夜盗虫

この一月ばかり、鉢植えのバジルの葉が何者かによって食い荒されていた。虫を探したが、特に目につくこともなかったので、ぶつぶつ言いながらも、それ以上の具体的な措置はしていなかった(バジルの性質上、農薬は使いたくないので)。

で、先日の夜のこと。洗濯をするついでに、大木に成長したトマトが水不足でしおれかかっていたので水をやり、ハーブの様子を見ていたのだけど、そこに U が、カプレーゼを作るのでバジルの葉を収穫してくれ、と言う。窓際のペン立てに刺さっている鋏を出してきて、新芽を切らないように注意しながら葉を切り取っていると、一枚の葉の輪郭が妙に薄黒く、幅をもっているように見える。ん?と思い。角度を変えて見てみると……あああああ、これぁひょっとしたら!大声で U を呼びつけ、葉の裏を確認してもらうと、一目見るなり U は悲鳴をあげた。「なんかいるー!」あー、やはりそうでしたか。

葉の輪郭に沿うようにいたのは、大きな芋虫だった。葉ごと切り落とし、U が持ってきた割り箸で摘んで処理したが……うーん、これは何者なのだろうか?で、調べてみると、どうもヨトウガの幼虫らしい。夜盗虫(ヨトウムシ)と俗に呼ばれるもので、無農薬野菜を使っている人は、おそらく何度かお目にかかったことがあると思う。しかし、バジルまで食害するとは思わなかった……というわけで、とりあえずバジルの近くに防虫効果があるとされるローズマリーの鉢を移動させて、日々経過を見守っている状態である。

権力依存構造

平野新大臣も超ゴーマン!!福島原発に行った有名識者を「逮捕しろ」

恫喝めいた暴言で辞任した松本龍前復興担当相(60)に替わって就任、「堅実な実務家」との評もある平野達男復興相(57)に意外な“裏の顔”があった。内閣府副大臣だった4月、初めて福島第1原発に入り実情を調べた独立総合研究所の青山繁晴氏(58)に対し、権限もないのに圧力をかけたうえ、警察に逮捕までさせようとしたというのだ。

政府の原子力委員会の専門委員も務める青山氏が福島第1原発に入ったのは4月22日。津波で破壊された構内や吉田昌郎所長へのインタビューの映像はテレビや新聞などで世界に報じられ、青山氏は「事故の多くは人災による」と訴えた。

その後、内閣府の官僚から青山氏に対し、「なぜ、こんなことをしたのか」と問いただす電話があった。青山氏が「東電の許可も吉田所長の許可も得ている」と反論すると官僚がわびて収まったが、数日後に同じ官僚から「内閣府の原子力委員会担当の副大臣がお怒りだ」と電話があった。その副大臣が、元農水官僚で今年6月まで内閣府副大臣(その後に復興担当副大臣)を務めた平野氏だった。

そのとき、平野氏は官僚の隣におり、官僚に代わって電話口に出た。青山氏は「何の法的根拠と権限があってこういうことをするのか」と抗議した。専門委員は原子力委員会にアドバイスをする立場であり、「副大臣や委員会に指図を受けるいわれはない」(青山氏)ためだ。

平野氏は「権限はない。ただ副大臣として聞いておきたいから聞いている」と説明。「法的根拠も権限もなく役人を使って圧力をかける。強権的だ」と怒る青山氏に「ご不快ならおわびするが東電には話を聞く」と話し、青山氏が「このやり取りはすべて明らかにする」と言うと「何でもやってくれ」と応じた。

青山氏は「私も怒鳴り声だったが、平野氏は非常に高圧的で、東電への圧力もにおわせ“恫喝官僚”そのものだった」と振り返る。

さらに驚くべき展開があったのはその後だ。青山氏は「平野氏を含む首相官邸側から、警察に『青山を逮捕しろ』と圧力をかけた事実があった」と明かす。

災害対策基本法は警戒区域への立ち入りを制限しているが、青山氏は東電や吉田所長に許可を得ており、同法に抵触することはあり得ず、警察は逮捕を拒否した。「閣僚クラスにも(逮捕に)反対する声があった」と青山氏は言う。

それにしても松本前復興相にせよ平野復興相にせよ、なぜ恫喝や圧力をかけたがるのか。青山氏は「民主党は民主主義の普遍的価値に関心が薄い」と同党の体質の問題を指摘している。

(ZAKZAK, 2011.07.08)

民主党関連のこの手の「恫喝」騒ぎは、別に今に始まったことではない。震災直後には、海江田経産相が放水作業を準備していた東京消防庁職員に対して「言う通りにやらないと処分する」と恫喝した、と石原慎太郎都知事が明かし、海江田経産相が陳謝の意を発表したし、菅首相が東電等に怒鳴り散らしたというのは何度も報道されている。

「無理が通れば道理引っ込む」という諺の通り、こういうときに無理を通そうとしたら、道理を無視してかかることになる。道理が通っていなければ、当然納得し難いという話になる。そういうときに、擦り合わせようとか、相手の言わんとするところも貪欲に取り込んでベストな道を模索しようとかいう心がなければ、「俺の言う通りにしていればいいんだ」という話になって「黙ってやれ!」もしくは「こんなことはするな!」という恫喝に至る。まあ、こんなことは小学生でも理解できそうだ。

このようなことになってしまう背景には、やはり「政治主導」という言葉があるのだと思う。いや、勿論、「ちゃんとした」政治主導、なら問題はないのだ。問題が生じるのは、「政治主導」という言葉が「為政者に絶対的専決権能がある」という意味だ、と、愚かにも誤解しているからである。

こんなことを今更書くのも苦痛なのだけど、そもそも日本の行政体制というのは、官僚が実働部隊として動くようにできている。これは明治の昔から何も変わっていない。もし官僚の代わりに政治家が実働部隊となるならば、これは国の行政体制を根本から組み替えなければならない。そして、政治家が実働部隊たり得るスペシャリストにならなければならない。

たとえば、菅首相は、自分が東工大の応物を出ているから「自分は原発はよく分かっている」などと思っているそうだけど、これが本当だとしたらとんでもない話だ。核分裂反応に関して学部レベルの講義を取った位で、原子炉や原子力発電システムに関して理解しているなど、こんな思い上がりはない。原子炉はひとつの巨大なシステムで、たとえそれに関わる一分野のスペシャリストであっても、原子炉全体に関して把握している人などまず存在しないだろう。何十年も原子力関連一筋に研究や実務を重ね、その過程で学位を貰ったりしている人達ですらそうなのだ。それが、学卒でその分野の研究経験もろくにないような輩が何を思い上がっているのだろうか。

そもそも、政治家の為すべき仕事は、その管理対象に直接触れることではない。管理対象を中心とする、多くの人が関わるシステムを、そのシステム内のコンシステンスを維持しながら望むべき方向へ導くことこそ、政治というレベルで行われるべき仕事なのだ。「俺は原発に詳しい」?ハァ?って話である。

まあ、そういう思い上がった人の場合、結局自分に理解できないことが進行している気配を感ずると、不安になる。それを内包した全体をある方向に導くことに専念していればいいものを、内奥に不穏な気配を感じたところで、それのチェックや是正を信頼する者に任せることができない。スペシャリストの職能を(勿論これを盲信していてはいけないのだけど)疑い、コキおろすことだけに執着しているものだから、自分がそこに対して何らかの影響を与えなければならない、と焦る。その結果、自らの権限を以てこの話のように圧力をかける、ということになるのである。

これも今更書くことが苦痛なのだけど、こういう輩は、結局管理能力がないのだ。管理職失格なのだ。そういう人間は、小さな会社等でも厄介もの扱いされるのに、国政などに関わっていたら大迷惑である。権力に依存することでしか事を進められない為政者など、いるだけ有害なのである。

柳澤桂子氏に、一言

今日、ひょんなことから見た『クロワッサン 7月10日号』の表紙の一文に、僕は心臓が止まりそうな心地がした。

「放射線によって傷ついた遺伝子は、子孫に伝えられていきます」と、柳澤桂子さん。これからの「いのちと暮らし」を考えます。
いや、ちょっと待って下さいよ、柳澤さん。

http://red.ap.teacup.com/kysei4/627.html などを一読すれば分かるけれど、これは反原発に酔っている「だけ」の人々(誤解なきように書き添えておくけれど、僕自身は原発推進論者ではないので念のため)にしたらうってつけの文句である。そういう人々が、自らを「穢らわしい」放射線の源から遠ざけて「清い心身」を維持する(もちろんその内実は、現実から目を背け、苦しむ人々を差別的な視点から俯瞰しているだけのことである)上で、こんなに便利な引用句はない。しかも、柳澤桂子と言えば、闘病生活の中で生命科学者として数々の文章を発信し続けている人として、世間ではつとに有名である。まるで権威に依り縋らんその様は、都合の良いことを言う地震学者を厚遇してきた原発推進側と、実のところ何も変わらないロジックで動いている。

僕は、生命科学を専門分野としているわけではないけれど、あくまで一般常識の範疇で、この文句の危うさをここに主張しておかずにはいられない。放射線が簡単に DNA を「書き換え」それが親から子に「継承され得る」ものである、というこの言葉には、僕は自然科学に関わる者として断固「それは違う」と言わざるを得ないのだ。

柳澤氏がアメリカに行っていた頃というと、丁度アメリカでは「スペース・オペラ」と呼ばれる SF の小説や映画が流行っていた頃である。「オペラ」と言うと何か凄そうな印象を与えるかもしれないけれど、この言葉はおそらく soap opera という言葉と相似的に使われるようになったものだと思う。つまり、粗製濫造され、玉石混淆の態をなしていた SF の作品群を指して、このように称するわけだ(勿論、玉石混淆という言葉の示す通り、それらの中には素晴しい作品が数多く存在していることを書き添えておかねばならないが)。

この「スペース・オペラ」は、やはり時代をある程度反映していて、放射線や放射性物質によって突然変異を来した、いわゆるミュータントの類がよく登場する。勿論これは、当時の冷戦構造と、そこで行われていた核競争を反映したものであるわけだけど、実際に我々はそのようなミュータントにお目にかかれるものなのだろうか?

たとえば、独立行政法人農業生物資源研究所という研究所がある。もともと農水省傘下にあった研究所なのだけど、この研究所は茨城県内に「放射線育種場」という施設を持っている。ここは、その名の通り、放射線による突然変異を利用して新しい品種の植物を作ることを試みている。茨城県・常陸太田には、60Co を線源として、その周囲を囲むように畑がある、いわゆるガンマフィールドがあって、ここで有用品種の開発が行われている(ちなみにここも、東日本大震災以降、稼動中止している。)

突然変異というものが容易く継承・定着するならば、このガンマフィールドで活発に様々な新品種が開発されるはずだろう。しかし、実際には、このガンマフィールドで開発された新品種は数十品種程度なのだ、という。ここでは植物それ自身、もしくはその種子に対してガンマ線照射を行っているわけだけど、照射した植物は多くの場合何も影響を受けないか、枯死するかする。変異が継承されることは極めて少ないのである。

では、動物の場合はどうなのか。チェルノブイリでも、事故の後数年位の間、牛などに奇形が報告されているけれど、そのような奇形が継承される、という事例は、僕の知る限りは存在しない。その理由は簡単で、奇形で生まれてきた生命は極めて生存能力に乏しく、その多くが生まれて程なくして死んでしまうからだ。

そもそも、生殖細胞というものは、全ての細胞種の中でも最も放射線に対する感受性が強いもののひとつだが、変異が安定に継承されることはまずない。先にも書いたけれど、変異種は弱いから、自ずと死んでしまうのである。これは自然が遺伝子のコピーミスを継承させないための、ひとつの巧妙なメカニズムであるとも言える。

ネクローシスとかアポトーシスとかいう言葉を挙げるまでもなく、自死というのは、生命において重要な仕組みである。それがコピーミスを防ぐ、その強力な機構に関して、生命科学者である柳澤氏が知らない筈はない、と思うのだけど、どうしてこういう軽々な言葉を雑誌に掲載されてしまうのか。僕はただただ理解に苦しむ。氏のサイトのコンテンツを眺めると、エッセイこんなことが書いてある:

前回の原稿で、「白血病で亡くなった子供」と書きましたら、
杉浦さんとおっしゃる主婦の方から、この中には大人も入っているのではないかとご指摘をいただきました。
確かにアリソンの原著には、大人も子供も区別していないので、
子供とはかぎりません。訂正させていただきます。
アリソンの論文には、これは広島、長崎のデータだと書いてあるのですが、
原爆が落ちたあの混乱のなか、どうやってこのようなデータをとれたのかと不思議に思っていました。

これは、広島、長崎の原爆投下後の生存者にアンケートを取ったり、
直接問診したりして集めたものです。
アメリカは、このようなデータを取ることに初めから積極的でした。
のちには日本と共同で膨大なデータを作りました。
それは人類の貴重な財産です。
けれども私は、何か引っかかるものがあって、
素直に喜べないのです。
あれだけひどい目に遭わされて、
その上データまで取られた!
そういう考え方は心が狭いと思うのですが、
やっぱり悲しいです。
皆さんはどう感じられますか?

広島や長崎でアメリカの ABCC(原爆傷害調査委員会)がどのようにデータを集めていたかは、被爆者の数々の証言、たとえば『はだしのゲン』などを読んでも書いてある、よく知られている話だ。それを知らない人が、人間の被曝に関して、あんなことを軽々に雑誌に書かせては、これはいけないんじゃないでしょうかね?

ちなみにこの件に関しては、『クロワッサン』サイトでお詫びが出ている。しかし、毎度毎度この手の話を見聞きする度に思うのだけど、「何」が「どのように」問題なのか、という検証なしに、真の謝罪などあり得ないと思う。「総括せよ、自己批判せよ」とまで言う気もないのだが、でも、こういうことはちゃんとしないとね。たしか、『クロワッサン』って、1999年10月10日号でも差別的表現を用いたことが問題になったんでしたよね?またか、と、皆思ってますよ。

英語は難しいなあ

先回の blog に書いたので、ふと聴きたくなって、納戸の奥から Phoebe Snow の "Never Letting Go" を出して iTunes / iPod に入れた。余談だが、もともとこの Phoebe Snow という人は、ニューヨークでブルース等の弾き語りをギターでやっていた人で、そのギターが聴ける 1st solo の "Phoebe Snow" の方がお薦めです(僕の持っているのは初期のデモも入っていて非常によろしい)……ただ、僕の大嫌いなロン・カーターがベースを弾いているのがちょっとアレなのだけど。まあそれはさておき、Phoebe Snow の "Never Letting Go" を聴き返していて、ん?と引っかかったのだった。

更に納戸の奥を漁ると、Stephen Bishop の "On and On" というベスト盤があるわけだが、これも今迄入れていなかったのを iTunes に入れ、聴き返す……うーん……なるほど。いや、何に引っかかったのかというと、歌詞の一節に、

I'm crazy about you, but I can't live without you.
というのが出てくるのであるが……日本人がもし同じことを書くならば、
I'm crazy about you, and I can't live without you.
と書いてしまいかねないなあ、と思ったのである。日本の学校の英語の授業でこの but / and が空白になった問題が出たとしたら、but という回答に自信を以て×をつける先生がいそうな気がする。しかし、だ。英語的に考えると、ここではむしろ but を使う方が正解なのである。

何故かというと、単純な理屈で、「単純肯定の文と単純否定の文をつなぐ」ときは but を使うことになっているからだ。日本語の上で考えると、「君に夢中なんだ」→「君なしでは生きていけないんだ」の→は「だから」なわけだけど、"I am crazy about you."→"I cannot live without you."の間の→は "and" ではなく "but" になるわけ。もちろん意味は日本語で「だから」をつないだ場合と何ら変わらない、ということになる。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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