の服を着ているけれど、おそらくあれはあの子達の母親なのではないかと思う)に連れられてミサに来ている。この子達が、聖堂の中でも帽子をとろうとしないのだ。

ガールスカウトの制服は、水色のベレー帽がセットになっている。ベレー帽というのはそう頻繁に被ったり取ったりしないかもしれないけれど、聖堂の中では取るのがマナーというものである。しかし、この女の子の片方は、どういう訳か、いつもテンガロンハットを被っている(後記: U によると、このテンガロンハットは最新のガールスカウトの制服なのだそうな)。おそらく親に仕立てられたものなのだろうけれど、この女の子、そのテンガロンハットを一度たりとも取ったことがない。これは僕の想像だが、おそらくあれはずれないようにヘアピンか何かで髪に留めているのかもしれない。しかし、カトリックの聖堂に入るときには帽子を取る、というのは、これはマナーというより常識の範疇だと思う。だから、ヘアピンがどうこうというのは理由にはならないだろう。

しかし、だ。この女の子、いつも指導者と一緒に居るのに、この指導者は帽子のことを何も言わない。先に書いたように、おそらくはあの指導者はあの女の子の親か何かで、あのテンガロンハットを仕立てている張本人なのであろう。しかし、横にいるもう一人の女の子(この子はベレー帽を被っている)も含めて、決して帽子を取ろうとはしない。指導者も取らせようとしない。毎度毎度この調子なので、僕もさすがに、今度会ったらはっきり言わなければならない、と思っているのだが、僕が言うとどうもひどくキツくとられる傾向にあるので、難しいところである。

先日の日記に書いた某修道会のシスターに、一度この件に関して相談してみたことがある。シスターは、

「あー、あれねえ。確かに問題なんだけど、最近は、ちょっと言いにくいのよねえ」

まあ、シスターの言いたいことは分かる。教会には、たとえば抗がん剤の副作用などで頭髪を失った人が来ていたりするので、そういう人を捕まえて「帽子を取りなさい」というのは、まあこれは確かに暴力的なことかもしれない。あのテンガロンハットの子が小児がんを患っていたことがあって、抗がん剤の副作用で失った頭髪がまだ回復していない、という可能性もないわけではない。だったら、指導者に確認してみればいい話だから、今度会ったら確認してみることにしよう。

僕がこういうことを気にするのには理由がある。最近、こういう「ミニハット」が流行っているからだ:

Minihat

これを付けている人に「帽子を取れ」とか言うと「これは髪飾りだから取れない」とか平気な顔して言う。ヘアピンで留めてるから取れないし……という話になるわけだ。しかし、だ。教会の聖堂(だけじゃなくて、室内での式典一般や神社仏閣でも一緒だと思うけれど)で帽子を取るというのは、これは最低限のマナーだし、そういうことで誤解を受ける必要のないカジュアルな場でならともかく、帽子を取るという暗黙のドレスコードがあるところにこれを付けていく、ということがそもそも手前勝手、もしくは傍若無人な態度なのではなかろうか?少しはそういうことを、考えてはもらえないものだろうか。

【後記】 U の指摘により調べてみたところ、欧米では女性の着帽は正装の一部と見做されるので、むしろ帽子は取ってはならない、とのこと。でもねえ、ここで言っているのはテンガロンハットだからねえ……

教会内で帽子などの「かぶり物」をどうすべきか、というのは、実は聖書(新約聖書『コリントの信徒への手紙 一』11:2 ― 16)に書いてある。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

この解釈に関しては、カトリック内でも統一的なものは実はない。たとえば長崎教区では『ミサ中のベール着用について』という文書を web で公開しているが、これからも分かるように、女性の(カトリック)教会におけるかぶり物というのは、暗にベールを指す。特にいわゆる第二公会議以降は、女性でもベールを被らない人が多数派だし、上に引用したパウロ書簡も(おそらくは『創世記』2:21 ― 22 における「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、」のくだりを想起しているのだろうけれど)男尊女卑的記述だ、ということで、現在はそれ程重視されているわけではない。

まあ、僕の印象としては、やはりテンガロンハットを被ったまま、というのは、大いに違和感を感じるんだよなあ。ドグマとしてではなくて、男だったらテンガロンハットを取らなきゃならなくて、女だから取らなくていい、というのは明らかにおかしいし、その逆だったら明らかに不遜な行為だと思うからね。

Wilkinson にがっかり

僕はウィルキンソンのジンジャーエールが好きである。まあバーで酒を飲んでいる人間だったらジンジャーエールと言えばこれを口にすることが多いだろう。このジンジャーエールは、今迄は瓶のものしかなかったので、個人で買うというのはちょっと面倒だったのだが、最近ペットボトルが出た、という話を聞いて、僕は期待していたのである。

で、昨日、コンビニでそのペットボトルを発見した。さくっと購入し、駅までの道を歩きながら飲み始めたのだが……ん。おかしい。味が変だ。ん?

ちなみに、販売元のアサヒ飲料での該当商品のページにリンクしておくが……あ゛、いかんなあ、これ、アレが入っているんじゃあ……と思い、ラベルを見ると、あ゛〜……

原材料名
食物繊維(難消化性デキストリン)、酸味料、香料、カラメル色素、甘味料(アセスルファムK、スクラロース、ステビア)
……駄目だよ、そんなもの入れちゃあ。

これは僕にとっての一種の踏み絵のようなものなのだ。とにかく、僕はこのアセスルファムカリウムスクラロースの組合せが入っているものが大嫌いなのである。甘味は不自然だし、いつまでもその不自然な甘味が口中に残る。いいことなど一つもありはしない。カロリーオフ?はぁ?清涼飲料水如きでカロリーが問題になる程清涼飲料水をガブ飲みすることが問題なんだろうが! その皺寄せをこんなかたちで社会に拡大しないでもらえないだろうか。

不親切

先日、某修道会のシスターから、メールで送られてきた文書が読めないので何とかならないか、という依頼を受けた。こういうことはしばしばあることで、僕は「明日でよろしければ」と約束して、ふらりとその修道会の修道院を訪れたのだった。

詳しいことを聞くと、こういうことらしい。某氏が Microsoft Word で作成した文書をメールに添付して送ってきた。その文書の内容を確認する必要があるので、メーラー上でアイコンをダブルクリックしたけれど、妙なエラーメッセージが出て、Microsoft Word でうまく文書を開くことができない。再送してもらったがやはり駄目……と、そういう状態で僕に電話をかけてきたらしい。

まずはシスターのやったことを再現してみる。MUA の画面にあるアイコンをダブルクリックすると、インストールされている Microsoft Word 2003 が起動するのだが、「MSWRD632.WPC を起動できません」というウインドウが出て、目的のファイルを開くことができない。なるほど。さて、どうしますかね。

まずは、添付されているファイルを HDD にセーブしてみる。foo.doc というファイルがセーブされたわけだが、これをダブルクリックしても、予め起動しておいた Microsoft Word 2003 に読ませても、やはり「MSWRD632.WPC を起動できません」というウインドウが出てくる。うーん、Word 6 っていうと、どうも Mac の匂いがするような気が……でもまあ、まずはファイルを WordPad で開くことを試みるが、やはり無理なので、このファイルの様子を窺うために、無理矢理テキストエディタで開いてみる……ん、これぁ XML っぽいなあ。

Word が XML ベースのファイル形式を使い出したのは、確か Word 2007 以降だったはずだ。皆さんご存知とは思うけれど、 XML ベースのこの新形式のファイルは、従来の形式と区別するために ".docx" という拡張子を付けることになっている。うーむ……この修道会の PC で使われている MUA は古いものなので、ひょっとしたら添付ファイルの拡張子が3文字だと決め打ちしている仕様なのかもしれない。だとしたら、この foo.doc というファイルの名前を foo.docx に変更すれば、開ける可能性があるかもしれない。

もちろん、 Word 2003 はそのままでは .docx 形式のファイルを読むことができない。これはアップデートを適用した後にコンバータを入れればいい筈なのだが、先の「MSWRD632.WPC を起動できません」がどうも気になる。ググってみると、どうもセキュリティ維持のために、一部のファイルフォーマットコンバータが起動しないようにレジストリに記述があって、該当記述を削除する必要があるようだ。

まあ、できるところからやらない限りは前に進まないので、まずはシステムを最新の状態にアップデートして、レジストリの該当記述を削除しておく。これが済むまでに1時間ちょっとが経過した。然る後に、foo.doc の拡張子に x をつけて Word 2003 に読み込ませようとするが……どうもうまくいかない。

じゃあ、大抵のファイルをコンバートできる環境で読ませてやろうじゃないの、ということで、LibreOffice を急遽インストールし、ファイルを読ませてみると……お、開いたぞ。さっきから気になっていたフォントの設定をチェックすると……あー、やっぱり。ヒラギノが指定されている。要するに、

  1. 某氏は Mac 上で Word 2007 以降の Microsoft Word でこの文書を作成した。
  2. 某氏から受信したファイルは、拡張子3文字を決め打ちする MUA のために .docx であったものが .doc でセーブされる。
  3. その結果、XML なのに拡張子が従来フォーマットを指し示しているので Word が混乱。Mac で作成したことだけは読み取って、旧来の Word のコンバータで変換しようとするが、そのコンバータはレジストリで起動が禁止されているので、結局エラーを示すウインドウが出るだけ。
……と、こういう状態になっていたわけだ。この経緯をシスターに話すと、「……あなたが何を言ってるのか全然理解できない」あ゛ー、さもありなん。

まあ、Office 2000 とか今でも使っている人がいるだろうし、最新の Word のフォーマットのファイルを問答無用で送ってくるのは問題があるだろう。そして Mac でヒラギノベースのフォント指定だと、更に問題が複雑化しかねない。そこで、シスターの許可を得た上で、シスターの PC の MUA から、某氏に上記の状況を説明し、「Word 2000 時代の .doc のフォーマットで」「ヒラギノを使わず、できるだけ MS 明朝等のフォントを指定して」文書を作成、送信するように依頼する書状を作成・送信した。で、LibreOffice で開いた文書は、フォントを明示的に Microsoft のシステムに合うように指定し直した上で、.doc 形式でセーブし直しておいた。

しかしなあ……こういうことに、金を払ってソフトを買ってる人々が、どうして翻弄されなきゃならないんだろう。何処かの誰かのように、Linux 上でフリーウェアでゴソゴソやっていてこういう問題に遭遇するのならまだしも。つくづく Microsoft という会社は不親切だと思わされたのだった……まあ、今更こんなこと、言うまでもないことではあるのだけれど。

我慢の限界・補遺

前回書いた教会の話だが、これに関しては他にも山のように問題がある。

まず、下にリンクしてあるこの教会のホームページだが、3年も放置されたままの状態になっている。これに関しては、少しは何とかしようか、という話が出て、僕が教会内の運営委員会なる場所に召喚されたことがある。そこで、僕が自分のキャリアに関して説明し、まあシステム組んで、サイトのヒエラルキーを決めて、コンテンツ作成する位だったらやりますよ、何だったら英語のページを作成しますが、と言うと、そこに臨席していたある女性が烈火の如く怒り出した。

「私の主人は大学で工学を教えていますけれど、アレの英語は最悪です!教会の英語は特殊で、深い見識が求められるものなのに、工学部の博士風情が何を言っているんですか!」

後で聞いたところによると、この女性は高校で英語をずーっと教えていたそうで、教会の英語文書関連にずっと携わっていたのだそうな。だったらまずそういう仁義を切るべきだし、そもそもカトリックと英語ってそんなに重要な関係があるんでしたっけ?まあ、欽定訳至上主義みたいな話なんだろうけれど、今更 web のコンテンツに古英語を書く必要もあまりないだろうし、そもそも欽定訳聖書というのは、原典に依拠したということになっているけれど、実際はティンダル等の英訳版聖書にかなり依拠していることがよく知られている。ティンダルが元にしたのはいわゆる「公認本文 (Textus Receptus)」で、これは『痴愚神礼讃』の著者として名高いエラスムス Desiderius Erasmus が、慌てて集めた良質でない写本(その中には、三位一体の教義を補強するために捏造された偽写本まで含まれている)を基に訳を作成したものであり、現在の我々の聖書と比べると、排除されるべき改竄がいくつも入ってしまっている、というのは、少し聖書のことを知っている人々にとっては、これは常識だと思うんだけど。古英語が分かるなら、それが必要なときに僕が聞いて、あんたがアドバイスすればいいだけの話なのに、こうもスピッツみたいにキャンキャン鳴くってなぁ、あんたのプライドの危機だと思ったからなんだろう?

まあ、こんなことがあってから、僕はこの教会の運営に関して積極的に関与する気をなくした。しかし、放っておくと、この教会ではどんどんおかしなことが進行するのだ。パイプ椅子を何十万も出して購入して、事後承諾で予算にねじ込んだり、ワイヤレスマイクが不足している、と言って、数十万もの予算を購入に計上したり(どこの大ホールだよ?一桁違ってることすら分からない馬鹿は本当に困る)、果てには、信者の住所等の個人情報のデータベースを作成するために、専用の PC と専用のソフト開発の費用として、これも数十万が計上された。ちなみに、その「専用」PC、教会内の某所で使われないまま埃を被っているのだそうな。使わなければどんどん陳腐化して資産価値が減じていくコンピュータを、である。もうお話にならない。

まあ他にも、「東日本大震災の祈り」なんてのを皆でやるときに、信徒の長が、ミサ後の集まりの時間が惜しいのか何なのか知らないけれど、とんでもない早いスピードで先唱をしてくれて、お祈りとはとても思えないような状態になってしまったり、朗読の読み間違いを平気でしたり……まあ、とにかく、何から何までお粗末極まりない状態である。

彼らにとって、信仰とは何なのか、そして共同体とは何なのか、僕にはてんで分からない。そもそも、連中は本当にカトリックなのだろうか?それすら僕には疑わしく思えてならないのだ。

我慢の限界

僕は、あまり他人に対してマナーがどうとかモラルがどうとか言う方ではないと思う。そういうものに対して懐疑的だし、盲信するつもりもない。そもそも、他人と同じようにふるまうことは、僕にとっては何も安心感を齎さない。だから、マナーとかモラルに対して、普段は無頓着で、時に挑戦的ですらあると思っている。

しかし、そんな僕でも、もう我慢の限界なのだ。何がそうなのかというと、僕の所属教会(直接リンク)における、いわゆる主日のミサの状況の、あまりのひどさに対して、である。

僕の所属教会は、中部地区におけるいわゆる司教座教会というやつで、この辺の地区の中心的な教会、とされている。そのせいなのかどうか分からないけれど、どうもこの人、信仰においてブッ壊れてるんじゃないだろうか、という人の集積場のようになってしまっている。以下、いくつか実例を挙げて書くことにしよう。

まず、この教会、何がひどいって、ミサの最中に皆がろくに歌を歌わないのだ。カトリックのミサにおける歌というのは典礼、つまり祈りの一部をなすものなので、歌わないというのは祈らないというのに等しい行為である。まあ、技術的な問題というのもあるのかもしれないけれど、下手なら下手なりに、心を込めて歌えばそれでいい。それ以上の何をも要求されることはないはずなのだ。

しかし、この教会の信者の多くは、歌わない。司教座教会の面目を保つためなのか、結婚式に熱心なためなのか、この教会にはパイプオルガンが入っていて、その伴奏で皆で歌うことになっているのだけど、皆口すら開かない。あまりの状況に、せめて俺位はちゃんと歌おう、と声を大きく歌っていると、周囲の人々に、まるで珍種の生物でも見るかのような目を向けられるのである。

会衆が歌わない大きな原因が、この教会で幅を利かせている「合唱隊」なるものの存在である。オルガンの鍵盤がしつらえてある楽廊で、主に老齢と言っていい年代の女性で構成されるこの「合唱隊」は歌っているのだけど、この人達は、何を勘違いしているのか、自分達の声をわざわざマイクで拾ってスピーカーで聖堂内に流している。グレゴリアンチャントの昔から、教会というところは人の声が響くように作られていて、そこで合唱するのにマイクを使うなんていうのは、隣の人に声をかけるのに拡声器を持つような愚行である。しかし、この「合唱隊」、そんなことは全くと言っていい程に気にもしないのである。

おまけに、この「合唱隊」、とにかく歌が下手糞でどうしようもない。特に迷惑なのは、ピッチが低いこと、それも四分音(半音の半音)分低いことである。この「合唱隊」には、一人、20代前半の女性がいて、この女性は学生時代にコーラスをやっていたとかで、この集団内では大手を振って振る舞っているらしいのだが、この女性は他人と声を合わせると必ずピッチが四分音分下がる。不完全だが絶対音感がある僕としては、これがもう苦痛で苦痛で仕方がない。幼少時に調音とかで絶対音感を獲得している人(カトリックの信者の中にはちょぼちょぼいると思う)などは、おそらく聖堂内にいるだけで耐え難い苦痛を感じていることが想像に難くない。

で、この「合唱隊」、ある古参信者の一家が隊の中で幅を利かせていて、この四分音女はそこの娘である。そういう立ち位置だから、マイクの前でガンガン先唱を歌う。そうするとどうなるか、というと、そういう輩が会衆をリードして歌っているわけだから、会衆全体がこのぶら下がった音程に慣れ、やがて自らその音で歌うようになってしまうのだ。丁度去年のことだけど、この僕ですら、多重録音でコーラスを録っていて綺麗に重ならず、あれーどうしたのかなあ、とチェックしたところが、低めにピッチをとるようになりかかっていたことがあって、慌てて修正したのだった。あの四分音女の存在は、本当に会衆にとって害以外のなにものでもない。

そして、このような技術的問題にもし目をつぶったとしても、尚この四分音女は罪深いのである。ミサの最中の「答唱詩篇」のところで、例によってこの四分音女は独唱をするわけだけど、どうも事前練習など一切やっていないらしく、歌詞を頻繁に間違える。ただ間違えるのもどうかと思うけれど、この四分音女、分からないところを勝手に歌詞を作って歌うのである。先に「答唱詩篇」と書いたけれど、ここの部分で歌われるのは旧約聖書の『詩篇』からの引用句、つまり聖書の文言である。それを勝手に作り変えてしれ〜っと歌うとはどういうことなのか。僕の情報網には、この四分音女がそうやって歌詞を捏造した場面を目撃した人の話が入ってきたけれど、この四分音女「舌を出してくすくす笑っていた」んだそうな。あまりに許し難い。有害この上ない。もう消えてほしい。ちなみにこの四分音女、なんと教師になったというのだけど、こんな教師に教わらざるを得ない生徒達が、もう気の毒で気の毒でならない。

そして、こういう勘違い連中が幅を利かせて、マイクとスピーカーで歌をがんがん流すものだから、会衆の多くは、自分達はもう歌わないでもいい、と思っているらしく、多くの信者は歌を歌わなくなってきている。これも許し難い話である。何度でも書くけれど、カトリックのミサにおいて歌わないということは、お祈りをしない、ということと同意なのだ。身体的な問題で歌えないのならまだしも、横向いてぺちゃくちゃ喋ったりできているんだから、声はちゃんと出せるらしい。でも、典礼の歌は、そういう連中の中では「人に歌わせておけばいい」もの、らしい。そんな連中と同じだなどと、俺は思われたくないんだよ。

ということで、日曜のミサで、僕は抵抗を開始した。典礼に関わる言葉も歌も、大きな声で明瞭にするように徹底している。最近は何人か「戦友」が現れた。やはり僕と同じように、この現状を憂慮している人がいないわけではないのだ。声でしか知らないその「戦友」達と、僕は毎週日曜日、孤独な、だけど信仰においては非常に重要な「抗戦」をしているのである。もう、我慢する必要など何もないのだ。

医者を代える

先日行った耳鼻咽喉科は、今いる場所のすぐ近くなのだけど、この医院は U にはすこぶる不評である。

「……あんなところ、もう二度と行かない」

まあ U の言いたいことは分かる。昔寮で一緒にいた医学部の男に聞いたことがあるのだけど、耳鼻咽喉科・産婦人科・皮膚科は「汚い」モノを扱うということで嫌う人というのがいるらしい。そういう風に扱われる患者の側になったら、汚物のように扱われるのは耐え難い。

実は、昨日の朝に服用した分で抗生物質を飲み切った。ということは、一度医師のチェックを受けておく必要がある、ということなのだが、また問答もなしに鼻にファイバースコープ、では、これはチェックにはならない。せめて扁桃腺周辺の状況や、鼻腔内の状況をちゃんと診てもらえるところに行くべきだろう。

ということで、初診料を払い直すリスクを承知で、違う耳鼻咽喉科の医院に受診することにした。U 御推薦のその医院は、歩いて数分の雑居ビルの一番奥にあった。

ここのドクターは初老(これを読んで U 曰く:あれぁどう見ても70いってると思うんだけど?)の男性だったが、喉を一目診るなり、

「あーこれは洗おう。はい、この膿盆持って口の下で受けて」

で、薬液で扁桃腺を洗う。次いで、鼻腔を覗き込むや、

「あー、君、鼻中隔が湾曲してるなあ」

そして、来歴を話した僕に、

「はーそうかー。いきなりファイバースコープ突っ込まれたのかー。いや、うちにもあるけどね、ファイバースコープ」

見るとちゃんと横の支柱に、すぐ使えるようにかけてある。

「しかし、これ診るのに、ファイバースコープは要らんと思うけどなあ」

と言うと、ドクター、ニヤリと笑って、

「金ばっかり取られちゃうよなぁ」

よく分かっていらっしゃる。

結局、チェックしてもらった結果、喉の炎症はもう峠を越えているので、うがいをマメにやってトローチでもなめときなさい、うちは抗生物質は出さんよ、ああそうそう、うがい薬は出しとこうか……で、鼻と喉の吸入をして終了。料金は初診料込みで前回の数分の一である。うーむ。こうも違うものか。

文書にある通り

長い間苦しめられた微熱・喉の痛み・咳であったが、耳鼻咽喉科に受診してからは驚く程に軽快した。まだ多少咳が出る(→鼻漏がある→化膿が全快していない?)ものの、熱や炎症はすっかりひいた。

咳とともに、緑色で2、3 mm 程の大きさの粘液の塊が集まったような痰が出ていたのだが、これはおそらく鼻漏で喉に落ちた膿なのだろうと思う。緑色の膿、というと、反射的に連想するのが緑膿菌なのだけど、まあ他にも考えられる原因はいくつもある。ざっと挙げると、

……と、まあ色々ある。

長野・上田市にある住吉耳鼻咽喉科医院のページでは、これらの問題に関して実践的な情報を提供している。で……このサイトでは、「第3回耳鼻咽喉科領域感染症臨床分離菌全国サーベイランス結果報告よりMIC90を掲載 (2003年1月〜5月)」という表で、上に書いたような菌に対する各種抗菌剤のいわゆる抗菌スペクトルを示している。これを見ると……僕が最初に処方されていたフロモックスは、緑膿菌に対して「無効」、とある。

フロモックスとクラビットを比較すると……溶連菌や肺炎球菌に対してはフロモックスも十分高い効果が期待できるようだが、メシチリン感受性のある黄色ブドウ球菌とインフルエンザ菌に対しては効果は低く、悪名高き MRSA に関しても極めて効果が低い。そして、緑膿菌に対しては無効である。これに対してクラビットは、溶連菌や肺炎球菌に対して効果が低く、MRSA に対しては極めて効果が低いのに対し、メシチリン感受性のある黄色ブドウ球菌とインフルエンザ菌、そして緑膿菌に対しては高い効果を発揮する。先の痰の様子に加えて、この比較から、今回僕が感染したのが緑膿菌である可能性が高い、と推測されるわけだ。

それにしても、やはりこういう選択は、専門科のドクターと十分なコミュニケーションをとりながら行われなければならないのだ、ということを今回痛感させられた。だって、これこの通り、文書にある通りの状況を体験したのだから。

It's funny.

http://www.kernel.org/pub/linux/kernel/v3.0/testing/

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patch-3.0-rc1.sign 30-May-2011 01:08 249
patch-3.0-rc2.gz 06-Jun-2011 09:19 9.5M

……どういうことかというと、linux-3.0.0-rc2 の kernel 公開がどうもおかしなことになっているようなのである。ちなみに、これを確認した後に、Linus Torvalds 名義、Mon, 6 Jun 2011 09:07:10 +0000 (18:07 +0900) のタイムスタンプの snapshot を Gitweb 経由で入手(ファイルネーム: linux-2.6-59c5f46.tar.gz)して build したが、こちらは 97326418 bytes = 93 Mbytes である。

これに関しては LKML でも問題になっているらしい。詳細は以下御参照のこと:https://lkml.org/lkml/2011/6/6/152

追記:先程 tarball 一切が正常な状態で再公開された模様。

誤消去

昔、吉田戦車(最近リアルタイムの漫画を読まないのだけど、今どうしているのだろう)氏の漫画に「取り返しのつかないことをする」というネタがあったのを読んだことがある。パソコンの筐体を開けて中に納豆を……みたいな、他愛のないことなのだけど、この「取り返しのつかないこと」というのは、コンピュータを使っている人間にとっては決して縁遠い話ではない。

UNIX 系のシステムで、特に管理者アカウントではカレントディレクトリに path を通すな、という話がある。不用意なファイルネーム指定で、消すとシステムに重大な障害を来すことになるファイルを消してしまう事態を防止するためだけど、これを守っていても、root になった状態で "rm -rf ./*" とするつもりで "rm -rf /*" などともしもやってしまうと、UNIX 系のシステムは考えたくもない事態になってしまう。まあ、僕もさすがにこんなことをしたことはないけれど、でもファイルの誤消去というのをやらかしてしまうことがないというわけでもない。

まあ、こんなことを書いている段階で皆さん御想像がつくのではないかと思うのだが、今日、まさにそれをやってしまったわけだ。僕が書きものに使っている TeX Live の関連サイトに目を通していたら The TEX Live Guide / TEX Live 2011 なんてタイトルのドキュメントを発見したものだから、あれ TeX Live 2011 って出たの?じゃあ今 subversion で落としている TeX Live 2010 の developer source なんかいらないじゃん、と早とちりをして、ざっくりソースツリーを消してしまったのだった。当然(?)まだ 2011 は出ておらず、やっべーあ゛ーどうしよう、という話になってしまった。なにせこのソースツリーは巨大で、今使っている光の環境でも落とすのに結構な時間がかかるのである。

というわけで、今、まさに落としているところである。明日位までかかるかもしれない。学生の頃は X や gcc の build に一晩かける位何とも思わなかったのだけど、やはり、時間というものは年々貴重なものになっていることを、今まさに実感しているところである。

また発熱――まだ続く

数日間、抗生剤を服用したのだけど、状況は全く改善しない。それどころか、喉の奥に痰が下りてきて、去痰のために咳をすることばかりが多くなり、喉の炎症がハンパではない状態になってきた。嚥下の際の痛みだけではなく、昨夜など、喉の狭窄から息が苦しくなった位である。仕事の後、家でぜぇぜぇ言いながら、これはもう耳鼻咽喉科に受診するしかない、と腹を括った。

で、今日の朝九時。近所の耳鼻咽喉科に保険証を持って訪れた。現在の服薬状況等を書いて下さい、と問診票を渡されたのにごちゃごちゃ書き、呼ばれて行ってみると、ドクター(この耳鼻咽喉科はアレルギー外来に力を注いでいて、僕のような本来の耳鼻咽喉科の患者には?マークが浮かぶことが多いのだが)が、

「咳とかは?」

で、先のような状況を説明し、これは膿が喉の奥に下りてきているのではないか、という話をしたところ、

「はい、力抜いて、そこのモニター見てて下さいね」

と、いきなり鼻にファイバースコープを突っ込まれた。まあどうせこういう展開になるんだろう、と思っていたけれど、鼻にファイバースコープを突っ込まれながらモニターを見るのは、これは結構難しい。

「はい、これ喉の奥ですね。鼻腔の奥から膿が下りて喉のここにありますね。これ声帯です。ちょっと裏声で『あー』って言ってみて下さい」

あー。と言うと「はい結構です。なんか非常に上手いですね」まあそりゃファルセットで歌うことがありますからね。ということで、喉の吸入2種類、鼻への吸入、副鼻腔のレントゲン撮影、それにクラビット錠 500 mg(巨大な錠剤である……やはりニューキノロン系をがっつり使う必要があるらしい)等の処方……等々で、所要費用約5000円也。はぁ。

案の定

月曜にひいた風邪がまだ治り切っておらず、微熱で苦しんでいる。喉の炎症がひどくて、微熱はおそらくこれのせいだと思うのだが、抗生物質で治らないのが恐ろしい。心身共に疲労が蓄積されているのか、ストレスが多いためか。いずれにしても、これを書いている今も、微熱で頭が重く、時々咳込む。

さて。菅直人と民主党執行部はやはり予想通りの論理を展開しているらしい。目処がつくまで、というのが、鳩山=菅会談で確認された内容を示す文書:

  • 民主党を壊さない。
  • 自民党政権に逆戻りさせない。
  • 東日本大震災の復興ならびに被災者の救済に責任を持つ。
    1. 復興基本法案の成立
    2. 2011年度第2次補正予算案の早期編成のめどを付ける
の内容が充されたとき「ではない」と、岡田幹事長が記者の前で言ったとき、あー案の定こうきたか、まるで小学生の諍いと一緒だな、と思わされた。鳩山氏は「それは執行部がウソをついているんだ」と言ったそうだけど、鳩山さん、言質を取らないと岡田や菅はそういう風にとるんですよ。卑劣漢というのはそういうものなんです。

ちなみに、菅は「原子炉が冷温停止の状態に至るまで」が「目処」だと発言した。しかしだな……東電の工程表によると、それは今年の暮れから来年の1月にかけて、であって、当然だけどこの工程表の予定は延びるだろうから、おそらく今年度一杯、菅は首相の座に居座ることになる。この3か月の間のような停滞が、下手をするとあと9か月は続くのである。

しかし、これで本当に、菅は9月に「呼ばれたから」とアメリカに日米首脳会談に行くつもりなのだろうか? おそらく、アメリカのような国に冷たくあしらわれたとしても尚、あの男は蛙の面に小便、という態でいるのかもしれない。やはり、あの男は辞めさせなければならなかったのだ。

現時点の報道の一例を以下に示しておく:

鳩山氏「ペテン師」、枝野氏「専権事項」 退陣時期で混乱
2011/6/3 11:30 (2011/6/3 13:29更新)

退陣する意向を表明した菅直人首相が来年1月ごろまでの続投に意欲を示したことを受け、民主党内で3日、対立が続いた。鳩山由紀夫前首相は「ペテン師だ」と批判し、早期退陣を要求。執行部刷新のための党両院議員総会の開催を求めた。枝野幸男官房長官は「(退陣時期は)まさに首相の専権事項だ」と突っぱねた。

鳩山氏は都内で記者団に「政治家同士だから約束したことを守るのは当たり前だ。できないならペテン師だ」と非難。「人間としての基本にもとる行為をするなら党の規則の中で首相に辞めてもらう」と述べた。党執行部が内閣不信任決議案に賛成した松木謙公、横粂勝仁両氏を除籍(除名)処分したことには「冗談ではない」と批判した。

鳩山氏は2日の首相との会談で(1)東日本大震災の復興基本法案の成立(2)2011年度第2次補正予算の編成にメドを付ける――の2点を終えた段階で首相が退陣することで合意したとの認識だ。

鳩山氏は3日、自らを支えるグループの議員約25人と協議し、両院議員総会を執行部に要求する方針で一致した。党代表でもある首相の代表解任決議案の提出を検討中だ。両院議員総会は党大会に次ぐ党の議決機関で、両院議員総会長は党所属国会議員の3分の1以上の要請があった場合、速やかに招集しなければならない。

首相は同日の閣議で「今国会は事実上の通年国会になる」と表明するとともに、第2次補正予算の編成準備を指示した。退陣時期を巡って鳩山氏と食い違いがあることには「鳩山氏と自分の会話は紙に書いてある通りで、それ以外は一切話はしていない」と説明した。

この後の参院予算委員会で首相は震災復興や原発事故の収束に向けて「これまで以上に全力を挙げて取り組む。与野党を超えて協力をお願いする」と述べ、続投へ改めて意欲を示した。民主党の舟山康江氏への答弁。

閣議後の記者会見では閣僚から退陣時期を巡る発言が相次いだ。松本龍防災担当相は「6〜7月ではないか」と述べ、早期退陣の見通しを示した。与謝野馨経済財政担当相は「一定のメドがついたら辞任するとはどこにも書いていない」と強調。海江田万里経済産業相は「(首相が触れた)原発の冷温停止の目標は最短で事故発生から6カ月、最長では9カ月だ」と来年1月までの政権継続の可能性に言及した。

自民党の谷垣禎一総裁は総務会で「死に体政権に協力はできない」と明言し、復興基本法案以外の協力には否定的な考えを示した。小池百合子総務会長は記者会見で「詐欺という印象だ」と断じた。民主党内では「不信任政局」の調停役となった鳩山氏について「混乱を拡大させた鳩山さんも責任を取ってほしい」などと批判が広がっている。

(日本経済新聞 6月3日付)

混迷

つい今しがた、衆院で内閣不信任決議案が否決された。民主党の造反議員はわずかに2名。菅の「一定の目処がついた時点で退陣」発言に、党のほぼ全ての議員が乗っかった状態である。松木謙公議員と、離党宣言していた横粂勝仁議員が白票(賛成票)を投じ、小沢一郎議員は欠席・棄権しただけで、小沢派を含めた他の全民主党議員が緑票(反対票)を投じたということになる。

鳩山由紀夫氏が民主党代議士会の会場で辛うじて釘を刺したので、8月に補正予算が成立したときか、9月の日米首脳会談かを「目処」とする……のだろう、という、暗黙の了解がなされているわけだが、果たして菅直人はこれを守るだろうか。僕には、菅直人という人はいとも容易く自らの言を翻す人だと認識しているので、結局菅直人は素直に辞めてくれないのではないか、と危惧している。

では、すんなり辞めてくれればそれでいいのか。対外的にはすこぶるよろしくない。だって、国際的な場で、太陽電池の普及がどうとか言っちゃったわけだし、これを最後に辞めることが分かっている首相と会談することに、アメリカが意味を見出すだろうか? こんな無責任な話はないのだ。結局、菅直人はどちらに転んでも無責任極まりない存在だ、ということは、いささかも変わってはいないのだ。

不信任案というのは、ある意味で野党の仏心だった、とも言えなくはない。だって、無理矢理辞めさせられたんだ、ということならば、菅直人的には言い訳のしようがあるからだ。しかし、不信任案が否決された今、菅直人は得意技の「責任転嫁」の先を失ってしまったのだ。さぁ、一体どうするんだろう。

まあ、可能性として一番ありそうなのが、恥知らずの必殺技「馬鹿になる」だろうか。自分は馬鹿だから分からない……と言ってしまえば、全ての追及に知らんぷりすることができるというわけだ。いやはや、これから日本はそういう首相に翻弄されることになるのだ。もうこの国の未来は暗い。日本は既に沈みつつあるのだろう。

別の意味のウルトラC

昼食を摂りながらニュースを観ていたら、民主党代議士会における菅直人の「震災処理に一定の目処がついたら後進に道を譲る」という発言に納得して、鳩山 G と原口氏はどうも不信任案に反対票を投ずる気になった模様。

この菅の「一定の目処がついたら」発言の原因は、国民新党の亀井静香氏に「会期を延長し、原発事故や東日本大震災への対応をしっかりした上で退陣の腹を決めていただきたい」と言われたことによるものらしい。しかしなあ。刻限を切らないこの発言で皆納得するなんて、余程落としどころを渇望していたんだろうなあ、与党議員諸氏は。

しかし、一年前に菅直人が何を言ったか、震災直後に菅直人が何を言ったか、皆さん是非思い出していただきたいのだ。一に雇用、と言ったその雇用の状況は改善どころか日に日に悪化の一途を辿っているし、震災に関しても、この3か月間に何か建設的な進展があっただろうか? 菅直人への不信感が、今回の与党議員諸氏の「予定調和」によって、与党全体への不信感に変わる日が訪れるということを、今回の騒ぎは暗示しているのである。

三つ目の坂

よく言われることだが、人生には三つの坂がある、という話がある。上り坂、下り坂、そして「まさか」の三つだ、というのだが、この午後に、その三つ目の坂が我々の目前に訪れるかもしれない。

昨夜書いた blog では、実際のところどうなのか、ということは書かずにいたのだが、一夜明けた時点ではどうなったであろうか。民主党内には、

  • 小沢グループ
  • 政権公約を実現する会(鳩山グループ)
  • 国のかたち研究会(菅グループ)
  • 新政局懇談会(横路グループ)
  • 民社協会(川端グループ)
  • 凌雲会(前原グループ)
  • 花斉会(野田グループ)
  • 政権戦略研究会(羽田グループ)
  • リベラルの会(平岡・近藤グループ)
  • 青山会(樽床グループ)
  • 『日本のグランド・デザイン』研究会(玄葉グループ)
と、これだけ派閥が存在するわけだが、現時点で明確に反対を表明しているのは樽床G位であろうか。リーダーが明確に反対を表明しているのが前原G、明らかに長が反対の意思を持っているであろうというのが菅G、野田G、玄葉G、そして賛成を明確に表明しているのが鳩山Gと小沢G、態度保留をしているのが羽田Gである。

民主党執行部は、賛成票を投じた議員に対しては以下のような「制裁」をするとしている。

  • 党を除名
  • 解散・総選挙に及んだ場合の推薦取り消し
  • 解散・総選挙に及んだ場合の「刺客」候補の送り込み
僕がこれを見たときに思ったのは、こういうのを「恐怖政治」と言うんだろうな、ということだ。僕は、菅直人という人が、「義」を以て他者に何事かを求めたことが一度でもあるのか、と不思議に思えてならないのだが、今回もまた「義」の対局にあるようなこの対応である。

公明党の山口代表が、周囲にこうもらしたことがあるという。

「あの人には徳がなさ過ぎるよ」

僕は別に公明党のシンパではないのだが、この一言には誠にもってその通り、お気の毒、と言う他はない。義を持たず、徳のない人間が頭になっているからこそ、震災が起きてもうすぐ3か月が経過しようというこの時期に及んでも、状況がこの有様なのだろうから。ここはやはり、荒療治しかないのだろう。そして、菅直人に対しては、この国のために、恥を被っても尚解散を思い留まっていただきたいと切に願うのだ。

明日の本会議で

今日提出された内閣不信任案の採決が行われる。小沢派に加えて鳩山由紀夫氏の周辺でも賛成に回る人々がいるとされる状況下で、明日(程なく今日になるのだが)の雲行きは見えない。

今日の党首討論で自民党の谷垣氏と公明党の山口氏が異口同音に発言していたのは、今回の不信任案が解散総選挙を望んでのもの「ではない」ということである。大連立を考える上でも、とにかく菅直人が総理大臣ではどうしようもない、だから辞めるべきだ、というのが、自民党と公明党の主張だったわけだ。今頃、おそらく民主党内では皆徹夜覚悟で右往左往しているのだろうと思うのだが、もし菅直人が総理を辞任するならば、今回の騒ぎで総選挙ということにはならずに済む(このタイミングで総選挙になったとしたら民主党が記録的大敗を喫することは想像に難くない……と、ほとんどの民主党関係者は考えているだろうから)のかもしれない。

たとえば、超ウルトラCで、国民新党の亀井静香氏を総理に担ぎ出す、なんていうことができるならば、あるいは八方丸く収まるのかもしれない。亀井氏は、今や数少ない菅直人の擁護者だから、彼に席を譲るということならば、ひょっとしたら菅直人も辞める気になるかもしれない……まあ、何が何でも辞めないと言っているわけだけど。

僕は、菅政権以前、先進国最悪の首相はイタリアのベルルスコーニだと思っていた。しかし、効能なきことがこれ程灼たかなる政治家というのが存在することを、少なくともこの1年で厭という程思い知らされた。もう十分だ。政治空白?今のこの現状のことを空白と言わずして何が空白なものか。政治空白をこれ以上拡大させないために、菅直人には、ここで内閣総理大臣の職を辞することを、心から望んでいるのである。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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