クリスマスが迫っているわけだけど、この時期に教会に行くと、どうにも厭になることが多い。司教座教会であるところの僕の所属教会には、ある意味ブッ壊れた人々が集まってくるのである。
そういう奴等と顔を合わせるのが厭だから、僕は日曜午前九時半からのミサの代わりに、土曜の夜のミサに出るようにしているのだけど、こちらの方にもブッ壊れた輩が集まってくる。たとえば、僕はこのところ毎回聖書朗読をしているのだけど、これがもう厭で厭でたまらないのだ。いや、奉仕することが厭というわけではない。この際に、僕と共にほぼ必ず聖書を読む輩に問題があるのだ。
それはおそらく20代と思しき青年なのだが、「若い人に読んでもらいましょうよ」という古参信者の措置で何を勘違いしたのか、自分の仕事は聖書朗読をすることだ、と思い込んでいるらしい。昨夜、ミサの始まる10分程前のこと、この青年は聖堂に入ってくるや、司会者のところにつかつかと歩み寄り、
「第一読みます」
で、それを聞いた司会者は、何人かの古参信者に視線で了解を求め、それを得ると今度は僕の方にやってきて、
「すみませんが第二を……」
面倒なのではいはい、と答えて、後はその読むことになった箇所を何度か読み返していたのだけど……いや、そんなにいい加減でいいのかねえ。
そもそも、キリスト教の成立した時代、字を読める人というのは本当に少なかった。使徒言行録などを読むと、初代教父である聖ペトロですら文盲であったことを暗示する記述がある。
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。(使徒:4.13, 強調は筆者による)
この時代、「無学な普通の人」が文盲であったことは疑う余地がない。何言っているんだ、じゃあ『ペトロの手紙 一』『同 二』はどうなるんだ、と言われそうだけど、この時代に書簡を書く際に、口述筆記が一般的に行われていたことは、パウロ書簡を読めば明らかだ。書簡の最後に口述筆記者自身の言及が記されている場合もある:
この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。 (ローマ:16.22)
また、パウロが殊更に「私は自分の手で書いています」と書いている箇所も何箇所かある。
このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。 (ガラテヤ:6.11)
わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。 (フィレモン:19)
文字の読み書きは、現代の我々には想像し難い程に一般的でないことだった。そういう時代だったのだ。パウロは富裕層の出で十分な教育を受けていたわけだが、これはかなり例外的な存在だった。しかし、そういう時代にも関わらず、文字によって聖書が書かれ、筆写によって流布し、パウロ書簡によってそれが更に拡大していった、ということは、実は非常に不思議なことなのである。
しかし、パウロの書簡を読めば、その謎は簡単に解くことができる。パウロは書簡の最後に、自分の書いた書簡を読み聞かせるように、と書き添えているのである:
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。 (1テサロニケ:5.27)
この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。 (コロサイ:4.15)
まあ、後者のコロサイの方に関しては、パウロ自身の書いたものかどうか疑われているわけだけど、この時代における「読む」=「識字者が会衆に読み聞かせること」がいかに重要だったか、ということは、これらから読み取れるのである。つまり、原始教会以降、聖書や書簡の朗読というのは、教会と信仰を支える、非常に重要な行為なのだ。これがあったからこそ、この21世紀のご時世にキリスト教は生き残っている、それ位に重要な行為であることは、これこのように歴史が証明しているのである。
話を昨夜の教会に戻そう。自ら第一朗読を宣言した青年だけど、第一朗読が始まるまで、ずーっと「聖書と典礼」を見たままである。あまりの状況にずーっと見ていたのだけど、回心の祈りもあわれみの賛歌も栄光の賛歌も全然口にしない。いや、朗読する前にその箇所を精読するのは当然必要だけど、それはミサの始まる前にやることであって、祈りもせずに読んでいるなんて本末転倒も甚だしい。そもそも回心の祈りもしない、なんて、アンタ本当に信者なのか? って話なんだが。
で、栄光の賛歌の途中に、何を気が急くのか知らないけれど、もう司会者の横に立って、歌が終わるのを待っている。何の為に前の方に座っているんだ? もうてんで理解不能である。で、勢い込んで読み始めたんだが、舌っ足らずで、何度もつっかえて、妙な感情を込めて読まれるんだから溜らない。預言者サムエルもさぞ気が悪かろうよ。
答唱詩篇が終わり、第二朗読の番である。こういう朗読の場合、自分の感情を込めたり変な節を付けたりして読むのはダメダメである。僕はいつも、江守徹だったらどう読むかなあ……と想像することにしているのだけど、読み始めると、そういうことは頭から消えてしまう。何も恣意を与えず、自らが神の楽器となる心地で読む。勿論、正確に、聞き取り易く読むことは最大前提である。
朗読を終えて、軽い疲労感を感じつつ自分の席に戻る。このような朗読は、正直言ってしんどい。だからそう自分から好んで、毎週毎週することなのか、と考えるに……いや、そうできる人はきっとそういう読み方しているんじゃないの? と思ってしまうわけだ。
そして聖体拝領。拝領して、自席で祈った後にふと目をやると、カップルがホスチアを貰っている。最近、洗礼受けてない人が貰っていくことがあるんだよなあ……と思っていると、その二人はホスチアを口に入れず、掌に包んだまま持っていっている。しまった! あれぁ信者じゃないぞ! ……と、追いかけてみたのだが、自席に座ったところで口に入れられてしまった。あー……
以前にも書いたけれど、ここに再掲しておく。
- カトリックのミサにおける聖体拝領時には、一般の方はホスチアを貰うことはできません(許されていません)
- ホスチアを貰えるのは、一般洗礼受洗者か、幼児洗礼などを受けた後に初聖体を受けた人に限られます
ミサが終わった後確認したら、やはり信者ではなかったとのこと(高校生だった)。「信者以外は絶対にダメですからね!」と言ってしまったのだが……うーむ。まあ、そんなこんなで、どうにも厭な気分になってしまったのだった。