UR-08 4 GB Digital Voice Recorder

ちょっと私用で、音声メモをする必要があったので、IC レコーダの購入を考えていた。実はすでに手元には TASCAM DR-5 というブツがあるのだが、これは見た目がゴツいので、今回の目的にはちょっと合わない。低価格の IC レコーダは皆圧縮フォーマットしか扱えないし、どうしようかなあ、と思っていたところに、amazon で USB メモリスティック型の IC レコーダなるものが出ているのに気付き、スパイ心が刺激され、購入することにしたのだった。

届いた包みを開けて、まずはマニュアルを……と見ると、
UR-08-man-china.png
ん? 中文簡体字しかないのか? ということで、"ur-08 4gb digital voice recorder manual" でググってみると、
UR-08-man-eng.png
英文マニュアルを入手できた。まあ、中国語でも推測できないことはないのだけど。

充電はすぐに終わり、録音してみるとそこそこの音質で録音できている。しかし、この録音で生成されるファイルがクセモノだった。4 bit の ADPCM (Adaptive Differential Pulse Code Modulation、適応的差分パルス符号変調)、ビットレートが 128 kbps である。128 kbps というと聞こえがいいかもしれないが、MP3 や AAC より低い圧縮率でこのビットレートなんだから、音質的には知れたものである。

とは言え、音声を判読する上では問題はあまりなさそうである。マイクがポップノイズを拾い易いので、手持ちや風のあるところでの録音は無理そうだが、室内での会話の記録等には十分使えそうである。

最後に書き添えておくけれど、もしこの品に興味を持たれた方は、あくまでも on one's own risk で御購入されるよう。こういう言い方はあまりしたくないのだけど、中華品質なのは否定しようがないと思うので。

愛と鞭

世間では、大阪市立桜宮高校において、バスケ部の顧問教諭から日常的に体罰を受けていた部の主将が自殺した事件に関してあれこれ議論が盛り上がっているようである。体罰容認派、反対派、様々な意見が出ているらしい。

意外に思われるかもしれないが、僕は剣道と居合を高校までやっていたので、この手の体罰に関しては「される側」としてはそこそこの経験がある。では、僕が大学に入って以降、人を教える側に立ったとき、体罰を与えたことがあるか、というと、これはただの一度もない。もちろん、僕が主に大学生以上の人々の教育にたずさわっていたから、というのが、その最大の理由なのだろうけれど、たとえ小中学生が相手であったとしても、僕は体罰を手段として使うことはないだろう。

では、体罰を完全に否定しているのか、と言われると、そうでもないような気がする。何が何でも、相手に目前の問題を認識させ、それに対してどうあるべきか、という課題に向かわせる上で、一発頬を張る、というのは、それはそれなりの効果があるだろう、とも思うのだ。僕自身は、そういう局面では手を上げず、相手のトラウマになるかならないか、ぎりぎりのラインでかなりキツいこと(「君は頭に腐ったオガクズでも詰めてるのか」とか「君には年齢相応のプライドもないのか」とか「君は親から貰った感覚器官で目前の事物を認識することもできないのか、できないんだったら、そういう器官が欲しくても損われている人達にさっさと差し上げるべきじゃないのかね」とか)を言うわけだけど、そういうまわりくどいことを言うよりも、頬を一発張る方が説得力が高く、後々わだかまりを残さずに済むときもあるのかもしれない。

ただし、言葉であっても体罰であっても、こういうことを行う際には気をつけておかなければならないことがある。それらの行為は、それ自体は教育的効果を為さない。キツい一言もビンタも、教育上ぜひとも教わる側に認識しておかなければならないことに、否応なく彼らの耳目を向けさせるための手段に過ぎないのだ。だから、その手段を行使する際には、タイミングを見誤ることのないように、注意深く、そして過不足のないように行使しなければならない。

そして、教える側は、言葉を浴びせられる、あるいは頬を張られる相手と、その痛みを共に負わねばならない。嫌な言葉を吐けば、その日一日気分が悪くなるだろう。最初はそんな言葉を吐かせた相手への憎しみを感じるかもしれないが、早々にその感情は、そんな言葉を吐いた自分自身への嫌悪感に変わる。物理的に頬を張るときだって、掌が充血するだろうし、時には相手の前歯で手を切るかもしれない。それは、相手に問答無用で衝撃を与え、否応なく物事に耳目を向けさせる、という手段でしか相手を指導できなかった自分への責めとして、深く深く受け止めなければならないのだ。

そして、教える側は常に己に問いかけなければならない:自分は、自分のフラストレーションの捌け口としてそのようなことをしてしまっていないだろうか? と。相手が飲み込みの悪い性質だったら、言葉を荒げたり手を上げたりする前に、どうしたら飲み込めるのか、どうしたら咀嚼できるのか、を考え、手を尽すのが、教える側の本来の仕事なのだ。それができない己の至らなさに、常に心を向けられなければ、その人はもはや教育者ではない。

今更こんなことを書かねばならないのは苦痛なのだけど、学校で子供を教える、という意味で使われる英単語には education と discipline というふたつの語がある。最近は後者を使うことは滅多にないと思うけれど、たとえばイギリスのパブリックスクールなどでは、言うことをきかない子供を教師が校長室に連れて行き、校長が部屋に備えつけの鞭で尻を叩く、なんて話が実際にあったのである。こういう教え方を discipline と言うわけだ。

僕は、「教える」という意味での自らのミッションは education であって discipline ではない、と確信しているので、教える相手に手を上げるようなことはないわけだ。しかし、たとえ discipline の方を行うにしても、実は先のパブリックスクールの例などはそれなりに工夫されているのだ。児童に恐怖を与えるのは校長であり、そして尻を叩く鞭は、児童に致命的な傷を与えるようなものではない。

要するに、たとえ discipline であったとしても、相手に苦痛を与える行為の背後には、本来の目的が何なのか、ということを考慮した上での線引きがされている、ということである。愛の鞭というのは、相手を毀損するためのものでは断じてない。そして、与える痛みや恐れの程度は、その対象と効果という観点から吟味に吟味を重ねたものでなければならないのだ。

これはあくまでも僕の推測だけど、先の顧問教師は、おそらく部全体の問題に対して、部の代表的存在である主将を叱咤し、体罰を与えていたのだろう。これは、主将の責任感を喚起し、部全体の一体となったモチベーションを育てる、という狙いで行われていたのだろう……最初のうちは。しかし、やがて主将は、部の代表としての存在を否定されるレベルまで体罰が向けられるようになり、やがて単なるスケープゴートへと存在の意味が変質してしまった。そして顧問教師は、その場その場で、自分の思ったような結果が出ないときに、この主将に体罰を与えるようになった。それは教育的効果が期待できるのだろうか? その場その場で顧問教師が感じたフラストレーションを、ヤギを苛めて晴らす、という、およそ教育の彼岸にあるような行為に、それはなっていたのではないだろうか?

百歩譲って、体罰が許容されるとしても、鞭は愛の実現のために振るわれるべきなのである。相手を毀損しては、何の意味もないのだ。

レンズ拭き

某修道会のシスターから依頼されていた件で、今日時間ができたのでようやく対応に伺えた。

依頼内容は単純で、あるシスターの使っている端末で CD ドライブが使えなくなってしまったので何とかしてほしい、というものだった。昨日の夕方、近所の家電量販店で湿式のレンズクリーナーを購入し、机の奥の方から代替フロンのブロワーを引っ張り出し、カバンに詰めて、午前中に修道院に伺った。

CD / DVD のレンズクリーナーというのを使われた経験のない方もおられるかもしれないが、モノとしては単純な代物で、 CD の記録面に小さなブラシが付いている。このブラシで読取用のレンズを掃いて、読取エラーの原因になるレンズの汚れを除去するわけだ。

CD / DVD のピックアップレンズには、ガラスのものとプラスチックのものがあるのだが、一部のものを除いて現在はほとんどがプラスチックを用いている。光学系を単純にするために非球面レンズを使い、なおかつ研磨の工数を減らすためには、プレスで大量生産が容易なプラスチックを用いる方が圧倒的に有利だからだけど、プラスチックということは、ガラスにましてレンズの取扱いには注意する必要があるわけだ。光学ドライブの説明書に必ず「レンズには絶対に触れないように。拭くのもダメ」と書かれているのは、こういうことも関係している。

しかし、たとえどれ程注意して使っていたとしても、汚れるときには汚れる。そしてこういうときには、どうしてもレンズを物理的に拭ってやる必要が生ずる。この際の摩擦の影響を最小限に抑えるために、通常光学ドライブのレンズクリーナーは、クリーニングのための液体を使わない、いわゆる乾式のものが「普段の」メンテナンスでは推奨されるのだけど、時々これではどうしようもない状況になることがある。そういうときは、今回のように、湿式のクリーナーを用いなければならない。それも、一度や二度では回復せず、リピートをかけて何度も繰り返さなければならないこともある。

今回のケースはまさにそれだった。Windows Media Player をリピート再生モードにして、何度も何度も再生を繰り返してから、その辺にあった CDROM を突っ込んでみると……よしよし、読めるようになりましたね。シスター達に回復した状況を確認してもらい、乾式のクリーナーを購入してもらうようにコメントして、今日の作業は終了である。

丁度昼食の時間で、食べていって下さいな、ということだったので、有り難くカレーライスをご馳走になる。近所に住み着いている猫の話などをしながら食事をいただき、食後に後片付けをしてから、帰途についた。

ふと、嫌なことを思い出した。僕の所属教会にも何人かいるのだが、司祭やシスターと親しくしていることをやっかむ人、というのがいるのだ。たとえば、今回のようなことがそういう類の人の耳に入ると、「Thomas さんだけそんなことで修道院に親しげに出入りするなんてズルい」とか言うのだそうな。ズルい? 何が? どうもそういう人達は、自分が聖職者(厳密に言うとシスターは聖職者ではないのだが)と親しくなることで徳が高くなるとでも勘違いしているのかもしれないが、そういうことを考えている人、そういうことが垣間見える人とは、聖職者の方から距離を取るものである。何故って、そんなまやかしの権威を、どこでどう振り回されるか分かったものではないし、そのような権威の濫用に対して責任を負うことなどできないからである。

僕が修道院で PC のメンテや芝刈りをしたり、過越の食卓に乗るラムチョップを焼いたりしているからといって、僕が修道会の権威や徳など纏えるはずがない。そりゃ、広い意味での奉仕をしているわけだけど、別に修道会でも、宗教色の全くない老人介護施設みたいなところでも、その行為に関わる徳には何の違いもない。たまたま僕が、その修道会の人達と面識があって、先方が頼みやすく、僕が引き受けやすいポイントがあった、というだけのことだし、僕が自分で入っているわけでも何でもないんだから、僕にはあの修道会に関わる事々を「纏う」資格など何もないのだ。それを僕が分かっているから、あちらとしても僕にこういうことを頼みやすいのだろう。

聖職者と近しくあることで、まるでその威光を我が物のように勘違いしている手合いを見ると、小学校のいじめっ子が、好きな子のことを「アイツは俺のことが気になってるんだよ」とか吹聴しているのと同じように見えてならない。アンタらがやっているのは、その好きな子に目を向けてもらいたいがために、意地悪をしたり、その子が嫌がるようなことをあちらこちらで吹聴したりするのと、何も違いがない低次元な行為ではないか。そんなアンタらのせいで、その子にどんな迷惑がかかっているか。どんな嫌な思いをさせているのか。そういうことを考えられない時点で、ある意味終わっているようなものなのだけどねえ。ああ、下らねえ。やってることも、やってる奴もね。

残念な所作

まずは、皆さん、明けましておめでとうございます。僕が blog というものを書き始めて、もう20年近くにもなろうとしているわけだけど、おそらく今後も(更新のペースは落ちるかもしれないけれど)書き続けることになるでしょう。今後も何卒よろしくお願いいたします。

……さて。4日からまた忙しくなるので、せめて今日までは、と、のんびりテレビなど観ている。最近は年末年始には本当に面白い番組がないので、BS で『鬼平犯科帳』『仕掛人藤枝梅安』の再放送を観ている。池波正太郎は老後の楽しみにとっておこうと思っていたのに、もうあらかた読んでしまっているのだが、読み返しても面白いのが池波正太郎である。このドラマもそれなりに楽しんで観ているわけである。

しかし、時代劇というのを観ていると、いつも残念に思われてならない。僕は居合をやっていたので、刀を扱う所作に違和感があって、もうどうしようもないのである。

たとえば刀を抜くとき。時代劇では、まず間違いなく、刀を抜くときには柄をそのまま真っ直ぐ抜いているわけだが、実際にはあんな抜刀はあり得ない。まず柄頭は目前の敵に向け、威圧しておかなければならない。抜刀の瞬間は敵にとってこれ以上ない程の隙なのだから、そこに反応する敵の鳩尾に、いつでも柄頭を突き込めるようにしておかなければならないのだ。そして、刀はただ柄を鞘から抜くのではなく、左手の鯉口を包んだ手を帯に沿って引きながら抜く。時代劇で出てくるようなぞんざいな抜き方など、実際にはあり得ないのである。

しかし、困ったことに、最近テレビなどで見かけるような、試し斬りを人に披露するような手合いが、あの時代劇のような抜き方をするのである。連中があんな抜き方をする理由は簡単で、刀を自分の身体の一部にするような修練をしていないからである。本来の抜き方をするときには、刀の長さを身体に覚え込ませていないと、抜き切らぬうちに鞘をこじって鞘を割ってしまう。それが怖いから、あんな抜き方をしているのである。しかし、そんなレベルでは、抜刀時に斬られておしまい、なのである。

実家で暮らしていた頃、父と時代劇を観るといつも「ほれ、また『ささら剣術』だぞ」という話になったものである。横で母は、ほーらまた始まった、という顔をしているわけだけど、居合をやっている者としては、やはりあれはいただけないのである。それは今でも変わらない。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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