太陽電池の落とし穴

以前にもここに書いたけれど、世間で盛り上がっている「再生エネルギー礼賛」みたいなムードの中で、皆本当に、真剣に、再生エネルギーのこと考えてるの? という疑問を、いつも僕は抱かずにはいられない。たとえば、今日、こんなニュースが流れている:

米太陽電池、3社が相次ぎ破綻 中国の攻勢で

2011/9/5 0:47

【シリコンバレー=奥平和行】米太陽電池業界に逆風が吹き付けている。8月にはソリンドラ(カリフォルニア州)など3社が事実上、経営破綻したほか、米最大手ファーストソーラーの4〜6月期は大幅減益となった。最大市場である欧州で販売が伸び悩んでいるほか、低価格を売りものにする中国企業の攻勢が強まっており、消耗戦の様相を呈している。

ソリンドラはビルや商業施設に設置する円筒状の発電効率が高い太陽電池を生産していた企業。8月はエバーグリーンソーラー(マサチューセッツ州)と、半導体世界最大手、米インテルの出資先として知られるスペクトラワット(ニューヨーク州)も経営が行き詰まった。ファーストソーラーの4〜6月期決算は売上高が前年同期比9%減の5億3277万ドル(約410億円)、純利益は同62%減の6113万ドルと減収減益だった。

自然エネルギーの需要の高まりを背景に、太陽電池への需要はこれまで順調に拡大してきた。欧州太陽光発電産業協会(EPIA)によると、2015年には世界の太陽電池の新規導入量が10年実績より4割強多い2393万キロワットまで増える見通し。ただ11年は10年比20%減の1333万キロワットを見込んでいる。

欧州各国の政府は電力の固定価格買い取り制度などをテコに需要を喚起してきたが、ここへきて財政悪化を背景に相次いで補助を縮小しておりその影響が出た。主要市場である欧州の需要減速で太陽電池の価格が下落し、米国各社の業績を圧迫した。

供給能力増強を進めてきた中国企業が欧州の減速などで米国市場に矛先を向けたことも、米企業の苦境を一段と深める結果となった。中国企業は米国で施工会社を拡大し広告も活発に行っている。米調査会社ソーラーバズによると、8月の太陽電池モジュール1ワット当たりの価格は、前年同月より23%低い2.84ドルまで下がっており、各社の収益の重荷になっている。

(日本経済新聞 2011年9月5日付)

これからも分かることだけど、太陽電池生産は、現在、中国のほぼ一人勝ちの状態である。再生エネルギー先進国(とか言ってるけど、他国の原子力発電による電気を買ったりもしているから、実は真の意味でそうは言えないと僕は思うのだけど)ドイツでも、国内法人で太陽電池を生産するはずが、実際には中国の安価な太陽電池に勝てない、という現状があるのだ。

エネルギーは、どう形が変わっても、それが国というものの生命線であることには何ら変わりはない。生命線を容易く断たれるような構造を容認してはならないのだ。もし、本気で太陽光発電を大規模に行うのだったら、内製するか、日本に対する政治的カードとして太陽電池供給を使わないことがある程度保証されている国から輸入する、という方針を現実のものにする尽力は欠かせないのだが、再生エネルギー再生エネルギー、とはしゃいでいる政治家や一般の方々は、どうもとんとそういうことをお考えにはならないらしい。

僕は別にナショナリズムを説いているのではない。21世紀は、今迄以上にエネルギーというものの位置付けが重要になり、それが貴重なものになり、時にはそれを巡った政治的やりとりをしなければならない……そういうことを言っているのである。現実を見据えずに空理空論に遊ぶとどうなるか、この一年と少しの間、日本という国にいて、尚分からない人がいるならば、そういう方はさっさとこの過酷な現実の世界からオサラバした方がよろしい。いっそ死んでいただきたい。

TeX Live 2011 インストールガイド

http://www.fugenji.org/~thomas/texlive-guide/

上記 URL に「TeX Live を使おう ―― Linux ユーザと Mac OS X ユーザのために ――」という文書を置いた。TeX Live 関連で、この blog に来ている人が少なからずおられるようなので、1か所にまとめた方がいいだろう、ということで作成した。御参考までに。

今更ながらXは便利だ

Mac OS X 上で GNU Emacs を build して使い始めてから、もう結構経つのだけど、どうも X 周辺の不具合で、X 経由でリモートから使うことができずにいた。どうも原因が homebrew にあるらしい、とにらんで、思い切ってクリーンインストールし直したら、おお! X 経由で使えるようになったじゃん! ……現時点では、ウインドウ上で copy and paste をするときにヘマをすると malloc 関連で落ちるのだけど、それにしてもこれは大きな進歩である。

勿論、X は ssh でポートフォワーディングして使っているし、この通信は firewall 内で行っているので、セキュリティ上の問題は極めて小さい。こうなったら……と、探してみると、ありましたありました。MUSKMELON.jp の「Intel Mac 10.6 Snow Leopard 専用 64 ビットバイナリ」のページから、Ghostscript.app と Xpdf.app のバイナリをいただき、これをインストールすると……うん。これでリモート端末上でも、Linux とほぼ変わらない環境で Mac OS X 上で作業ができるようになった。これで合法的にヒラギノフォントを使った作業ががんがんできるわけだ。

しかし、本当に X はこういうときには便利だ。20年近く前に、阪大の大型計算機センターの SGI Onyx 上で立ち上げたアプリをリモートの Linux 端末上から操作していたときのことを思い出すが、こういう利便性というのは、セキュリティの問題とネットワークの速度を除けば、当時の段階でほぼ今と変わらず確立していたんだよなあ。本当に、この20年近くの間、我々は何をしていたんだろう……などと考えてしまうのだった。

料理とエサの違い

今日、たまたま家に居たときに、よみうりテレビ制作の『ミヤネ屋』を観ていたのだが、毎週火曜のこの番組では、かつて『探偵!ナイトスクープ』で人気を博した林裕人氏の料理コーナーというのが放映されている。林シェフが、料理に悩む主婦の家を訪問して料理を伝授する、という内容なのだけど、あまり何も考えずに、それを観ていたのだった。

今日登場した主婦は、あさりの入った海鮮塩焼きそばが上手く作れないのだ、と言う。まずその主婦に作らせて試食し、それから料理の伝授に入る、という構成なので、まず、その主婦が焼きそばを作るのだが……これを観ていて、僕は絶句してしまったのだった。

おそらくこの主婦は、料理はあまり得手ではないのだろう。だから料理にも力が入らない。まあそれは分からないでもないし、それを責める気は毛頭ないのだが、フライパンに材料を投入するその手つきが、どうにも他に言い様がない程に「ぞんざい」なのである。麺を入れるのにも、まるでフライパンの底面に叩き付けるが如く「放り込む」のだ……これを観ていて、何か、哀しくなってしまったのだった。

僕は別にグルマンを気取っているわけではないのだけど、まあ自分でも普通に料理を作る。おそらくUよりも僕の方が料理は上手いと思うのだが、しかし、Uも、こんな作り方はしない。もしそんなことをするようだったら、おそらく一緒には居られないと思うのだ。僕自身も、勿論そんな作り方はしない。したことがない、というよりも、そういう作り方をするなど、考えもしなかった。

料理を作るということは、作ったものを食べる、ということである。主婦だったら、その料理を旦那と一緒に、そして子供と一緒に食べるのだろう。誰かと一緒に食べるものは、それを食べるということが、ほんの少しでもよりよい生き方に繋がるように作る。そういうものとして食べてもらえるように、そして自分でもそういうものとして食べられるように作る。そういうものだと思うし、そうでないのだったら、そもそも作る意味がないと思うのだ。

たとえば、最近僕は料理にかける金をケチっていて、今日は出先でたまたま覗いたスーパーで、1個の 1/4 になった冬瓜が見切り品78円の値札が付いていたのを買ってきた。で、皮を剥いて、ワタを外す。身はちょっと大き目に切って、鶏肉を叩いたものを炒りつけたものと一緒に鰹出汁で煮て、醤油と塩、生姜の絞り汁で味を整えて餡を引いた。皮は千切りにして、胡麻油と鷹の爪を入れたフライパンで炒めて、醤油と味醂で味をつける……要するにキンピラである。ワタは、切り分けてからワカメと合わせて、土佐酢で和える。冬瓜のそぼろ餡掛け、冬瓜の皮のきんぴら、そして冬瓜のワタとわかめの土佐酢和え。冬瓜のフルコースである。

鶏肉にしても、他の調味料にしても、まあ金額は知れたものだ。本当に、今夜の料理には金がかかっていない。けれど、この残暑厳しい折に、こういうものを食べて、暑さの中を元気に生きていきたい。そう思うから、こういうものを作るわけだ。食べるものには、ほんの少し先の未来への思いがこもる。だから、ぞんざいにしたくないのだ。

かつて僕が共同研究をしていた某大学の OB に F 君という人がいる。彼は今アメリカで仕事をしているのだが、最近の彼は冷凍のアジフライを揚げて、タルタルソースとウスターソースをかけて食べるのがささやかな楽しみになっているらしい。彼は少し恥ずかし気に、そのことをブログに書いていたけれど、人が心を保つ上で、こういうささやかな行為は無視し難い程に意義深いものだ。ソウルフードとはよくも言ったもので、人は、ささやかな食の支えがあれば、過酷な状況においても魂が折れることを避けることすらできるのだ。

今日、テレビで観たその主婦が、まるでゴミをゴミ箱に放り込んでいるようなぞんざいさで、フライパンに蒸し麺を放り込んでいる光景を目の当たりにして、そういう食の機微とでもいうようなものを根底から否定されたような気がした。この国が、金の多寡の問題ではなく、ここまで貧しくなってしまったのか、と、ただただショックを受けたのだった。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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