恕と恨

タイトルを見て、僕が何に怒っているのだろうか、と思われた方がおられるかもしれない。しかし、この漢字の意味はそれとは正反対である。

ジョは一見似ているが、その意味は正反対である。前者は文字通り「怒る」ことだが、後者は(デジタル大辞泉に収録されている説明によると)「他人の立場や心情を察すること。また、その気持ち。思いやり。」という意味だ、という。

恕という漢字を使う言葉を思い起こすと、たとえば恕免とか寛恕、忠恕……などというものがあるわけだが、これらの意味において統一的な「恕」のニュアンスは何か、というと、相手に対する誠意と寛容さ、ということになるだろう。これを頭に置いて、『論語』衛霊公篇 二十四 を見てみると……

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也、

子貢問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有りや。子曰く、其れか。己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ。

自分がされたくないことを他人にしてはならない、と聞くと、おいおいちょっと待てよ、という話になる。A さんのされたくないことが、一般的に A さん以外のされたくないことと一致するとは限らないわけで、この言葉を乱用することは危うい行為なんじゃないのか……という疑念が湧いてくるわけだが、孔子は先刻そんなことはご承知で、まず「自分がされたくないことを他人にしてはならない」という言葉より先に、この言葉で表される行為が「恕」の表れである、と、ちゃんと前置きをしているのである。他者に対して寛容であれ、誠意を持って対せよ、そして、自分がされたくないことを他人にしてはならないのだ……と、孔子は言っているのである。

韓国は儒教文化の国だ、と言うのだけれど、どうも『論語』のこの一節だけは、国策なのか国民の意志なのか、どうやら飛ばして読まれているような印象を受ける。






本当に韓国が儒教社会であるならば、こんなことができるとはとてもじゃないけれど考えられないわけだ。

これらのような韓国人のアクションを漢字一文字で表すなら、適切なものとしてハン以外思い浮かばない。これに関しては、ある話を思い出さずにはいられない。

韓昌祐という人物がいる。僕の大嫌いなパチンコの業界でダイナムと並んで大手であるマルハングループの創業者である。この「マルハン」という社名に関して、以前韓国でこう報道されたことがあった:

マルハンの「マル」は日の丸、「ハン」は「恨」で、日本に対する恨みから社名を付けた。
これに対して韓昌祐は:の5分40秒位からのくだりで、これを:
誰がそんな変な意味の名前を付けるのか。パチンコ玉の丸さ、地球の丸さから『マル』を取り、それに私の名前の『韓(ハン)』をつけたのです。
と否定している。

僕には韓氏の深意は分からない。分かる程に韓氏のことを知らないからである。しかし、ひとつだけ確かなことは、韓国のメディアがこう報道した、ということである。韓氏ではなく、韓国国内、特にメディアの意図として、そのような報道をするような気風がある。このことだけは、残念ながら事実だとしか言いようがないようだ。

上にリンクしたコトバンクのエントリーで、「恨」の意味として、こんなことが書かれている:

朝鮮語で,発散できず,内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす語。怨恨,痛恨,悔恨などの意味も含まれるが,日常的な言葉としては悲哀とも重なる。挫折した感受性,社会的抑圧により閉ざされ沈殿した情緒の状態がつづくかぎり,恨は持続する。長い受難の歴史を通じてつねに貧しく,抑圧されて生きてきた民衆の胸の底にこもる恨は,おのずから彼らの行動を左右する要因としてはたらき,抵抗意識を生みだすようになる。韓国では植民地時代から解放後の〈外勢〉と〈独裁〉のもとで,恨は民族の〈恨〉として強く意識化されてきた。・・・
僕は嫌韓でもネトウヨでもないので、彼等が何らかの抑圧を受けた時代があったことを否定はしない。しかし、戦後、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」、そして、無償3億米ドル、有償2億米ドル、民間融資3億米ドル(1960年代中盤、まだ 1米ドル = 360 円の固定相場の時代で、当時の韓国の年間国家予算が3.5億米ドル程だったという)の経済協力という名の賠償を経て現在に至り、多くの日本人は朝鮮半島を日本が統治していた時代に問題があったと認識しているこのご時世に、なぜ彼等が尚「恨」にしがみついているのか、と考えると、やはり不可解だとしか考えられない。彼等は一体、いつになったら「恨」を越えて「恕」に至ることができるのだろうか。こういうことを思わずに、一体何が儒教文化なのだろうか。

あーあ、やっちゃったよ

唐突だが、韓国にも右翼と左翼というのがあるのはご存知だろうか。日本で右翼というと、主に勤皇・民族主義を表に出した人々で、左翼というと、安保闘争時代のヘルメット姿の……というような連想をする方が多いと思う。では、韓国では右翼とか左翼とかいうのはどのようになっているのか。

実は、韓国における右翼・左翼の区別は、日本におけるそれよりも簡単かもしれない。日本の場合、新右翼と言われる人々と新左翼と言われる人々が接近したりして、かなりややこしいことになっていたりするのだけど、韓国の場合は、「反共・反北」の強硬派が右翼、「容共・親北」が左翼……と、こういうことになっている。

学生運動や教職員組合が左翼的立場を取る、ということは、韓国でも日本と同じ状況である。しかし、ここで注意しなければならないのは、日本の右翼・左翼の場合と逆に、韓国では左翼の方がより民族主義的である、ということである。「容共・親北」だということは、北との統一、それも主体思想を背景とした民族主義的な統一を志向するということで、この点が日本と大きく異なっている。

韓国で、どうして未だに民族主義的な暴走が起こり易いのか、ということには、実はこの韓国における左翼思想が大きく関わっている。日本に日教組があるように、韓国にも教職員組合である全國ヘ職員勞動組合が存在するのだが、この団体は左翼志向(しかしその内実は異なっているのだが)であって、それが教師裁量の教育において大きな影響力を持っているのである。

韓国の初等教育課程において、日本の「ゆとり教育」における学校裁量時間と同じような、「裁量活動」と呼ばれる時間が取られている。実は、この時間こそが、韓国の初等教育課程における民族教育の時間として活用されている。先にも書いたように、韓国の教職員組合は非常に民族主義的色彩が濃い。だから、あの悪名高き『独島の歌』などは、まさにこの時間に教え込まれるのである。

韓国における「裁量活動」の現状と課題』という論文を見つけたのだけれど、これによると、裁量活動は「教科裁量活動」と「創意的裁量活動」に大別される。前者は通常の教科教育を補充したり、より深い内容を教えたりするもので、後者は「凡教科学習活動」と「自己主導的な学習」に分けられていて、「凡教科学習活動」の中に「統一教育」「韓国文化アイデンティティー教育」という項目がある。先の民族教育は、この範疇として行われているものである。

この「裁量活動」における民族教育は、我々日本人が思うのよりも遥かに熱心に行われている。上にもリンクした Wikipedia のエントリー「全国教職員労働組合」の中にも、

2005年5月、全教組所属の教師が中学生180人をパルチザン追慕祭に動員するという事件を起こし、国内で猛反発を招いた。また、2005年2月から2年近くの間、「北朝鮮の先軍政治の偉大な勝利万歳」と書かれたポスターなどを全教組のホームページに掲載し、北朝鮮の体制を賛美・宣伝しているとして2007年1月18日、国家保安法違反で関係者が逮捕された。
本当かよ? とお思いの方もおられるだろうが、これは事実である。僕も、以前にこの民族教育の時間に描かれた小学生の絵を目にする機会があったのだが、その絵は日本を武力攻撃する韓国を描いたものだった。最近はいささかマシになったという話もあるけれど、韓国における民族教育というのはこれ程までに苛烈なものなのである。

これを知れば、ロンドンオリンピックの男子サッカー3位決定戦における、韓国選手の呆れた振舞いも、なるほどと思えるのである。サポーターが渡したとされる竹島に関するメッセージのプラカードを高々と掲げ、日本と交換したユニフォームをわざと着ずに尻に押し込み、五輪旗を超える大きさの国旗が持ち込み禁止であるにも関わらず、あの巨大な太極旗を持って行進したこと、そして、韓国のメディアがこれらの行為を「英雄的」と報道したことも、なるほど、そういう教育が背景にあるのならば、ありえる話であろう。

勿論、それが許されると言っているわけではない。韓国人だって、このことは問題だと思っているのに違いないのだ。たとえば、ここ十数年、欧米では韓国人の留学生の数が非常に増えているけれど、これだって、親がこのような歪んだ民族教育のバイアスから子供を解き放ちたいと思ってのことだと考えれば、なるほどと理解できなくもないわけである……もっとも、今回問題になっているプラカードを選手に渡したのは、イギリスに留学している27歳の大学院生だというから、結局この束縛からは解放されていないということになるわけだけど。

しかしなあ……あー、やっちゃいましたねえ。かつてオリンピックでは、黒人差別問題を強調する黒い手袋を着用してメダル授与式に参加した選手「ですら」追放されたのである。ましてや、現在進行形のあの竹島の騒ぎをオリンピックに持ち込んだら、どうなるか分かりそうなものなのに。しかも、サッカーと言えば、かつて試合結果がもとで戦争にまで発展したことがある競技である。ちょっと歴史を知っていれば、こういう問題に IOC も FIFA もナーヴァスなのだということが分かりそうなものなのだが……いやはや、教育というのが人間形成においていかに大事なものなのか、僕は今回の件でまたもや深く思い知らされたのであった。。

window manager

僕は Linux をメインに使っているわけだけど、狭義の Linux は GUI システムを直接抱え込んでいるわけではない。Linux の GUI システムは X window system 上で実現されている(最近の Ubuntu などでは Wayland を導入しようという動きもあるけれど、 ここなど見るとかなり苦戦している模様だ)。ただし、X 上でどんな window manager を選択するかによって、その選択できる範囲はかなり広いものである。

僕はこの何年か、ずっと Xfce4 を使っている。どんな具合かというと:

desktop-20120812.png

……という具合。前回触れた CDE 風、というか、Mac OS X 風というか、そんな感じにして使っているわけだ。Xfce は軽いし、僕の嫌いな Qt ではなく GTK+ ベースなので、随分長い間使っている。

ところが、この1、2日辺りに、妙なニュースが流れてきた。Debian 7.0 としてのリリース準備中である Wheezy が、default の window manager として Xfce を採用する、というのである(gitweb の当該エントリ)。まあ今迄も alternative で Xfce ベースのインストールが提供されていたから、それを表に持ってくるだけの話なのだろうけれど。

どうしてこういう話になるのか、というと、要するに GNOME が肥大化してどうしようもない状態だからである。とにかく最近の GNOME の評判は悪い。Debian の場合はそういう問題よりも、GNOME ベースだともうメディアに入り切らない、という実利的な問題があるからこうなったわけだが、そうなると世間では Xfce が今迄以上にメジャーなものになっていくのだろう。反主流派でいることに慣れている僕としては、少々居心地の悪い思いがする話なのだった(って、他がどうなっても僕自身には何も関係ないはずなのにね)。

で、昨日から、他の window manager を試すことにして、LXDEEnlightment を試してみたのだけど……うーん、しっくり来ない。LXDE はデザインに Windows 臭がしたのでちょっと……という理由で、Enlightment は単純に重い、という理由で、結局また Xfce に戻してしまった。うーむ。

Xfce にしたって、かなりの妥協の末に使っていたものなので、しっくり来るものに出会えないか、というのはいつも思っていることである。昔は FVWM で何も問題なかったのだけど、version 2 以降のメニューバーが気に入らないんだよなあ…… Debian ではこういう向きの為に、ちゃんと version 1 の時代の FVWM を未だに収録してくれているのだが、さすがにちょっとね……うーむ。選択の範囲があるというのは、それはそれで悩ましいのである。

CDE

CDE (Common Desktop Environment)というと、大学に居た頃に情報系の友達のところに遊びに行ったりしたときに、机上に置かれていた、いわゆるランチボックス型の SPARCstation の筐体と共に、ある種の憧れを思い起こさせるものである。まあ、途中から嫌という程触れるようになって、なーんだ実は NeXT とか程洗練されてるわけじゃないのかぁ、などと思わされたわけだが、でも、ワークステーションのデスクトップと言えば、この CDE の感じを思い出すわけだ。

ところが、この CDE が何と今月からオープンソフトウェアとして公開される、という。時代も変わったものである。sourcesorge の CDE のページからダウンロードできる Linux 対応のソースは未だ alpha release だとのことだが、Wiki にあるビルドのインストラクション通りの作業を行って、手元の環境で build 可能であることは確認した。Debian(ただし non-free 扱いかもしれないが)でもパッケージが公開されればいいな、と思うが、実際に使うかどうかは……うーむ、XFCE4 でガッツリ環境構築しちゃってるしなあ。

【後記】現在の Solaris は GNOME ベースらしい……まあ、さすがに CDE はもう古いしなあ……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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