Never Letting Go ―― あんな引き合いに出してほしくない

松本龍氏の今回の顛末は、まあお粗末としか言いようがない。まあ彼が宮城県知事相手に不機嫌になることに、三分の理がないこともない……宮城県の復興計画立案には、野村総研が深く深く食い込んでいて、復興計画を討議する会議の委員は、十数名のうち、宮城県内在住者がわずかに二名、という状況である。なんでも、第二回の会議のときは「委員のほとんどが東京近郊に在住のため」、県知事達の方が東京に出張して、東京都内で会議が行われた、という。まあこんな風な、ちょっとにわかには信じ難いような状況になっているのだ。それに苛立っている、というのなら、まあ分からないでもない。

しかし、実際のやりとりがどうだったかは、報道されている通りである。トドメはあの「オフレコ」発言である。書いたところはそれで終わり、なんて言われたら、そりゃメディアは全力でネガティブな報道をするに決まっている。そんなことも分からない人があの震災の復興をやり仰せるとは、ちょっと思えないのだ。

まあ、それはさておき、僕が引っかかったのは、彼が会見で、カズオ・イシグロの "Never Let Me go"(邦題『わたしを離さないで』) と Phoebe Snow の "Never Letting Go" を引き合いに出したことだ。そもそも、あの文脈で何故なのか、どうにも分からない。朝日新聞の記事『「岩手でキックオフ、3日でノーサイド」復興相会見全文』から該当部を引用すると:

いろいろ言いたいことはあるが、謎かけをしようと思ったが、今日、これからいなくなるから。私はこれからは、4月に亡くなった歌手でフィービー・スノーというのがいる。また、5、6年前に出たカズオ・イシグロの本ではないが、これからは子どもたちのためにネバー・レット・ミー・ゴー。私は被災された皆さんたちから離れませんから。粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力をしていきたいと思っている。
たしか、僕の記憶に間違いがなければ、『わたしを離さないで』っていうのは、ドナーになることを運命付けられ、人工生殖によって生まれ、育まれてきた子供達の話だったはずだ。まあ、「あまりに短い人生を、人はどのように人として生きるのか」という主題から、過酷な運命にある被災者の子供達の生きる姿を想起した……とかいうなら分かるけれど、「私は被災された皆さんたちから離れませんから」ってところからの想起……はぁ?って感じだ。本当に『わたしを離さないで』を読んでるんですか、松本さん?

Phoebe Snow にしたってそうだ。"Never Letting Go" ってのは、彼女の同名アルバムに入っている曲だけど、Stephen Bishop(シンガーソングライターで、フィル・コリンズが歌った "Separate Lives" を書いた人)の手になる曲で、もともとは Stephen Bishop 自身が Phoebe Snow のアルバムの出る前年にリリースした 1st solo に入れたのが初出だったはずだ。二人のテイクを聞くと、まるで The Isley Brothers が James Taylor の "Don't Let Me Be Lonely Tonight" をカヴァーしたときの二者の関係みたいに感じられる。まあ、あれ程アレンジを変えているわけではないんだけど、どちらの場合にも言えるのは、初出、カヴァーの双方とも、いずれ劣らぬ名曲である、ということだ。

この歌詞を読むと……うーん。切ない切ない詞なんだけど、やはり、松本さん、アンタまともな思考じゃないって。それか、題名だけで平気な顔して作品を語ってるのか。到底、彼のようなシチュエーションで引き合いに出すようなものではないと思うんだが。

まあ、でも、これもひとつのチャンスなのかもしれない。Phoebe Snow、そして Stephen Bishop に、この機会にスポットライトが当たってくれれば、それでいいことなのかもしれないしね。それに、あの愚にもつかない発言で、この曲の価値にいささかの瑕疵が生じることもないし。

ケータイを拾う / ニギス

夕方、と言っても午後7時過ぎのことだけど、近所のイオンで買い物をしていた。この季節は、沿岸で獲れる地の魚が出ているのだが、足の速いものが多いので、この時間帯には半額の札が貼られて投げ売りされていることが多い。見ると、ニギスが数尾入ったのが二桁の値段。まあこれを買っておきましょう、と籠に入れた。

で、レジで会計を済ませ、荷造りをしようと台のあるところまで歩いてきたとき、目前の台の上にケータイが置かれていることに気付いた。周囲を見回すが、持ち主らしき人の姿はない、目を上げると、その台で荷物をまとめたらしき女性が歩き去って行くのが目に入ったので、そのケータイを抱えて慌てて走る。女性に声をかけると、驚いたような顔で「わ、わたしのじゃ、ない」……そんなに怖いんですかね、僕。

しかし、これ、本当にケータイなんだろうな……開いてみると、確かにケータイである。うーむ。しかしなあ。最近の人達って、ケータイ依存というか、極端な話、自宅の電話番号もケータイなしでは分からない、という人が結構いるみたいじゃないですか。これなかったら、冗談じゃなく、日常生活に支障を来すに違いない。

スーパーには、煙草のカートンとか進物を扱っているサービスカウンターが大抵あるものだ。ここにも……と辺りを見回すと、あったあった。そこのオバサンにこのケータイを渡し、事情を説明する。あのオバサン、「有り難うございます」だけで、僕の身分確認も何もしなかったけれど、あれでいいのだろうか。まあとにかく、ケータイはちゃんと渡したから、もう後はイオンに任せることにする。

帰宅後、ニギスの調理にかかる。この魚は身が非常に柔らかいので、包丁でおろすと結構大変そうだなあ……と、ネットで検索してみると、手開きしている人の存在を確認。では、ということで、包丁で腹の掃除をしてから、指を突っ込んで背骨を抜き出してみると……できたできた。身を崩さないように気をつける必要があるけれど、手開きで簡単に骨を除去できる。これに衣をつけて、今日はニギスと舞茸の天麩羅を作る。うんうん。コストパフォーマンスは極めてよろしい。

所属教会の子供達へ

布池教会の小中学生の皆さん、今日は「子供のミサ」ご苦労様でした。ボーイスカウトの人達は、朗読もやったのですね。

ところで、皆さんにいくつか聞きたいことがあります。そして、話しておきたいことがあります。どうでもいい話と思うかもしれませんけれど、大事なことです。少なくとも、私にはそう思えることなのです。

まず、この「子供のミサ」ですけれど、皆さんはこれが本当に「子供のミサ」だと思うでしょうか?私には、どうしてもそうは思えないのです。そもそも「子供のミサ」は、普通のミサと何が違うのでしょうか。「子供のミサ」という日本語は「子供が運営するミサ」の意味か、「子供のためのミサ」の意味か、どちらかだろうと思います。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、おそらく「子供が運営するミサ」のつもりで、この「子供のミサ」を行っているのだろうと思います。では、このミサで子供、つまりあなた達がしていることは何でしょう。具体的には、ミサ中の朗読、共同祈願、そして献金集めを皆さんが行っているのですね。

今日のミサでもそうでしたけれど、「子供のミサ」で朗読をする子達は、読んでいる最中に必ずつっかえてしまったり、文章の区切りが分からずに、覚束ない調子で読んだりしていますね。皆さんを指導する大人達は、それでも何も注意しないのだろうと思います。けれども、そんな風に朗読をするのは、いけないことなのです。少なくとも、そういう風に朗読をする人は、カトリックのミサでの朗読の意味が分かっていないのです。

キリスト教というものが世に定着してきたのは、もちろんキリストが死んだ後のことですよね。具体的には、紀元1世紀の後半から、現在に至るまで、2000年程の年月を経ているわけです。キリスト教が出てきた頃、世の中には今の皆さんが通っているような学校はありませんでしたから、世の中のかなりの割合の人は文字を読み書きすることができませんでした。一説には、初代教父と呼ばれるシモン・ペトロも読み書きができなかったと言われているのです。それなのに、キリスト教は文字を欠かすことのできない宗教ですよね……聖書、詳しく言うならば、旧約の各文書、そして新約の福音書、使徒書、パウロらによる書簡、と様々な文書がありますけれど、これらは全て文字のかたちで広まったわけです。では、文字を読めない人達は、そういったものに触れることができなかったのでしょうか?

答は勿論、「否」です。この時代から、教会では、文字を読み書きできる人達が、共同体の信者全体のために、聖書や書簡を、皆の集まっているところで読み聞かせていたのです。そう、これこそが、ミサでの朗読のはじまりなのです……と、こんな話を聞くと、皆さんはこう思うかもしれませんね。「今の世の中は皆文字を読めるんだから、そんなことどうだっていいじゃないか」って。でも、本当にそうでしょうか?私達がミサのときに手にしている『聖書と典礼』は、どうしてサイズの小さいものと大きなものがあるのでしょう?あれは、御高齢で視力が衰えた信者の方が多く、そういった人達が読めるように、と配慮されて、あの大きなサイズのものが用意されるようになったのです。つまり、教会には今でも、朗読を聞くことを必要としている人達がいるのです。そういう人達も、ミサにあずかることができるように、私達は朗読をしなければならないのです。

皆さん、今朝のミサのことを思い返してみましょうか。読み間違ったり、文章の区切りが分からずに覚束ない声の調子になったりしていたあなた達は、おそらく、ミサの前に朗読の練習をしていなかったのでしょう。あなた達は、国語の時間に教科書の音読が当たったとき、あんな風に読みますか?先生は、そんな風に読んだあなた達に、何も言わないのですか?そんなことはないんじゃないでしょうか。学校の先生は、皆の前で代表して音読するんだから、もっとちゃんと読みなさい、読めないなら練習しなさい、そう言うと思うのです。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、学校の先生のように言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。

そして共同祈願ですけれど、いつもいつも、同じ内容が二つ三つと重なりますよね。今日も「暑くなりますが……」という内容の祈願が三つも連続しましたね。あれも、皆さんが共同祈願というものの意味を分かっていないから、ああいうことになるのです。

共同祈願というのは、そのとき当たった人が自分のお願いを言う場ではありません。「共同」と頭につくんですから、皆で共に祈願すべきことを、当たった人が皆を代表して言う。それが共同祈願なのです。少し難しい言葉かもしれませんが、「共同」ということばを聞いたカトリック信者は「共同体」ということばをすぐに連想します。教会に集っている皆の集まりを、このようなことばで言うのですが、共同祈願というのは、共同体全体で、そのような願いを皆で言葉を合わせて祈願するのです。

皆で共に祈願すべきこと、と書きましたけれど、もっと噛み砕いて言うならば、「みんなで神様にお願いすること」のことですね。それは、本当はたくさんたくさんあるはずです。でも、ミサの時間は限られていますし、その中の共同祈願の時間は更に限られたものです。ですから、祈るべき対象と、その祈りの内容をよく考えて、当たった人達皆で同じことを言わないように調整をして、限られた時間の中で、少しでも広く、そして深くなるように注意をして、祈願を行う。それが、共同祈願というものに求められることなのです。では、皆さんの今日の、そして今までの共同祈願はどうでしたか?冬には新型インフルエンザのお祈りがいくつも重なりましたよね。春には東日本大震災のお祈りがいくつも重なりましたよね。重なることが絶対にダメというのではありません。大切なのは、祈願する人達が、共同体のために、そしてひろく世のため人のために、皆でお祈りできるように配慮することなのです。

限られた時間で、そのようなお祈りの配慮をするためには、何が必要でしょうか。少なくとも、その日当たった人達が皆で持ち寄ったお祈りを事前にチェックして、今日は誰が何を祈願するのか、をちゃんと調整する必要がありますよね。でも、今まで皆さんは、そういう調整をしたことがあったでしょうか。おそらく一度もないんじゃないだろうか、そうとしか私には思えないのです。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、こういうことを言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。

私は「子供のミサ」の歌も良くないと思っています。典礼聖歌集やカトリック聖歌集の歌が難しいから、子供にも親しみやすい歌を歌うようにしよう……という配慮なのかもしれません。しかし、私には不思議に思えてなりません。皆さんは、あの歌が親しみやすい、と思っているのでしょうか?ああいう曲調の歌は、1970年代辺りに流行った、いわゆるフォークソングの体裁をそのまま使っています。そういう歌は、メロディにシンコペーションと呼ばれる独特の節回しがあるので、当日いきなり譜面を見て歌うのが難しいのです。事前に練習をしているのならいいのかもしれませんけれど、皆さんが大きな声で、会衆を先導して歌っている姿を、私は教会で見たことが一度もありません。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、こういうことを言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。

「子供のミサ」について、私が気になっているいくつかの問題を指摘しました。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、こういうことを言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。もしあのミサが「子供が運営するミサ」であるというならば、運営に関する指導をしない大人達は、いい加減な結末に至ったミサの責任を、あなた達子供に押し付けているだけです。こんなひどい話はありません。もしあのミサが「子供のためのミサ」だと言うならば……もう、あなた達にもお分かりでしょう。あんなミサが、あなた達子供の「ためになる」なんて、そんなことがある筈がないのです。

ずれ(2)

前回の blog に書いた問題だが、もう少し検証を行うために、Mac に ptexlive をインストールした。皆さんご存知かと思うが、Mac OS X にはヒラギノという極めて高品位なフォントが付属しているので、このヒラギノを PDF に埋め込むようにフォントマップを書いてセッティングを済ませた。

うーん……しかし、ずれるんだなあ。縦書きでいい例が見当らなかったので、中学生の国語のテスト問題を LaTeX で版組みしてみたのだけど、左が PDF をそのまま Adobe Acrobat で印刷したもの、右は一度 pdf2ps で Postscript に変換した後「プレビュー」で変換・印刷したものである。

20110702-pdf.JPG20110702-ps.JPG

まあ、先にも書いたけれど、横書きしている分には、このような問題は何も発生しない。だからいいいと言えばいいんだろうけれど……でもなあ。一応 pLaTeX だからなあ……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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